「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上

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第29話:雨の中の追跡

 王宮の地下にある審問室は、石造りの冷気とカビの臭いに満ちていた。
 そこには、アリス・バーネットの姿があった。

 彼女のドレスは汚れ、自慢の巻き髪は乱れ、化粧が涙で崩れて無惨な形相になっている。

「いやぁ! やめてよぉ! 私、何も悪いことしてないのにぃ!」

 アリスは近衛兵に両脇を抱えられながら、金切り声を上げていた。
 その正面で、国王とテオドールが冷ややかに彼女を見下ろしている。

「男爵令嬢アリス・バーネット。王家の威信を傷つけ、重大な外交問題を引き起こした罪により、貴族籍を剥奪する」

 国王の宣告は事務的だった。

「北部の辺境にある修道院へ送る。そこは規律が厳しく、私語も化粧も一切禁じられている。一生、懺悔の日々を送るがよい」

「嘘でしょ!? 修道院なんて地味な場所、私に似合わないもん! テオドール様、助けてよぉ! 愛してるって言ったじゃない!」

 アリスがテオドールに縋るような視線を送る。
 だが、テオドールの瞳には、かつての慈愛の色は微塵もなかった。

 あるのは、汚物を見るような嫌悪と、深い疲労だけだ。

「……黙ってくれ。君の声を聞くと、頭が割れそうだ」

 テオドールは低く呟いた。
 アリスが「え?」と絶句した隙に、兵士たちが彼女を引きずり出していく。

 鉄の扉が閉まる瞬間まで、彼女の呪詛のような悲鳴が響いていたが、テオドールの心は動かなかった。

 愛していたわけではなかったのだ。

 彼女を守ることで得られる優越感と、彼女の無知さが引き立ててくれる、自分の有能さという錯覚に浸っていただけだった。

 アリスが消えた部屋で、国王が重い口を開いた。

「さて、害虫の駆除は終わった。だが、毒は回ったままだ」

 国王は机の上に投げ出された、ガレリア帝国からの『通商条約破棄通告書』を指先で叩いた。

「C.O.ブランドの喪失と、帝国との断絶。我が国の経済は、あと三ヶ月で立ち行かなくなるだろう。……テオドール、どう責任を取るつもりだ」

 テオドールは顔を上げ、父を見据えた。
 その目には、奇妙な熱が宿っていた。

 それは絶望の縁に立たされた人間が見る、一縷の希望という名の幻覚だった。

「父上。私に、ガレリア帝国への特使をお命じください」

「お前を? 帝国はお前を無能な王太子と認識しているぞ。火に油を注ぐ気か」

「いいえ。……セシリアを、連れ戻して参ります」

 テオドールは拳を握りしめた。

「帝国の怒りは、セシリアへの扱いに対する不満が発端です。ならば、私が誠心誠意謝罪し、彼女と復縁すれば、全ては丸く収まります。彼女が戻れば、C.O.ブランドも我が国のものとなります」

 あまりにも都合の良い論理だった。
 だが、他に打つ手がないのも事実だった。

 国王は深い溜息をつき、しばらく沈黙した後、短く告げた。

「……行け。ただし、失敗は許さん。セシリア嬢を連れ戻せなければ、お前の王位継承権も剥奪する」

「はい。必ずや」

 テオドールは深く頭を下げた。
 彼の中には、根拠のない確信があった。

(セシリアは、僕を愛していた。あの冷たい態度は、嫉妬の裏返しだったんだ)

 彼は自分に言い聞かせる。
 彼女は強がっていただけだ。

 本当は寂しくて、追いかけてきてほしくて、あんな派手な家出をしたのだ。
 だから、自分が必死になって迎えに行けば、彼女は涙を流して喜ぶはずだ。

 翌日。
 王都は激しい雨に見舞われていた。

 かつてセシリアを待ちぼうけさせたあの夜のように、冷たく激しい雨だった。

 テオドールは馬車に乗り込み、窓の外の景色を眺めた。
 手には、セシリアが置いていったエメラルドのネックレスが握られている。

 これを返して、もう一度プロポーズしよう。
 そして言おう。

「君がいないと駄目なんだ」と。

 彼女はその言葉をずっと待っているはずだ。

「急いでくれ。一刻も早く、帝都へ」

 テオドールは御者に命じた。
 馬車が泥を跳ね上げて走り出す。

 車輪の音が、彼の焦る心臓の鼓動と重なる。

(待っていてくれ、セシリア。今行くよ)

 テオドールはネックレスの石を指で撫でた。
 ただ、彼には見えていなかった。

 セシリアにとって、このネックレスが愛の証ではなく、自分を縛り付けていた鎖でしかなかったことが。
 そして、彼女が求めていたのは言葉ではなく、行動による敬意だったことが。

 雨は強まるばかりだった。

 テオドールは、自分がこれから向かう先にあるものが感動の再会ではなく、永遠の断絶であることなど、微塵も疑っていなかった。

 彼はまだ、自分が物語の主人公であり、最後にヒロインは戻ってくるものだと信じていたのだ。
 
 馬車は国境を越え、ガレリア帝国へとひた走る。
 それは、彼がこれまでの人生で一度も見せたことのない必死な行動力だ。

 その行動力は皮肉にも、手遅れとなって初めて発揮されたのだった。

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