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第8話:宝物の喪失
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王立化粧品研究所の奥にある保管室は、セシリアにとって聖域とも呼べる場所だった。
彼女は古い革装丁のノートを、まるで壊れ物を扱うようにそっと開いた。
ページからは、懐かしいラベンダーの香りと、インクの匂いが漂う。
それは、セシリアに化粧品学の基礎を教えてくれた亡き祖母が遺した研究日誌だった。
余白に書き込まれた祖母の筆跡。
『美しさは、装うものではなく、その人を守る鎧である』
幼い頃、その言葉の意味がわからなかったセシリアに、祖母は優しく微笑んで教えてくれたものだ。
今では、その言葉がセシリアの研究者としての指針となっている。
このノートには、植物の効能や調合技術が記されていた。
セシリア自身の追記も加わり、金銭には代えられない、彼女の人生そのものといっても過言ではない宝物だ。
「……よし、今日の検証データも追加して」
セシリアは万年筆を置き、満足げに息をついた。
彼女はノートをもとの場所に戻し、部屋を出た。
そして、一息つくために紅茶を淹れた。
良い香りが漂ってくる。
一口飲んで、カップを置いた。
次の瞬間だった。
腹に響くような爆発音が、研究所を揺らした。
ガラスが砕ける音と、誰かの悲鳴。
セシリアは弾かれたように立ち上がり、廊下へと飛び出した。
焦げ臭い煙が漂ってくる。
発生源は、アリスが使用している第二実験室だ。
「火事だ! 消火剤を持ってこい!」
研究員たちが右往左往する中、セシリアは冷静さを保ちつつ現場へ急行した。
第二実験室の扉は開け放たれ、黒煙が噴き出している。
部屋の中では、実験台の一部が炎を上げていた。
「いやぁぁ! 熱い、怖いよぉ!」
アリスが床にへたり込み、パニック状態で叫んでいる。
彼女の近くには、引火性の高い溶剤の瓶が転がっていた。
セシリアは即座に状況を判断し、近くにあった防火布を掴むと、炎の上へと被せた。
酸素を遮断し、手際よく消火活動を行う。
幸い、ボヤ程度で済み、火はすぐに消し止められた。
「……皆様、怪我はありませんか」
セシリアは煤で汚れた顔を拭うこともせず、周囲を見回した。
研究員たちは咳き込んでいるが無事のようだ。
そして、アリス。
彼女は指先をさすりながら、大粒の涙を流していた。
「セシリア様ぁ……、ううっ、指が、指がぁ……」
セシリアが近づいて確認すると、アリスの指先はわずかに赤くなっている程度だった。冷やせば跡も残らないだろう軽度の火傷だ。
だが、セシリアの視線は、アリスの足元に落ちている残骸に釘付けになった。
黒く焦げ、半分以上が炭化した革の表紙。
燃え残ったページに見える、懐かしい筆跡。
「……あ」
セシリアの喉から、ひきつった音が漏れた。
それは、先ほどまで彼女が大切に保管室で読んでいたはずの、祖母の研究ノートだった。
なぜノートがここにあるのか。
答えは一つしかない。
セシリアが保管室を出たあと、アリスが勝手に持ち出したのだ。
「これ……、は……」
セシリアは震える手で、炭化したノートを拾い上げようとした。
だが、触れた瞬間にボロボロと崩れ落ち、灰となって床に散らばった。
祖母の努力の結晶である知識が。
幼い頃の思い出が。
セシリアの心の支えが、灰になった。
「なんで……、勝手に……」
セシリアが顔を上げ、アリスを問い詰めようとしたその時、背後から荒々しい足音が近づいてきた。
「アリス! 無事か!」
テオドールだった。
騒ぎを聞きつけたのだろう、血相を変えて飛び込んできた彼は、セシリアの横を素通りし、真っ直ぐにアリスのもとへ駆け寄った。
「テオドール様ぁ! 怖かったよぉ、痛いよぉ!」
「僕が来たからもう大丈夫だ。どこを怪我した? これか? すぐに医務室へ行こう」
テオドールはアリスの赤くなった指先を愛おしげに包み込み、心配そうに眉を歪めた。
そして、ようやくセシリアの存在に気づいたように振り返る。
セシリアは、足元の灰を見つめたまま、立ち尽くしていた。
その顔は蒼白で、唇は血の気を失っていた。
「……殿下。アリス嬢が、私の保管室から、許可なく祖母の形見の研究ノートを持ち出しました。そして、不注意な実験でそれを燃やしてしまいました」
セシリアの声は、自分でも驚くほど静かだった。
あまりの喪失感に、感情が追いついていなかったのかもしれない。
ただ事実を告げた。
テオドールはちらりと床の灰に目をやり、それから困ったようにセシリアを見た。
「セシリア。今はそんなことを言っている場合か?」
テオドールの言葉は、セシリアの耳を疑わせるものだった。
彼女は古い革装丁のノートを、まるで壊れ物を扱うようにそっと開いた。
ページからは、懐かしいラベンダーの香りと、インクの匂いが漂う。
それは、セシリアに化粧品学の基礎を教えてくれた亡き祖母が遺した研究日誌だった。
余白に書き込まれた祖母の筆跡。
『美しさは、装うものではなく、その人を守る鎧である』
幼い頃、その言葉の意味がわからなかったセシリアに、祖母は優しく微笑んで教えてくれたものだ。
今では、その言葉がセシリアの研究者としての指針となっている。
このノートには、植物の効能や調合技術が記されていた。
セシリア自身の追記も加わり、金銭には代えられない、彼女の人生そのものといっても過言ではない宝物だ。
「……よし、今日の検証データも追加して」
セシリアは万年筆を置き、満足げに息をついた。
彼女はノートをもとの場所に戻し、部屋を出た。
そして、一息つくために紅茶を淹れた。
良い香りが漂ってくる。
一口飲んで、カップを置いた。
次の瞬間だった。
腹に響くような爆発音が、研究所を揺らした。
ガラスが砕ける音と、誰かの悲鳴。
セシリアは弾かれたように立ち上がり、廊下へと飛び出した。
焦げ臭い煙が漂ってくる。
発生源は、アリスが使用している第二実験室だ。
「火事だ! 消火剤を持ってこい!」
研究員たちが右往左往する中、セシリアは冷静さを保ちつつ現場へ急行した。
第二実験室の扉は開け放たれ、黒煙が噴き出している。
部屋の中では、実験台の一部が炎を上げていた。
「いやぁぁ! 熱い、怖いよぉ!」
アリスが床にへたり込み、パニック状態で叫んでいる。
彼女の近くには、引火性の高い溶剤の瓶が転がっていた。
セシリアは即座に状況を判断し、近くにあった防火布を掴むと、炎の上へと被せた。
酸素を遮断し、手際よく消火活動を行う。
幸い、ボヤ程度で済み、火はすぐに消し止められた。
「……皆様、怪我はありませんか」
セシリアは煤で汚れた顔を拭うこともせず、周囲を見回した。
研究員たちは咳き込んでいるが無事のようだ。
そして、アリス。
彼女は指先をさすりながら、大粒の涙を流していた。
「セシリア様ぁ……、ううっ、指が、指がぁ……」
セシリアが近づいて確認すると、アリスの指先はわずかに赤くなっている程度だった。冷やせば跡も残らないだろう軽度の火傷だ。
だが、セシリアの視線は、アリスの足元に落ちている残骸に釘付けになった。
黒く焦げ、半分以上が炭化した革の表紙。
燃え残ったページに見える、懐かしい筆跡。
「……あ」
セシリアの喉から、ひきつった音が漏れた。
それは、先ほどまで彼女が大切に保管室で読んでいたはずの、祖母の研究ノートだった。
なぜノートがここにあるのか。
答えは一つしかない。
セシリアが保管室を出たあと、アリスが勝手に持ち出したのだ。
「これ……、は……」
セシリアは震える手で、炭化したノートを拾い上げようとした。
だが、触れた瞬間にボロボロと崩れ落ち、灰となって床に散らばった。
祖母の努力の結晶である知識が。
幼い頃の思い出が。
セシリアの心の支えが、灰になった。
「なんで……、勝手に……」
セシリアが顔を上げ、アリスを問い詰めようとしたその時、背後から荒々しい足音が近づいてきた。
「アリス! 無事か!」
テオドールだった。
騒ぎを聞きつけたのだろう、血相を変えて飛び込んできた彼は、セシリアの横を素通りし、真っ直ぐにアリスのもとへ駆け寄った。
「テオドール様ぁ! 怖かったよぉ、痛いよぉ!」
「僕が来たからもう大丈夫だ。どこを怪我した? これか? すぐに医務室へ行こう」
テオドールはアリスの赤くなった指先を愛おしげに包み込み、心配そうに眉を歪めた。
そして、ようやくセシリアの存在に気づいたように振り返る。
セシリアは、足元の灰を見つめたまま、立ち尽くしていた。
その顔は蒼白で、唇は血の気を失っていた。
「……殿下。アリス嬢が、私の保管室から、許可なく祖母の形見の研究ノートを持ち出しました。そして、不注意な実験でそれを燃やしてしまいました」
セシリアの声は、自分でも驚くほど静かだった。
あまりの喪失感に、感情が追いついていなかったのかもしれない。
ただ事実を告げた。
テオドールはちらりと床の灰に目をやり、それから困ったようにセシリアを見た。
「セシリア。今はそんなことを言っている場合か?」
テオドールの言葉は、セシリアの耳を疑わせるものだった。
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