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第32話:最後の足掻き
C.O.ラボのエントランスホールは、吹き抜けの高い天井から柔らかな光が降り注ぐ開放的な空間だった。
しかし、そこに流れる空気は凍てついていた。
警備員に両脇を固められながらも、テオドールは必死に声を張り上げていた。
「待ってくれ! 頼む、あと五分……、いや、一分でいい! 君に伝えたいことがあるんだ!」
その見苦しいほどの懇願は、ホールを行き交う帝国の研究員たちの注目を集めていた。
かつてのサンタリア王太子としての威厳は見る影もない。
そこにいるのは、去りゆく恋人にすがりつく、ただの哀れな男だった。
セシリアは、その叫び声に足を止めた。
彼女は小さく溜息をついた。
それは悲しみからではなく、終わったはずの会議が延長された時のような、事務的な徒労感からだった。
「……離して差し上げて」
セシリアが静かに命じると、警備員たちは躊躇いつつも拘束を解いた。
テオドールはよろめきながら前へ進み出た。
そして、セシリアとの距離を詰めようとするが、彼女の冷ややかな視線に射抜かれ、数歩手前で立ち止まった。
「ありがとう、セシリア。やっぱり君は優しい……」
「誤解なさらないでください」
セシリアは冷水を浴びせるように告げた。
「これ以上、職場で騒ぎを起こされては迷惑だからです。……それで、伝えたいこととは? 手短にお願いします」
彼女は腕時計に視線を落とした。
その仕草が「あなたに割く時間は無駄だ」と雄弁に語っている。
テオドールは唇を震わせ、濡れた瞳で彼女を見つめた。
「愛しているんだ」
その言葉は、ホールの静寂に虚しく響いた。
「君がいなくなって、世界から色が消えたようだった。朝起きても、夜眠る時も、君のことばかり考えている。これが愛でなくて何だと言うんだ」
「……」
「確かに僕は愚かだった。君の優しさに甘えすぎていた。でも、人は変われるだろう? これからは僕が君を支える。君の研究も全力で応援する。だから……、もう一度、やり直そう」
テオドールは一歩踏み出し、手を伸ばした。
それは、彼が持てる精一杯の誠実さを込めた告白だったはずだ。
だが、セシリアの反応は、彼が予想した涙でも怒りでもなかった。
彼女は、ただ無表情に、ガラス玉のような瞳で彼を見ていた。
そこには、何の感情も映っていない。
怒りも、悲しみも、侮蔑さえもない。
あるのは、道端の石を見るような、完全なる無関心だけだった。
「……殿下。貴方は、何も解っていらっしゃらない」
セシリアの声は、風のない湖面のように平坦だった。
「愛している、とおっしゃいましたね。ではお聞きしますが、私が王宮で毎晩、どのような気持ちで貴方をお待ちしていたか、想像したことはありますか?」
「そ、それは……、寂しかっただろう? だから僕は、これからはずっと君のそばに……」
「いいえ。寂しかったのではありません」
セシリアは首を横に振った。
「虚しかったのです。貴方がアリス嬢を優先するたび、私の言葉を遮るたび、私の心は少しずつ削られ、磨耗し、やがて塵となりました」
彼女は一歩、テオドールに近づいた。
その迫力に、テオドールの方が思わず後退る。
「貴方がおっしゃる愛とは、貴方自身が気持ちよくなるための自己陶酔です。私が欲しかったのは、そんな劇的な言葉ではありませんでした。ただ、私の仕事を尊重し、約束を守り、一人の人間として対等に向き合ってくださる……、それだけのことが、貴方にはおできにならなかった」
「だ、だから! それをこれから償うと言っているんだ!」
「償い?」
セシリアは、微かに口角を上げた。
しかし、そこに流れる空気は凍てついていた。
警備員に両脇を固められながらも、テオドールは必死に声を張り上げていた。
「待ってくれ! 頼む、あと五分……、いや、一分でいい! 君に伝えたいことがあるんだ!」
その見苦しいほどの懇願は、ホールを行き交う帝国の研究員たちの注目を集めていた。
かつてのサンタリア王太子としての威厳は見る影もない。
そこにいるのは、去りゆく恋人にすがりつく、ただの哀れな男だった。
セシリアは、その叫び声に足を止めた。
彼女は小さく溜息をついた。
それは悲しみからではなく、終わったはずの会議が延長された時のような、事務的な徒労感からだった。
「……離して差し上げて」
セシリアが静かに命じると、警備員たちは躊躇いつつも拘束を解いた。
テオドールはよろめきながら前へ進み出た。
そして、セシリアとの距離を詰めようとするが、彼女の冷ややかな視線に射抜かれ、数歩手前で立ち止まった。
「ありがとう、セシリア。やっぱり君は優しい……」
「誤解なさらないでください」
セシリアは冷水を浴びせるように告げた。
「これ以上、職場で騒ぎを起こされては迷惑だからです。……それで、伝えたいこととは? 手短にお願いします」
彼女は腕時計に視線を落とした。
その仕草が「あなたに割く時間は無駄だ」と雄弁に語っている。
テオドールは唇を震わせ、濡れた瞳で彼女を見つめた。
「愛しているんだ」
その言葉は、ホールの静寂に虚しく響いた。
「君がいなくなって、世界から色が消えたようだった。朝起きても、夜眠る時も、君のことばかり考えている。これが愛でなくて何だと言うんだ」
「……」
「確かに僕は愚かだった。君の優しさに甘えすぎていた。でも、人は変われるだろう? これからは僕が君を支える。君の研究も全力で応援する。だから……、もう一度、やり直そう」
テオドールは一歩踏み出し、手を伸ばした。
それは、彼が持てる精一杯の誠実さを込めた告白だったはずだ。
だが、セシリアの反応は、彼が予想した涙でも怒りでもなかった。
彼女は、ただ無表情に、ガラス玉のような瞳で彼を見ていた。
そこには、何の感情も映っていない。
怒りも、悲しみも、侮蔑さえもない。
あるのは、道端の石を見るような、完全なる無関心だけだった。
「……殿下。貴方は、何も解っていらっしゃらない」
セシリアの声は、風のない湖面のように平坦だった。
「愛している、とおっしゃいましたね。ではお聞きしますが、私が王宮で毎晩、どのような気持ちで貴方をお待ちしていたか、想像したことはありますか?」
「そ、それは……、寂しかっただろう? だから僕は、これからはずっと君のそばに……」
「いいえ。寂しかったのではありません」
セシリアは首を横に振った。
「虚しかったのです。貴方がアリス嬢を優先するたび、私の言葉を遮るたび、私の心は少しずつ削られ、磨耗し、やがて塵となりました」
彼女は一歩、テオドールに近づいた。
その迫力に、テオドールの方が思わず後退る。
「貴方がおっしゃる愛とは、貴方自身が気持ちよくなるための自己陶酔です。私が欲しかったのは、そんな劇的な言葉ではありませんでした。ただ、私の仕事を尊重し、約束を守り、一人の人間として対等に向き合ってくださる……、それだけのことが、貴方にはおできにならなかった」
「だ、だから! それをこれから償うと言っているんだ!」
「償い?」
セシリアは、微かに口角を上げた。
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