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第9話:間近に迫ったカウントダウンの終焉
地下貯蔵庫の冷たい石畳の上で、マルグリットはただ立ち尽くしていた。
目の前に広がるのは、数年間の血と汗と、数え切れないほどの不眠の夜が形を成した結晶の無残な残骸だ。
果実酒の樽は、急激な温度変化によって発酵のバランスが完全に崩壊し、ただの酸っぱい泥水へと成り果てていた。
「ああ……、くさいですわ」
階段の上から、パメラが鼻をつまんで甘ったるい声を上げた。
「これじゃあ、せっかくのドレスに匂いが移ってしまいます。早くなんとかしてください」
「そうだね、パメラ。まったく、マルグリットめ。こんな臭いガラクタを地下に溜め込んでいたなんて、我が家の恥だよ」
アレクシスはパメラの肩を抱き寄せながら、階段を下りてきた。
彼の洗練された革靴が、マルグリットが毎日磨き上げていた貯蔵庫の床を無造作に踏みにじる。
「旦那様……」
マルグリットの声は、ひどく掠れていた。
喉の奥がカラカラに乾き、心臓が奇妙なリズムで警鐘を鳴らしている。
「この果実酒は、領地の負債を返すための……、最後の切り札だったのです。私が数年間、毎日、一日も欠かさずに温度を記録し、菌の繁殖をミリ単位で調整して……」
「また理屈っぽい話かい?」
アレクシスは心底うんざりしたようにため息をつき、手をひらひらと振った。
「たかが酒が酸っぱくなったくらいで、大げさに騒ぐな。そんな腐りかけのものを大事に抱え込んで、貧乏くさいよ。僕が当主として、もっと新しくてまともなものを買ってあげるから、さっさと捨ててしまいなさい。パメラとの宴会に間に合わなくなるじゃないか」
腐りかけのもの。
買ってあげる。
その言葉の圧倒的な無知と、他者の取り戻せない時間と情熱に対する完全なる無理解が、マルグリットの脳髄を真っ白に染め上げた。
この男は、自分が何時間、何日、何年という歳月をかけて、この家の赤字を埋めるために泥水をすすってきたのかを、本気で知らないのだ。
いや、知ろうともしない。
金銭的な損害よりも何よりも、彼女の妻としての献身と職人としての魂が、こんなにも浅はかで馬鹿げた理由――パメラとの宴会の休憩室にするため――で、一瞬にして物理的に破壊された絶望感。
「……捨てろ、と?」
「ああ。使用人に片付けさせればいい」
「旦那様!」
マルグリットのその声の鋭さに、アレクシスはビクッと肩を震わせ、パメラは「ひっ」と短く悲鳴を上げて彼の背中に隠れた。
「これは、お金で買えるようなものではありません! 王都の高級商会ですら、これほどの品質のものは手に入らない。これがあれば、あの莫大な借金の半分は――」
「マルグリット!!」
アレクシスの顔が真っ赤に染まり、激しい怒声が地下室に響き渡った。
「当主である僕に向かって、その口答えは何だ! たかが女の趣味の産物ごときで、いい気になるな! 借金だの負債だの、貧乏くさい現実の話をパメラの前でするな!」
アレクシスは本気で激昂していた。
彼は有能な若き経営者という仮面を被っているが、その実、領地の財政が火の車であることを直視できていない。
妻が必死に穴埋めをしている現実を、彼自身の卑小なプライドが全力で拒絶している。
だからこそ、その現実を突きつけてくる妻の存在そのものが、彼にとっては不快極まりないのだ。
「君が僕の庇護下にあるからこそ、こんな地下室で好き勝手に遊べているんだぞ! それを、たかが酒がダメになったくらいで僕を責めるのか!」
アレクシスの言葉が、冷たい石畳の壁に反響する。
ああ、そうか。
マルグリットの胸の奥で、長年耐え続けてきた失望のコップの縁まで、ついに水が達した。
(彼は、私がどれだけ懸命に家を支えても、一生理解しない。私がどれだけ時間と真心を捧げても、彼はそれを自分を飾るための無価値な消費として奪い尽くすだけ……)
マルグリットは大きく息を吐いた。
(……あと一度)
マルグリットの瞳から、一切の感情が抜け落ちた。
怒りも、悲しみも、絶望すらも、もはやここにはない。
(あと一度でも彼が私を裏切ったら、離縁状を叩きつけよう。ウォルター様と進めている独立の準備が整うまで、私はただの完璧な人形になればいい)
マルグリットは、深く頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした、旦那様。私が間違っておりました。当主であるあなたのおっしゃる通りです」
その声は、驚くほど平坦で、機械のようだった。
アレクシスは、妻が素直に折れたのを見て、ふん、と満足そうに鼻を鳴らした。
「わかればいいんだ。君はただ、僕の隣で微笑んでいればそれで完璧なんだから。さあ、パメラ、ここもすぐに片付けさせるから、今日は上のサロンでお茶にしよう」
「はい、アレクシス様。奥様、お掃除頑張ってくださいねぇ」
パメラの甘ったるい声と、アレクシスの得意げな足音が、階段を上っていく。
一人残された地下室で、マルグリットはゆっくりと顔を上げた。
マルグリットの失望のコップは、いまや縁のギリギリまで水で満たされていた。
表面張力で保たれたその水面は、次の一滴が落ちた瞬間、完全に決壊し、大洪水を巻き起こすだろう。
カウントダウンは、ついに最後の一目盛りを残すのみとなった。
目の前に広がるのは、数年間の血と汗と、数え切れないほどの不眠の夜が形を成した結晶の無残な残骸だ。
果実酒の樽は、急激な温度変化によって発酵のバランスが完全に崩壊し、ただの酸っぱい泥水へと成り果てていた。
「ああ……、くさいですわ」
階段の上から、パメラが鼻をつまんで甘ったるい声を上げた。
「これじゃあ、せっかくのドレスに匂いが移ってしまいます。早くなんとかしてください」
「そうだね、パメラ。まったく、マルグリットめ。こんな臭いガラクタを地下に溜め込んでいたなんて、我が家の恥だよ」
アレクシスはパメラの肩を抱き寄せながら、階段を下りてきた。
彼の洗練された革靴が、マルグリットが毎日磨き上げていた貯蔵庫の床を無造作に踏みにじる。
「旦那様……」
マルグリットの声は、ひどく掠れていた。
喉の奥がカラカラに乾き、心臓が奇妙なリズムで警鐘を鳴らしている。
「この果実酒は、領地の負債を返すための……、最後の切り札だったのです。私が数年間、毎日、一日も欠かさずに温度を記録し、菌の繁殖をミリ単位で調整して……」
「また理屈っぽい話かい?」
アレクシスは心底うんざりしたようにため息をつき、手をひらひらと振った。
「たかが酒が酸っぱくなったくらいで、大げさに騒ぐな。そんな腐りかけのものを大事に抱え込んで、貧乏くさいよ。僕が当主として、もっと新しくてまともなものを買ってあげるから、さっさと捨ててしまいなさい。パメラとの宴会に間に合わなくなるじゃないか」
腐りかけのもの。
買ってあげる。
その言葉の圧倒的な無知と、他者の取り戻せない時間と情熱に対する完全なる無理解が、マルグリットの脳髄を真っ白に染め上げた。
この男は、自分が何時間、何日、何年という歳月をかけて、この家の赤字を埋めるために泥水をすすってきたのかを、本気で知らないのだ。
いや、知ろうともしない。
金銭的な損害よりも何よりも、彼女の妻としての献身と職人としての魂が、こんなにも浅はかで馬鹿げた理由――パメラとの宴会の休憩室にするため――で、一瞬にして物理的に破壊された絶望感。
「……捨てろ、と?」
「ああ。使用人に片付けさせればいい」
「旦那様!」
マルグリットのその声の鋭さに、アレクシスはビクッと肩を震わせ、パメラは「ひっ」と短く悲鳴を上げて彼の背中に隠れた。
「これは、お金で買えるようなものではありません! 王都の高級商会ですら、これほどの品質のものは手に入らない。これがあれば、あの莫大な借金の半分は――」
「マルグリット!!」
アレクシスの顔が真っ赤に染まり、激しい怒声が地下室に響き渡った。
「当主である僕に向かって、その口答えは何だ! たかが女の趣味の産物ごときで、いい気になるな! 借金だの負債だの、貧乏くさい現実の話をパメラの前でするな!」
アレクシスは本気で激昂していた。
彼は有能な若き経営者という仮面を被っているが、その実、領地の財政が火の車であることを直視できていない。
妻が必死に穴埋めをしている現実を、彼自身の卑小なプライドが全力で拒絶している。
だからこそ、その現実を突きつけてくる妻の存在そのものが、彼にとっては不快極まりないのだ。
「君が僕の庇護下にあるからこそ、こんな地下室で好き勝手に遊べているんだぞ! それを、たかが酒がダメになったくらいで僕を責めるのか!」
アレクシスの言葉が、冷たい石畳の壁に反響する。
ああ、そうか。
マルグリットの胸の奥で、長年耐え続けてきた失望のコップの縁まで、ついに水が達した。
(彼は、私がどれだけ懸命に家を支えても、一生理解しない。私がどれだけ時間と真心を捧げても、彼はそれを自分を飾るための無価値な消費として奪い尽くすだけ……)
マルグリットは大きく息を吐いた。
(……あと一度)
マルグリットの瞳から、一切の感情が抜け落ちた。
怒りも、悲しみも、絶望すらも、もはやここにはない。
(あと一度でも彼が私を裏切ったら、離縁状を叩きつけよう。ウォルター様と進めている独立の準備が整うまで、私はただの完璧な人形になればいい)
マルグリットは、深く頭を下げた。
「……申し訳ありませんでした、旦那様。私が間違っておりました。当主であるあなたのおっしゃる通りです」
その声は、驚くほど平坦で、機械のようだった。
アレクシスは、妻が素直に折れたのを見て、ふん、と満足そうに鼻を鳴らした。
「わかればいいんだ。君はただ、僕の隣で微笑んでいればそれで完璧なんだから。さあ、パメラ、ここもすぐに片付けさせるから、今日は上のサロンでお茶にしよう」
「はい、アレクシス様。奥様、お掃除頑張ってくださいねぇ」
パメラの甘ったるい声と、アレクシスの得意げな足音が、階段を上っていく。
一人残された地下室で、マルグリットはゆっくりと顔を上げた。
マルグリットの失望のコップは、いまや縁のギリギリまで水で満たされていた。
表面張力で保たれたその水面は、次の一滴が落ちた瞬間、完全に決壊し、大洪水を巻き起こすだろう。
カウントダウンは、ついに最後の一目盛りを残すのみとなった。
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