「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上

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第17話:外された王太子妃の仮面

「……すまない。声を荒げるつもりはなかった。ただ、君にはもう少し、アリスの可能性を信じてやってほしいんだ。君が体調不良で休んでいる間、僕が責任を持って彼女をエスコートする。それでいいだろう?」

 テオドールは一方的に話を締めくくろうとした。
 彼の目には、嫉妬深い妻をなだめる優しい夫という自己陶酔の色が見える。

 セシリアは、スッと立ち上がった。

「……承知いたしました」

 反論は、もうしない。
 これ以上言っても無駄だ。

 彼は自分の見たい現実しか見ない。
 その現実が崩壊した時の責任を、自分一人で負う覚悟もないくせに。

 セシリアは、この瞬間、彼に対する王太子妃としての義務を完全に放棄した。

「では、私は体調不良ということで、お部屋に下がらせていただきます。夜会の準備、どうぞお気張りくださいませ」

 セシリアは優雅にカーテシーをし、サロンを後にした。

 自室に戻ったセシリアは、鏡の前に座った。

 鏡に映る自分は、いつものように完璧なメイクを施し、感情を押し殺した能面のような顔をしている。

 唇には、鮮やかな紅。
 王太子妃という役割を演じるための、最後の武装だ。

 彼女はドレッサーから一枚のコットンを取り出した。
 そして、躊躇なく唇に押し当てる。

 紅が拭い取られ、コットンの白を赤く染める。
 完璧だった輪郭が崩れ、素の唇の色が露わになる。

 それは、ただのセシリア・オルコットという一人の女性に戻る儀式だった。

「……警告はしましたわ」

 鏡の中の自分に向かって、静かに呟く。

「私が止めたのに、貴方様が振り切った。この後に起こる全ての不祥事は、貴方様の責任です」

 セシリアは口紅のついたコットンを、ゴミ箱へと捨てた。
 それはまるで、夫への未練を捨て去るようだった。

 部屋の隅には、既に梱包を終えたトランクが一つだけ置かれている。
 中にはドレスも宝石も入っていない。

 あるのは研究データと、最低限の着替え、そして商会との契約書だけ。
 王宮から持ち出すのは、自分が一から作り上げたものだけだ。

 彼から与えられたものは、何一つ持っていかない。
 それがセシリアの矜持だった。

「……あら?」

 窓の外から、楽しげな声が聞こえてくる。
 中庭を見下ろすと、テオドールとアリスが歩いているのが見えた。

 アリスは真新しいピンク色のドレスに身を包み、はしゃいでくるくると回っている。
 テオドールはそれを目を細めて眺めている。

 まるで、世界の中心にいる恋人同士のようだ。

 外交特使の前で、その無邪気さがどう映るか。
 マナーを知らない令嬢が、王太子のパートナーとして振る舞うことが、どれほど危険な火遊びか。

 彼らはまだ、そのことを知らない。

「行ってらっしゃいませ」

 セシリアは窓枠に手をかけ、冷ややかに微笑んだ。
 その微笑みは、もう王太子妃の仮面ではなかった。

 獲物が罠にかかるのを待つ、狩人のような冷徹な笑みだった。

「そのパーティーが、貴方様たちの終わりの始まりになることを祈っております」

 セシリアはカーテンを閉ざし、部屋の明かりを消した。
 暗闇の中で、彼女の瞳だけが、来るべき明日を見据えて青白く輝いていた。

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