殿下から婚約破棄された後、戻ってきてくれと懇願されましたがもう遅いです。~契約結婚のはずなのに、溺愛されている気がするのですが~

水上

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第29話:唯一無二のパートナー

 至近距離で見下ろす金色の瞳が、揺れていた。
 そこにあるのは、領主としての威厳ではなく、一人の男としての弱さと、渇望だった。

「俺には、お前が必要なんだ。他の誰かじゃ代わりにならん」

 低い声が、夜気に溶けていく。

 ギデオンは深呼吸をしたあと、静かに語り始めた。

「製粉の知識があるやつなら、他にもいるかもしれない。だが……、俺の隣で、俺の作った飯を美味そうに食って、俺の筋肉を変な理屈で褒めてくれる……。俺の心が踊る存在は、お前だけだ。……お前じゃなきゃ、駄目なんだ」

 それは、不器用な彼なりの、精一杯の言葉だった。
 セレスの心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

 胸の奥が熱くなり、思考回路がショートする。

(……代わりにならん、と仰いましたか?)

 セレスは深呼吸をして、必死に脳内を整理した。
 彼の発言を客観的に分析する。

 「他の業者では代わりにならない」

 「君の技術でなければ満足できない」

 つまり、これはビジネスパートナーとしての最大級の賛辞だ。

(確かに私の製粉技術は門外不出の独自メソッド。特にあの段階式製粉のフローシートと、麺の配合比率は、王都の職人には再現不可能です。……なるほど、彼は私の技術的希少性を高く評価し、独占契約の継続を求めているのですね)

 セレスは納得した。

 彼がこれほどまでに自分を求めてくれるのは、自分の技術が彼にとって替えの利かないオンリーワンだからだ。

 技術者として、これほど嬉しいことはない。
 セレスは微笑み、掴まれたままの手で、そっとギデオンの手を握り返した。

「光栄です、閣下」

「……セレス?」

「ご安心ください。私も、他のクライアントと契約するつもりはありません」

 セレスは月に向かって誓うように、凛とした声で宣言した。

「契約期間中は、私の配合データを他領に流すような真似はいたしません。私の頭の中にある黄金比は、すべてあなたのものです」

 ギデオンが瞬きをした。
 一瞬、呆気に取られたような顔をしたが、すぐに肩の力が抜け、苦笑が漏れた。

「……配合データ、か。お前らしいな」

「何か間違っていますか? 機密保持は契約の基本ですが」

「いや、間違ってない。……最高だ」

 ギデオンは愛おしそうに目を細め、握った手を引き上げて、セレスの指先に口付けた。
 指先から伝わる熱に、セレスの頬がカッと熱くなる。

「え、あ、あの、閣下? それは契約内容に含まれていない接触行動ですが……」 

「機密保持の証だ。ハンコ代わりだと思え」

「……合理的ではありませんが、不快ではありません」

 セレスが顔を赤らめて俯くと、ギデオンは満足げに笑った。
 
 言葉の意味は、決定的にすれ違っている。

 片や人生のパートナーとして。
 片やビジネスのパートナーとして。

 だが、二人の間に流れる信頼と、互いを唯一無二と思う気持ちに嘘はなかった。

「……冷えてきたな。中に入ろう。夜食に特製の麺を茹でてやる」

「はい。トッピングはネギ多めでお願いします」

 二人は寄り添うようにして部屋へと戻っていった。
 王都からの誘惑など、この温かな関係の前では、塵ほどの重みも持たなかった。

 だが、セレスは一つだけ忘れていた。
 どんな契約にも期限があるということを。

 そしてその期限が近づいた時、この心地よい関係がどうなるのかを、彼女はまだ計算に入れていなかった。

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