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第9話:一輪の花と、1%の免罪符
深夜の工房。
アルコールランプの青白い炎だけが、ユリアの青ざめた横顔を照らしていた。
カミラが持ち込んだ魔法のオイルが大流行し、商会が表面的な利益に沸き返る一方で、ユリアは既存の顧客である保守派の貴族たち――本質的な品質を重んじるマダム・ジョセフィーヌのような人々――からの特注品の製造と、彼らへのアフターケアに忙殺されていた。
粗悪品と同じラインで製造することは不可能なため、ユリアは完全に孤立した状態で、ティムと共に深夜まで手作業で調合を続けている。
「奥様、もう休んでください。顔色が……。このままでは倒れてしまいます」
見習い職人のティムが、心配そうに声をかけた。
彼の目には、ユリアがこの数週間で目に見えて痩せ細り、深い疲労の陰を落としているのが痛いほど分かっていた。
「……ありがとう、ティム。でも、マダムのお茶会までに、この修復エッセンスの予備を完成させておかなければ。万が一の事態に備えて」
ユリアは微かに微笑み、再び手元のビーカーへ視線を戻した。
カミラによって台無しにされたピンク色の抽出液の代わりを、ユリアは睡眠時間を極限まで削って一から作り直していたのだ。
カミラの粗悪品を使い続けている顧客たちの頭皮が、数週間後に一斉に悲鳴を上げることを見越しての、最後の防波堤だった。
その時、カチャリと工房のドアが開いた。
現れたのは、夜会から帰ってきたばかりのエリオットだった。
彼は上機嫌に鼻歌を歌いながら、手には見慣れないものを持っていた。
それは、安価で少し萎れかけた赤い花が一輪。
「やあ、ユリア。まだ起きていたのかい?」
エリオットは、徹夜作業で憔悴しきった妻の姿を一瞥すると、得意げな笑顔を浮かべてその花をユリアの作業台の上にポンと置いた。
「ほら、君にプレゼントだ。帰り道で花売りがいてね、君も最近疲れているだろうから、特別に買ってきてあげたんだよ」
ユリアは、無造作に置かれたその一輪の花と、エリオットの顔を交互に見つめた。
彼はまるで、世界で最も気高い慈善事業を行ったかのように、自信に満ちた表情でユリアを見下ろしていた。
「どうだい? 僕はなんて妻想いのいい夫なんだろうね。君が地味な作業ばかりで息が詰まっているんじゃないかと思って、こうして気遣ってやったんだ。感謝してほしいな」
ユリアの心の中で、どろりとした感情が渦を巻いた。
彼が今、商会で莫大な利益を上げ、夜会でチヤホヤされている裏で、ユリアがどれほどの重労働を担っているか。
資金繰りの計算、材料の品質管理、既存顧客からのクレーム対応の予防、そして、彼がぶち壊した安全網の再構築。
ユリアが毎日99%の泥臭い実務と労働を引き受けているからこそ、この商会はかろうじて形を保っている。
それなのに、彼は気まぐれに、自分が負担を感じない程度のたった1%の些細な行動――安価な花を一輪買ってきただけで、自分は完璧に妻を労う良き夫であると自己陶酔しているのだ。
「……ありがとうございます」
ユリアは感情を押し殺し、ひどく掠れた声で短く礼を言った。
疲労で体は限界を超えており、彼に愛想笑いを浮かべる気力すら残っていなかった。
その薄い反応を見た瞬間、エリオットの顔から笑顔が消えた。
「なんだい、その態度は」
彼は不機嫌そうに眉をひそめ、舌打ちをした。
「せっかく僕が、疲れている君を労っているというのに、ちっとも嬉しそうじゃないな。可愛げがないにも程がある。カミラなら、もっと大喜びで僕に感謝するぞ」
「……申し訳ありません。少し、立て込んでおりまして」
「ふん。いつもそうやって、一人で勝手に悲劇のヒロインぶっている。僕がこれだけ気を使ってやっているのに、君は本当に恩知らずだ」
エリオットは吐き捨てるように言うと、乱暴に足音を立てて工房を出て行った。
彼が置いていった萎れかけた赤い花が、作業台の上で無惨に横たわっている。
静まり返った工房で、ティムがギリッと奥歯を噛み締める音が響いた。
「……旦那様は、頭がおかしいんじゃないですか」
ティムの声は、怒りで震えていた。
「奥様がどれだけ苦労して、旦那様の尻拭いをしてるか知らないくせに……! あんな、その辺で摘んできたような花一本で、全部帳消しにできると思ってるなんて。俺、絶対に許せません」
「ティム。もういいのよ」
ユリアは目を伏せた。
ティムが自分の代わりに怒ってくれることだけが、今の彼女にとって唯一の人間らしい温もりだった。
(ええ、もういいの。彼は一生、理解しない)
何かをしてくれないことよりも、これっぽっちの事で、自分はすべてを分かち合っていると錯覚していることの暴力性。
ユリアは、ゆっくりと立ち上がり、自身の専用の戸棚を開けた。
エリオットのための特製ヘアオイルの小瓶。
――残量は、ついに、ほんの数滴を残すのみとなっていた。
明日か、明後日には、確実に使い切る量だ。
「……カウントダウンは、もうすぐ終わる」
ユリアは小瓶を握りしめ、呟いた。
彼女の瞳には、もはや夫への未練も、悲しみもなかった。
あるのは、この理不尽な搾取から完全に解放されるその瞬間へ向けた、研ぎ澄まされた刃のような決意だけだった。
彼女は振り返り、ティムに向かって微笑んだ。
「ティム。あなたには、後で少し大切な話をします。……私の、これからのことについて」
それは、ユリアがオーランド伯爵夫人という仮面を脱ぎ捨て、この狂った環境から羽ばたくための、宣戦布告だった。
アルコールランプの青白い炎だけが、ユリアの青ざめた横顔を照らしていた。
カミラが持ち込んだ魔法のオイルが大流行し、商会が表面的な利益に沸き返る一方で、ユリアは既存の顧客である保守派の貴族たち――本質的な品質を重んじるマダム・ジョセフィーヌのような人々――からの特注品の製造と、彼らへのアフターケアに忙殺されていた。
粗悪品と同じラインで製造することは不可能なため、ユリアは完全に孤立した状態で、ティムと共に深夜まで手作業で調合を続けている。
「奥様、もう休んでください。顔色が……。このままでは倒れてしまいます」
見習い職人のティムが、心配そうに声をかけた。
彼の目には、ユリアがこの数週間で目に見えて痩せ細り、深い疲労の陰を落としているのが痛いほど分かっていた。
「……ありがとう、ティム。でも、マダムのお茶会までに、この修復エッセンスの予備を完成させておかなければ。万が一の事態に備えて」
ユリアは微かに微笑み、再び手元のビーカーへ視線を戻した。
カミラによって台無しにされたピンク色の抽出液の代わりを、ユリアは睡眠時間を極限まで削って一から作り直していたのだ。
カミラの粗悪品を使い続けている顧客たちの頭皮が、数週間後に一斉に悲鳴を上げることを見越しての、最後の防波堤だった。
その時、カチャリと工房のドアが開いた。
現れたのは、夜会から帰ってきたばかりのエリオットだった。
彼は上機嫌に鼻歌を歌いながら、手には見慣れないものを持っていた。
それは、安価で少し萎れかけた赤い花が一輪。
「やあ、ユリア。まだ起きていたのかい?」
エリオットは、徹夜作業で憔悴しきった妻の姿を一瞥すると、得意げな笑顔を浮かべてその花をユリアの作業台の上にポンと置いた。
「ほら、君にプレゼントだ。帰り道で花売りがいてね、君も最近疲れているだろうから、特別に買ってきてあげたんだよ」
ユリアは、無造作に置かれたその一輪の花と、エリオットの顔を交互に見つめた。
彼はまるで、世界で最も気高い慈善事業を行ったかのように、自信に満ちた表情でユリアを見下ろしていた。
「どうだい? 僕はなんて妻想いのいい夫なんだろうね。君が地味な作業ばかりで息が詰まっているんじゃないかと思って、こうして気遣ってやったんだ。感謝してほしいな」
ユリアの心の中で、どろりとした感情が渦を巻いた。
彼が今、商会で莫大な利益を上げ、夜会でチヤホヤされている裏で、ユリアがどれほどの重労働を担っているか。
資金繰りの計算、材料の品質管理、既存顧客からのクレーム対応の予防、そして、彼がぶち壊した安全網の再構築。
ユリアが毎日99%の泥臭い実務と労働を引き受けているからこそ、この商会はかろうじて形を保っている。
それなのに、彼は気まぐれに、自分が負担を感じない程度のたった1%の些細な行動――安価な花を一輪買ってきただけで、自分は完璧に妻を労う良き夫であると自己陶酔しているのだ。
「……ありがとうございます」
ユリアは感情を押し殺し、ひどく掠れた声で短く礼を言った。
疲労で体は限界を超えており、彼に愛想笑いを浮かべる気力すら残っていなかった。
その薄い反応を見た瞬間、エリオットの顔から笑顔が消えた。
「なんだい、その態度は」
彼は不機嫌そうに眉をひそめ、舌打ちをした。
「せっかく僕が、疲れている君を労っているというのに、ちっとも嬉しそうじゃないな。可愛げがないにも程がある。カミラなら、もっと大喜びで僕に感謝するぞ」
「……申し訳ありません。少し、立て込んでおりまして」
「ふん。いつもそうやって、一人で勝手に悲劇のヒロインぶっている。僕がこれだけ気を使ってやっているのに、君は本当に恩知らずだ」
エリオットは吐き捨てるように言うと、乱暴に足音を立てて工房を出て行った。
彼が置いていった萎れかけた赤い花が、作業台の上で無惨に横たわっている。
静まり返った工房で、ティムがギリッと奥歯を噛み締める音が響いた。
「……旦那様は、頭がおかしいんじゃないですか」
ティムの声は、怒りで震えていた。
「奥様がどれだけ苦労して、旦那様の尻拭いをしてるか知らないくせに……! あんな、その辺で摘んできたような花一本で、全部帳消しにできると思ってるなんて。俺、絶対に許せません」
「ティム。もういいのよ」
ユリアは目を伏せた。
ティムが自分の代わりに怒ってくれることだけが、今の彼女にとって唯一の人間らしい温もりだった。
(ええ、もういいの。彼は一生、理解しない)
何かをしてくれないことよりも、これっぽっちの事で、自分はすべてを分かち合っていると錯覚していることの暴力性。
ユリアは、ゆっくりと立ち上がり、自身の専用の戸棚を開けた。
エリオットのための特製ヘアオイルの小瓶。
――残量は、ついに、ほんの数滴を残すのみとなっていた。
明日か、明後日には、確実に使い切る量だ。
「……カウントダウンは、もうすぐ終わる」
ユリアは小瓶を握りしめ、呟いた。
彼女の瞳には、もはや夫への未練も、悲しみもなかった。
あるのは、この理不尽な搾取から完全に解放されるその瞬間へ向けた、研ぎ澄まされた刃のような決意だけだった。
彼女は振り返り、ティムに向かって微笑んだ。
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