「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上

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第31話:届かない手

「……殿下。一つ、訂正させていただきます」

 その声のトーンは、かつて実験室でアリスのミスを指摘した時と同じ、冷徹な分析者のものだった。

「貴方様は、『私が大切だと気づいた』とおっしゃいましたね」

「ああ、そうだよ! 心からそう思っている!」

「いいえ。それは違います」

 セシリアは、テオドールの目を真っ直ぐに見据えた。
 アイスブルーの瞳が、彼の浅ましい心を射抜く。

「貴方様が感じていらっしゃるのは、愛ではなく、不便です」

「……え?」

 テオドールの笑顔が凍りついた。

「書類の整理をしてくれる者がいない。的確な助言をしてくれる者がいない。アリス嬢のわがままを抑えてくれる防波堤がいない。……そして何より、C.O.という金の卵を産むガチョウがいなくなったことで、国庫が傾き、ご自身の立場が危うくなった」

 セシリアは指を一本ずつ折りながら、淡々と事実を列挙した。

「貴方様が恋しいのは私ではありません。私が提供していた快適な生活と王太子としての安泰です。違いますか?」

「そ、そんなことはない! 僕は君自身を愛して……!」

「では、お聞きします」

 セシリアは彼の反論を遮った。

「私の好きな花をご存知ですか? 私がアレルギーで食べられない食材は? 私がこのラボで開発している最新の技術が何か、一つでも言えますか?」

 テオドールは口を開閉させた。
 言葉が出てこない。

 花? 
 バラじゃなかったか? 

 いや、それはアリスか。

 食べ物? 
 出されたものを食べていたはずだ。

 仕事? 
 化粧品を作っていることしか知らない。

 セシリアは、困惑する元夫を見て、哀れむように微笑んだ。
 それは、どうしようもない子供に向けるような、慈悲深く、かつ残酷な笑みだった。

「答えられないでしょう。だって貴方は、私のことなど一度も見ていらっしゃらなかったのですから」

 セシリアは手元の時計をもう一度見た。

「予定の時間です。私は次の会議がありますので、これで失礼いたします」

 彼女は席を立った。
 テオドールは慌てて立ち上がり、テーブル越しに身を乗り出した。

「ま、待ってくれ! まだ話は終わっていない! 僕は謝りに来たんだ、君が必要なんだ!」

「そのお言葉は、鏡に向かっておっしゃってくださいませ。きっと、そこに映る惨めな男性だけが、貴方の言葉に耳を傾けてくれるでしょう」

 セシリアは背を向け、扉へと歩き出した。
 テオドールは手を伸ばした。

 その指先が、セシリアの白衣の裾を掴もうとする。

「セシリア!!」

 しかし、その手は空を切った。
 待機していた警備員が、テオドールの前に立ちはだかったからだ。

「マダム・オルコットに触れないでいただきたい」

 警備員の低い声が、現実を突きつける。
 彼女はもう、サンタリア王国の王太子妃ではない。

 ガレリア帝国が国を挙げて保護する最重要人物なのだ。

「……連れて行って」

 セシリアは振り返りもせず、短く命じた。
 その背中は、テオドールが知っている耐え忍ぶ妻の背中ではなかった。

 未来だけを見つめる、誇り高き先駆者の背中だった。
 扉が閉まる瞬間、テオドールの視界から、光り輝く彼女の姿が消えた。

 残されたのは、曇り空のような灰色の喪失感と、手の中で行き場を失ったエメラルドのネックレスだけだった。

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