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第22話:明かされた事実
翌日から、王宮はまるで舵を失った船のように迷走を始めた。
王太子の執務室。
テオドール・フォン・サンタリアは、目の前に積み上がった書類の塔を呆然と見上げていた。
それは、わずか一日で蓄積された未決裁の案件だった。
「で、殿下。こちらの財務報告書の承認をお願いいたします。期限が迫っております」
「殿下、南部の干ばつ対策に関する陳情書ですが、前回の対策費の余剰分をどこに回すか、ご指示を」
「殿下、来月の晩餐会の招待客リストですが、席次表の確認を……」
次々と押し寄せる文官たちの声に、テオドールの頭痛は激しさを増すばかりだった。
これまでは、どうしていたんだ?
テオドールは記憶を辿る。
そうだ、朝、執務室に来ると、机の上にはすでに整理された書類が置かれていた。
重要な箇所には赤い付箋が貼られ、『※こちらの予算は前年比プラス5%で調整済み』『※この陳情は現場視察が必要です』といったセシリアの簡潔なメモが添えられていた。
彼はただ、そのメモ通りにサインをするか、「承認」と言うだけでよかったのだ。
だが今、目の前にあるのは、無機質で難解な数字の羅列だけ。
メモはない。
付箋もない。
全てを彼自身の頭で判断し、責任を負わなければならない。
「……ま、待ってくれ。少し休憩させてくれないか」
テオドールは額の汗を拭い、弱々しく手を挙げた。
文官たちが顔を見合わせ、無言のまま失望の色を浮かべるのが見えた。
かつて彼らが向けていた尊敬の眼差しは、実は隣にいた賢明な王太子妃に向けられていたものだったのだと、テオドールは嫌でも悟らされた。
重苦しい空気を切り裂くように、執務室の扉が開かれた。
入ってきたのは、ふくれっ面のアリス・バーネットだ。
「もうっ! テオドール様ぁ! ひどいんですよぉ!」
彼女は文官たちの冷ややかな視線など意に介さず、テオドールの机に駆け寄った。
「私のドレス、お針子が予算オーバーですって言うんです! セシリア様がいたときは、何でも『いいわよ』って通してくれたのに! あの人、いなくなった途端に意地悪するなんて、すっごく無責任じゃないですかぁ?」
アリスは地団駄を踏んだ。
テオドールのこめかみがピクリと引きつった。
今、彼は国の重要案件で頭がパンクしそうなのだ。
ドレスの予算如きで騒がないでほしい。
「アリス、今は仕事中だ。それに、予算がないなら少し安い生地にすればいいだろう」
「やだやだ! 一番高いシルクがいいの! テオドール様が『君には最高級が似合う』って言ったじゃないですかぁ!」
キャンキャンと響く高い声が、頭痛を加速させる。
いつもなら可愛いワガママと思えたそれが、今はただの騒音にしか聞こえない。
「……セシリア様がいないと、本当になんにも回らないんですねぇ。あの人、王太子妃のくせに仕事を放り出して家出しちゃうなんて、どうかと思いますぅ。私なら、もっとちゃんとやりますよぉ」
アリスは腰に手を当て、勝ち誇ったように言った。
その言葉に、部屋の隅で控えていた年配の女性――筆頭侍女長が、静かに一歩進み出た。
彼女は長年王家に仕え、セシリアの働きぶりを最も近くで見てきた人物だ。
「……バーネット男爵令嬢」
侍女長の声は、氷の刃のように鋭く、冷徹だった。
「お言葉ですが、訂正させていただきます」
「えっ? な、なに? おばさん」
「セシリア様は、仕事を放り出したのではありません。全ての引継ぎ書を完璧に作成し、数ヶ月前から各部署に配置転換の準備を指示されておられました」
侍女長は、テオドールの机の引き出しを指し示した。
テオドールがおずおずと開けると、そこには分厚いファイルが入っていた。
表紙には『業務引継書』とあり、中身は驚くほど詳細にマニュアル化されていた。
セシリアは、出て行くその瞬間まで完璧だったのだ。
「それに、予算が通らないのは意地悪ではありません。これまで貴女様の個人的なドレスや装飾品代は、すべてセシリア様が私費、つまりご自身の化粧品事業の利益から補填されていたのです」
侍女長の暴露に、執務室がざわめいた。
テオドールは目を丸くした。
「な……、なんだって? 王家の予算から出していたんじゃないのか?」
「いいえ。殿下が『アリスの願いを叶えてやれ』と仰るたびに、セシリア様は『公金を使うわけにはいきません』と、ご自身の貯蓄を切り崩しておられました。……その方がいなくなった今、誰が貴女様の贅沢を支えるのですか?」
侍女長の視線が、アリスを射抜く。
アリスは口をパクパクと開閉させ、顔を真っ赤にしていた。
王太子の執務室。
テオドール・フォン・サンタリアは、目の前に積み上がった書類の塔を呆然と見上げていた。
それは、わずか一日で蓄積された未決裁の案件だった。
「で、殿下。こちらの財務報告書の承認をお願いいたします。期限が迫っております」
「殿下、南部の干ばつ対策に関する陳情書ですが、前回の対策費の余剰分をどこに回すか、ご指示を」
「殿下、来月の晩餐会の招待客リストですが、席次表の確認を……」
次々と押し寄せる文官たちの声に、テオドールの頭痛は激しさを増すばかりだった。
これまでは、どうしていたんだ?
テオドールは記憶を辿る。
そうだ、朝、執務室に来ると、机の上にはすでに整理された書類が置かれていた。
重要な箇所には赤い付箋が貼られ、『※こちらの予算は前年比プラス5%で調整済み』『※この陳情は現場視察が必要です』といったセシリアの簡潔なメモが添えられていた。
彼はただ、そのメモ通りにサインをするか、「承認」と言うだけでよかったのだ。
だが今、目の前にあるのは、無機質で難解な数字の羅列だけ。
メモはない。
付箋もない。
全てを彼自身の頭で判断し、責任を負わなければならない。
「……ま、待ってくれ。少し休憩させてくれないか」
テオドールは額の汗を拭い、弱々しく手を挙げた。
文官たちが顔を見合わせ、無言のまま失望の色を浮かべるのが見えた。
かつて彼らが向けていた尊敬の眼差しは、実は隣にいた賢明な王太子妃に向けられていたものだったのだと、テオドールは嫌でも悟らされた。
重苦しい空気を切り裂くように、執務室の扉が開かれた。
入ってきたのは、ふくれっ面のアリス・バーネットだ。
「もうっ! テオドール様ぁ! ひどいんですよぉ!」
彼女は文官たちの冷ややかな視線など意に介さず、テオドールの机に駆け寄った。
「私のドレス、お針子が予算オーバーですって言うんです! セシリア様がいたときは、何でも『いいわよ』って通してくれたのに! あの人、いなくなった途端に意地悪するなんて、すっごく無責任じゃないですかぁ?」
アリスは地団駄を踏んだ。
テオドールのこめかみがピクリと引きつった。
今、彼は国の重要案件で頭がパンクしそうなのだ。
ドレスの予算如きで騒がないでほしい。
「アリス、今は仕事中だ。それに、予算がないなら少し安い生地にすればいいだろう」
「やだやだ! 一番高いシルクがいいの! テオドール様が『君には最高級が似合う』って言ったじゃないですかぁ!」
キャンキャンと響く高い声が、頭痛を加速させる。
いつもなら可愛いワガママと思えたそれが、今はただの騒音にしか聞こえない。
「……セシリア様がいないと、本当になんにも回らないんですねぇ。あの人、王太子妃のくせに仕事を放り出して家出しちゃうなんて、どうかと思いますぅ。私なら、もっとちゃんとやりますよぉ」
アリスは腰に手を当て、勝ち誇ったように言った。
その言葉に、部屋の隅で控えていた年配の女性――筆頭侍女長が、静かに一歩進み出た。
彼女は長年王家に仕え、セシリアの働きぶりを最も近くで見てきた人物だ。
「……バーネット男爵令嬢」
侍女長の声は、氷の刃のように鋭く、冷徹だった。
「お言葉ですが、訂正させていただきます」
「えっ? な、なに? おばさん」
「セシリア様は、仕事を放り出したのではありません。全ての引継ぎ書を完璧に作成し、数ヶ月前から各部署に配置転換の準備を指示されておられました」
侍女長は、テオドールの机の引き出しを指し示した。
テオドールがおずおずと開けると、そこには分厚いファイルが入っていた。
表紙には『業務引継書』とあり、中身は驚くほど詳細にマニュアル化されていた。
セシリアは、出て行くその瞬間まで完璧だったのだ。
「それに、予算が通らないのは意地悪ではありません。これまで貴女様の個人的なドレスや装飾品代は、すべてセシリア様が私費、つまりご自身の化粧品事業の利益から補填されていたのです」
侍女長の暴露に、執務室がざわめいた。
テオドールは目を丸くした。
「な……、なんだって? 王家の予算から出していたんじゃないのか?」
「いいえ。殿下が『アリスの願いを叶えてやれ』と仰るたびに、セシリア様は『公金を使うわけにはいきません』と、ご自身の貯蓄を切り崩しておられました。……その方がいなくなった今、誰が貴女様の贅沢を支えるのですか?」
侍女長の視線が、アリスを射抜く。
アリスは口をパクパクと開閉させ、顔を真っ赤にしていた。
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