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第20話:削ぎ落とされた空間と夫の解釈
月明かりだけが頼りの薄暗い部屋で、テオドールは震える手でその紙片を凝視していた。
それは、彼が想像していたような、感情的な言葉が綴られた置き手紙ではなかった。
王国の法に則った、正式な離縁合意書だった。
甲乙、テオドール・フォン・サンタリア。
丙、セシリア・オルコット。
両名は婚姻関係を解消し、丙は王籍を離脱するものとする。
そして、その書類の末尾には、既に二つの署名がなされていた。
一つは、セシリアの流麗で迷いのないサイン。
もう一つは――国王陛下、つまりテオドールの父の署名と、承認印である。
「……父上が、認めた……?」
テオドールの思考が空転する。
いつの間に?
セシリアが父と面会した記録などないはずだ。
いや、自分がアリスの世話や公務の尻拭いに追われている間に、彼女は水面下で動いていたのか。
テオドールは書類をテーブルに放り出し、乾いた笑い声を漏らした。
「はは……、なんだこれ。冗談がきついよ、セシリア」
彼は部屋を見渡した。
あまりにも整然とした部屋。
生活感が削ぎ落とされた空間。
テオドールの視線が、ドレッサーの上に置かれた豪奢な宝石箱に留まった。蓋が開け放たれている。
中には、彼が贈った大粒のエメラルドのネックレスや、ダイヤモンドのブレスレットが、そのまま残されていた。
クローゼットを開ければ、最高級のシルクで仕立てられたドレスたちが、主を失って虚しく吊り下がっている。
「……何も、持っていっていないじゃないか」
テオドールは宝石箱からネックレスを取り上げた。
これは結婚一周年記念に贈ったものだ。
当時の国庫からかなりの額を出して購入した、王太子妃に相応しい逸品。
彼女はこれを置いていった。
金目のものも、地位の象徴であるドレスも、全て。
テオドールはその事実を、自分に都合よく解釈し始めた。
(そうだ、荷造りが間に合わなかったんだ。それか、僕を試しているんだ)
彼女は嫉妬しているのだ。
アリスばかり構う自分に腹を立て、家出という強硬手段に出た。
だが、本気で二度と戻らないつもりなら、これほどの財産を置いていくはずがない。
これらは彼女にとって戻ってくるための人質なのだと、彼は結論づけた。
「まったく……、君らしくない感情的な行動だ」
テオドールはネックレスを箱に戻し、少し安堵したように息を吐いた。
「頭を冷やせば戻ってくるさ。外の世界で一人で生きていくのがどれだけ大変か、君だって知らないわけじゃないだろう」
彼は、セシリアが箱入り娘の元侯爵令嬢であることを思い出した。
彼女には生活力がない。
王宮の庇護がなければ、ドレス一着も買えないはずだ。
それに、彼女の研究室もここにある。
あんなに熱心に開発していた化粧品を、放り出せるわけがない。
「数日もすれば、『申し訳ありませんでした』と泣いて帰ってくる」
テオドールはそう確信し、離縁状を引き出しの奥に押し込んだ。
見なかったことにすればいい。
彼は自分の楽観的な予測にすがりつき、空っぽのベッドに一人で潜り込んだ。
シーツからは、微かに冷たい香りがした。
それはセシリアの香りではなく、消毒されたリネンの無機質な匂いだった。
それは、彼が想像していたような、感情的な言葉が綴られた置き手紙ではなかった。
王国の法に則った、正式な離縁合意書だった。
甲乙、テオドール・フォン・サンタリア。
丙、セシリア・オルコット。
両名は婚姻関係を解消し、丙は王籍を離脱するものとする。
そして、その書類の末尾には、既に二つの署名がなされていた。
一つは、セシリアの流麗で迷いのないサイン。
もう一つは――国王陛下、つまりテオドールの父の署名と、承認印である。
「……父上が、認めた……?」
テオドールの思考が空転する。
いつの間に?
セシリアが父と面会した記録などないはずだ。
いや、自分がアリスの世話や公務の尻拭いに追われている間に、彼女は水面下で動いていたのか。
テオドールは書類をテーブルに放り出し、乾いた笑い声を漏らした。
「はは……、なんだこれ。冗談がきついよ、セシリア」
彼は部屋を見渡した。
あまりにも整然とした部屋。
生活感が削ぎ落とされた空間。
テオドールの視線が、ドレッサーの上に置かれた豪奢な宝石箱に留まった。蓋が開け放たれている。
中には、彼が贈った大粒のエメラルドのネックレスや、ダイヤモンドのブレスレットが、そのまま残されていた。
クローゼットを開ければ、最高級のシルクで仕立てられたドレスたちが、主を失って虚しく吊り下がっている。
「……何も、持っていっていないじゃないか」
テオドールは宝石箱からネックレスを取り上げた。
これは結婚一周年記念に贈ったものだ。
当時の国庫からかなりの額を出して購入した、王太子妃に相応しい逸品。
彼女はこれを置いていった。
金目のものも、地位の象徴であるドレスも、全て。
テオドールはその事実を、自分に都合よく解釈し始めた。
(そうだ、荷造りが間に合わなかったんだ。それか、僕を試しているんだ)
彼女は嫉妬しているのだ。
アリスばかり構う自分に腹を立て、家出という強硬手段に出た。
だが、本気で二度と戻らないつもりなら、これほどの財産を置いていくはずがない。
これらは彼女にとって戻ってくるための人質なのだと、彼は結論づけた。
「まったく……、君らしくない感情的な行動だ」
テオドールはネックレスを箱に戻し、少し安堵したように息を吐いた。
「頭を冷やせば戻ってくるさ。外の世界で一人で生きていくのがどれだけ大変か、君だって知らないわけじゃないだろう」
彼は、セシリアが箱入り娘の元侯爵令嬢であることを思い出した。
彼女には生活力がない。
王宮の庇護がなければ、ドレス一着も買えないはずだ。
それに、彼女の研究室もここにある。
あんなに熱心に開発していた化粧品を、放り出せるわけがない。
「数日もすれば、『申し訳ありませんでした』と泣いて帰ってくる」
テオドールはそう確信し、離縁状を引き出しの奥に押し込んだ。
見なかったことにすればいい。
彼は自分の楽観的な予測にすがりつき、空っぽのベッドに一人で潜り込んだ。
シーツからは、微かに冷たい香りがした。
それはセシリアの香りではなく、消毒されたリネンの無機質な匂いだった。
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