「君が一人で勝手に苦労を背負い込んでいるだけだろう? 僕はそんなこと、頼んでいない」~健気に献身する私に、無神経で残酷な言葉を放つ夫の末路~

水上

文字の大きさ
9 / 19

第9話:一輪の花と、1%の免罪符

 深夜の工房。
 アルコールランプの青白い炎だけが、ユリアの青ざめた横顔を照らしていた。

 カミラが持ち込んだ魔法のオイルが大流行し、商会が表面的な利益に沸き返る一方で、ユリアは既存の顧客である保守派の貴族たち――本質的な品質を重んじるマダム・ジョセフィーヌのような人々――からの特注品の製造と、彼らへのアフターケアに忙殺されていた。

 粗悪品と同じラインで製造することは不可能なため、ユリアは完全に孤立した状態で、ティムと共に深夜まで手作業で調合を続けている。

「奥様、もう休んでください。顔色が……。このままでは倒れてしまいます」

 見習い職人のティムが、心配そうに声をかけた。
 
 彼の目には、ユリアがこの数週間で目に見えて痩せ細り、深い疲労の陰を落としているのが痛いほど分かっていた。

「……ありがとう、ティム。でも、マダムのお茶会までに、この修復エッセンスの予備を完成させておかなければ。万が一の事態に備えて」

 ユリアは微かに微笑み、再び手元のビーカーへ視線を戻した。

 カミラによって台無しにされたピンク色の抽出液の代わりを、ユリアは睡眠時間を極限まで削って一から作り直していたのだ。

 カミラの粗悪品を使い続けている顧客たちの頭皮が、数週間後に一斉に悲鳴を上げることを見越しての、最後の防波堤だった。

 その時、カチャリと工房のドアが開いた。

 現れたのは、夜会から帰ってきたばかりのエリオットだった。
 彼は上機嫌に鼻歌を歌いながら、手には見慣れないものを持っていた。

 それは、安価で少し萎れかけた赤い花が一輪。

「やあ、ユリア。まだ起きていたのかい?」

 エリオットは、徹夜作業で憔悴しきった妻の姿を一瞥すると、得意げな笑顔を浮かべてその花をユリアの作業台の上にポンと置いた。

「ほら、君にプレゼントだ。帰り道で花売りがいてね、君も最近疲れているだろうから、特別に買ってきてあげたんだよ」

 ユリアは、無造作に置かれたその一輪の花と、エリオットの顔を交互に見つめた。

 彼はまるで、世界で最も気高い慈善事業を行ったかのように、自信に満ちた表情でユリアを見下ろしていた。

「どうだい? 僕はなんて妻想いのいい夫なんだろうね。君が地味な作業ばかりで息が詰まっているんじゃないかと思って、こうして気遣ってやったんだ。感謝してほしいな」

 ユリアの心の中で、どろりとした感情が渦を巻いた。

 彼が今、商会で莫大な利益を上げ、夜会でチヤホヤされている裏で、ユリアがどれほどの重労働を担っているか。

 資金繰りの計算、材料の品質管理、既存顧客からのクレーム対応の予防、そして、彼がぶち壊した安全網の再構築。

 ユリアが毎日99%の泥臭い実務と労働を引き受けているからこそ、この商会はかろうじて形を保っている。

 それなのに、彼は気まぐれに、自分が負担を感じない程度のたった1%の些細な行動――安価な花を一輪買ってきただけで、自分は完璧に妻を労う良き夫であると自己陶酔しているのだ。

「……ありがとうございます」

 ユリアは感情を押し殺し、ひどく掠れた声で短く礼を言った。
 疲労で体は限界を超えており、彼に愛想笑いを浮かべる気力すら残っていなかった。

 その薄い反応を見た瞬間、エリオットの顔から笑顔が消えた。

「なんだい、その態度は」

 彼は不機嫌そうに眉をひそめ、舌打ちをした。

「せっかく僕が、疲れている君を労っているというのに、ちっとも嬉しそうじゃないな。可愛げがないにも程がある。カミラなら、もっと大喜びで僕に感謝するぞ」

「……申し訳ありません。少し、立て込んでおりまして」

「ふん。いつもそうやって、一人で勝手に悲劇のヒロインぶっている。僕がこれだけ気を使ってやっているのに、君は本当に恩知らずだ」

 エリオットは吐き捨てるように言うと、乱暴に足音を立てて工房を出て行った。
 彼が置いていった萎れかけた赤い花が、作業台の上で無惨に横たわっている。

 静まり返った工房で、ティムがギリッと奥歯を噛み締める音が響いた。

「……旦那様は、頭がおかしいんじゃないですか」

 ティムの声は、怒りで震えていた。

「奥様がどれだけ苦労して、旦那様の尻拭いをしてるか知らないくせに……! あんな、その辺で摘んできたような花一本で、全部帳消しにできると思ってるなんて。俺、絶対に許せません」

「ティム。もういいのよ」

 ユリアは目を伏せた。

 ティムが自分の代わりに怒ってくれることだけが、今の彼女にとって唯一の人間らしい温もりだった。

(ええ、もういいの。彼は一生、理解しない)

 何かをしてくれないことよりも、これっぽっちの事で、自分はすべてを分かち合っていると錯覚していることの暴力性。

 ユリアは、ゆっくりと立ち上がり、自身の専用の戸棚を開けた。
 エリオットのための特製ヘアオイルの小瓶。

 ――残量は、ついに、ほんの数滴を残すのみとなっていた。

 明日か、明後日には、確実に使い切る量だ。

「……カウントダウンは、もうすぐ終わる」

 ユリアは小瓶を握りしめ、呟いた。

 彼女の瞳には、もはや夫への未練も、悲しみもなかった。

 あるのは、この理不尽な搾取から完全に解放されるその瞬間へ向けた、研ぎ澄まされた刃のような決意だけだった。

 彼女は振り返り、ティムに向かって微笑んだ。

「ティム。あなたには、後で少し大切な話をします。……私の、これからのことについて」

 それは、ユリアがオーランド伯爵夫人という仮面を脱ぎ捨て、この狂った環境から羽ばたくための、宣戦布告だった。

あなたにおすすめの小説

『婚約破棄してくださって、心から感謝いたしますわ 〜殿下は生理的に無理でしたので、第二王子殿下と幸せになります〜

富士山麓
恋愛
公爵令嬢ナタリア・アイゼンシュタインは、卒業夜会の場で王太子から婚約破棄を言い渡される。 隣に立っていたのは、“真実の愛”だと庇われる男爵令嬢。 大勢の貴族たちが固唾を呑んで見守る中、ナタリアは泣き崩れるどころか、にこやかにこう言い放った。 「婚約破棄してくださって、心から感謝いたしますわ」 実はナタリアにとって、その婚約は我慢と気苦労の連続だった。 王太子の未熟さを陰で支え、完璧な婚約者を演じ続けてきた彼女は、婚約破棄をきっかけにようやく本音で生きることを決める。 すると次第に明らかになっていく。 王太子の周囲がうまく回っていたのは、誰のおかげだったのか。 “可愛らしい新しい婚約者”では務まらないものが、どれほど多かったのか。 そして、そんなナタリアの本当の価値に気づいたのは、皮肉屋で食えない第二王子カイルヴェルトだった――。 毒舌だけれど筋が通っていて、容赦がないのに凛として美しい。 婚約破棄から始まるのは、泣いて耐えるだけの恋ではない。 言葉でも生き方でも勝ち切る公爵令嬢が、失った婚約の先で本当の幸せをつかむ、痛快ざまあ恋愛物語。

あら?幼馴染との真実の愛が大事だったのではありませんでしたっけ???

睡蓮
恋愛
王宮に仕える身分であるザルバは、自身の婚約者としてユフィーレアとの関係を選んだ。しかし彼は後に、幼馴染であるアナとの関係に夢中になってしまい、それを真実の愛だと言い張ってユフィーレアの事を婚約破棄してしまう。それですべては丸く収まると考えていたザルバだったものの、実はユフィーレアは時の第一王子であるユーグレンと接点があり、婚約破棄を王宮に対する大いなる罪であると突き付けられることとなり…。

え〜婚約者さん厳しい〜(笑)私ならそんなこと言わないのになぁ

ばぅ
恋愛
「え〜婚約者さん、厳しい〜。私ならそんなこと言わないのになぁ」 小言の多い私を笑い、マウントを取ってくる幼馴染令嬢。私が言葉に詰まっていると、豪快で声のデカい婚約者が笑い飛ばした。 「そうだな、だからお前は未だに婚約相手が決まらないんだろうな!」 悪気ゼロ(?)の大声正論パンチで、幼馴染をバッサリ撃退! 私の「厳しさ」を誰よりも愛する太陽の騎士様との、スカッと痛快ラブコメディ。

「お産の手伝いなど下女の仕事だ」と追放された産婆令嬢、公爵夫人の難産を、誰も取り上げられなかった

Lihito
ファンタジー
産婆の技を「まやかし」と蔑んだ宮廷医師に婚約を破棄され、王都を追われたフィリーネ。 山あいの町で医師カールと出会い、産婆不在の地で母子の命を守り始める。 やがて王都では逆子の分娩に失敗した元婚約者が信頼を失い、若い女性医師マルガレーテが自らの意志でフィリーネを訪ねてくる。 三日間の実技指導で産婆術を託されたマルガレーテは王都に戻り、その報告が医学院を動かす。 産婆術は正式な医療技術と認定され、元婚約者は資格を剥奪された。 命を迎える手は、静かな町で今日も温かい。

シルフィウムの君は

透明
恋愛
王子が幼い日に遊んだ初恋の少女『シルフィウムの少女』 王子は絶対にその子と結婚すると国を挙げての捜索を開始した。 やがて私の義妹がその少女だと名乗り出るが・・・

婚約者を病弱な妹に譲れと言われた夜、冷徹公爵が「では君は私がもらう」と手を差し伸べてくれました

ゆぷしろん
恋愛
伯爵令嬢リネットは、長年支えてきた婚約者エドガーを、病弱な妹ミレイユに譲るよう家族から一方的に命じられる。領地運営の書類作成や商会との交渉までこなし、婚約者を陰で支えてきたにもかかわらず、その働きはすべて当然のように奪われてきたのだ。 失意の中で婚約解消を受け入れたリネットの前に現れたのは、“冷徹公爵”と噂される王弟アシュレイ・クロフォード。 彼はリネットの才覚を見抜き、「では君は私がもらう」と告げて、公爵領へ迎え入れる。 ようやく自分の能力を正当に認められる場所を得たリネットは、北方公爵領で筆頭補佐官として活躍し始める。一方、彼女を失った元婚約者と家族は、次第に行き詰まっていき――。 これは、搾取され続けた令嬢が、自分の価値を認めてくれる人と出会い、後悔する者たちを置き去りにして幸せを掴む物語。

善人ぶった姉に奪われ続けてきましたが、逃げた先で溺愛されて私のスキルで領地は豊作です

しろこねこ
ファンタジー
「あなたのためを思って」という一見優しい伯爵家の姉ジュリナに虐げられている妹セリナ。醜いセリナの言うことを家族は誰も聞いてくれない。そんな中、唯一差別しない家庭教師に貴族子女にははしたないとされる魔法を教わるが、親切ぶってセリナを孤立させる姉。植物魔法に目覚めたセリナはペット?のヴィリオをともに家を出て南の辺境を目指す。

最後なので全部言わせていただきます

れいも
恋愛
伯爵令嬢としてできる限りのことをせよ、という父親の言葉を遂行しようとしたローレシア。 だが、気付けばローレシアの努力と苦労は、無駄となってしまった。 ローレシアを罵倒する父親に、ついに彼女は切れた。 そうして父親に、今までの鬱憤をぶちまけるのだった。 ※ざまあ展開はありません。 また、カテゴリー設定がどれに該当するか分からないため、一番近そうな「恋愛」(婚約破棄を含むため)にしております。