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第30話:契約終了のカウントダウン
ロックホールド辺境伯領は、黄金色に染まっていた。
秋の収穫期。
かつては痩せて弱々しかった小麦が、今では大人の腰の高さまで成長し、重たげに穂を垂れている。
セレスが導入した土壌改良と品種選定、そして適切な水管理が実を結んだ結果だった。
「……収穫量、昨対比三五〇パーセント。品質等級、特Aランク比率九割以上」
執務室の窓から収穫作業を見下ろしながら、セレスは手元のデータを読み上げた。
完璧だった。
自身の計算を上回る成果だ。
「これで、領内の食糧自給率は安定圏に入りました。冬の備蓄も三年分は確保。他領への輸出による外貨獲得も順調……」
セレスはペンを置き、引き出しの奥から一枚の書類を取り出した。
半年前に交わした婚姻契約書である。
そこには、契約の解除条件として明確にこう記されていた。
『甲(セレス)が乙(ギデオン)に対し、領地の食糧問題を解決する技術を提供し、その成果が安定したと認められた時、本契約は満了とする』
セレスは指先でその一文をなぞった。
本来、この契約はお飾りの妻ではなく、技術顧問としての雇用契約に近いものだった。
目的は達成された。
領地は救われた。
つまり、論理的に導き出される結論は一つ。
(契約終了。私は、ここを去らなければなりません)
それは、当初から予定されていた既定路線のはずだった。
報酬を受け取り、次の研究場所──おそらく、この名声を聞きつけた他の領地や商会からオファーがあるだろう──へ移動する。
極めて合理的で、効率的なキャリアパスだ。
不意に、左胸の奥が鋭く痛んだ。
セレスは眉を寄せ、胸元を掌で押さえた。
(……狭心症のような圧迫感。それとも、ストレス性の胃痙攣でしょうか? いいえ、目標達成によるドーパミン報酬系が作動しているはずの局面で、ストレスを感じる理由が論理的に見当たりません)
セレスは深呼吸をして、痛みを散らそうとした。
だが、窓の外で働く領民たちの笑顔や、遠くに見える製粉所の水車を見るたびに、胸の痛みは増していく。
(おかしいですね。私は完璧に仕事をこなし、完璧な結果を出した。……なのに、なぜこんなにも足が重いのでしょう)
思考のリソースが乱れる。
その時、扉がノックされ、返事も待たずにギデオンが入ってきた。
「セレス、いるか? ちょっと来てくれ」
彼の手には、泥だらけの図面のようなものが握られていた。
その顔は、少年のようなワクワクした表情で輝いている。
「……どうされましたか、閣下」
「来年の計画だ。川の上流に、もう一つ新しい水車小屋を建てようと思っている。お前の設計した新型タービンを使えば、さらに効率が上がるはずだ」
ギデオンは図面を机に広げ、熱っぽく語り始めた。
「ここの土地を開墾して、新しい品種の蕎麦も試してみたい。お前、言ってたよな? 『蕎麦もまた、麺の可能性を広げる』って。あと、製麺工場の横に、お前のための専用ラボも増築するつもりだ。最新の機材を揃えてやる」
来年の話、再来年の話。
ギデオンの口から出る言葉は、すべて未来のことばかりだった。
そしてその未来には、当たり前のようにセレスがいることが前提となっていた。
「……これで、もっと色々な麺が作れるぞ。俺とお前で、この領地を世界一にするんだ」
ギデオンは屈託なく笑い、セレスを見た。
その眩しい笑顔を見た瞬間、セレスの胸の痛みが最大値に達した。
(ああ……そうか)
セレスは悟ってしまった。
この痛みは、病気ではない。
計算外の、しかし致命的なシステムエラー。
──情着、あるいは、依存。
いつの間にか、彼女はこの場所を、そしてこの不器用で優しい男の隣を、職場以上のものとして認識してしまっていたのだ。
これ以上ここにいれば、合理的な判断ができなくなる。
契約終了後も居座り続ければ、それは情に甘えることになり、プロフェッショナルとしての美学に反する。
(……私は、管理者として正しい振る舞いをしなければ)
セレスはぎゅっと拳を握り締め、自分に言い聞かせた。
そして、震える息を整え、冷徹な能面を被った。
秋の収穫期。
かつては痩せて弱々しかった小麦が、今では大人の腰の高さまで成長し、重たげに穂を垂れている。
セレスが導入した土壌改良と品種選定、そして適切な水管理が実を結んだ結果だった。
「……収穫量、昨対比三五〇パーセント。品質等級、特Aランク比率九割以上」
執務室の窓から収穫作業を見下ろしながら、セレスは手元のデータを読み上げた。
完璧だった。
自身の計算を上回る成果だ。
「これで、領内の食糧自給率は安定圏に入りました。冬の備蓄も三年分は確保。他領への輸出による外貨獲得も順調……」
セレスはペンを置き、引き出しの奥から一枚の書類を取り出した。
半年前に交わした婚姻契約書である。
そこには、契約の解除条件として明確にこう記されていた。
『甲(セレス)が乙(ギデオン)に対し、領地の食糧問題を解決する技術を提供し、その成果が安定したと認められた時、本契約は満了とする』
セレスは指先でその一文をなぞった。
本来、この契約はお飾りの妻ではなく、技術顧問としての雇用契約に近いものだった。
目的は達成された。
領地は救われた。
つまり、論理的に導き出される結論は一つ。
(契約終了。私は、ここを去らなければなりません)
それは、当初から予定されていた既定路線のはずだった。
報酬を受け取り、次の研究場所──おそらく、この名声を聞きつけた他の領地や商会からオファーがあるだろう──へ移動する。
極めて合理的で、効率的なキャリアパスだ。
不意に、左胸の奥が鋭く痛んだ。
セレスは眉を寄せ、胸元を掌で押さえた。
(……狭心症のような圧迫感。それとも、ストレス性の胃痙攣でしょうか? いいえ、目標達成によるドーパミン報酬系が作動しているはずの局面で、ストレスを感じる理由が論理的に見当たりません)
セレスは深呼吸をして、痛みを散らそうとした。
だが、窓の外で働く領民たちの笑顔や、遠くに見える製粉所の水車を見るたびに、胸の痛みは増していく。
(おかしいですね。私は完璧に仕事をこなし、完璧な結果を出した。……なのに、なぜこんなにも足が重いのでしょう)
思考のリソースが乱れる。
その時、扉がノックされ、返事も待たずにギデオンが入ってきた。
「セレス、いるか? ちょっと来てくれ」
彼の手には、泥だらけの図面のようなものが握られていた。
その顔は、少年のようなワクワクした表情で輝いている。
「……どうされましたか、閣下」
「来年の計画だ。川の上流に、もう一つ新しい水車小屋を建てようと思っている。お前の設計した新型タービンを使えば、さらに効率が上がるはずだ」
ギデオンは図面を机に広げ、熱っぽく語り始めた。
「ここの土地を開墾して、新しい品種の蕎麦も試してみたい。お前、言ってたよな? 『蕎麦もまた、麺の可能性を広げる』って。あと、製麺工場の横に、お前のための専用ラボも増築するつもりだ。最新の機材を揃えてやる」
来年の話、再来年の話。
ギデオンの口から出る言葉は、すべて未来のことばかりだった。
そしてその未来には、当たり前のようにセレスがいることが前提となっていた。
「……これで、もっと色々な麺が作れるぞ。俺とお前で、この領地を世界一にするんだ」
ギデオンは屈託なく笑い、セレスを見た。
その眩しい笑顔を見た瞬間、セレスの胸の痛みが最大値に達した。
(ああ……そうか)
セレスは悟ってしまった。
この痛みは、病気ではない。
計算外の、しかし致命的なシステムエラー。
──情着、あるいは、依存。
いつの間にか、彼女はこの場所を、そしてこの不器用で優しい男の隣を、職場以上のものとして認識してしまっていたのだ。
これ以上ここにいれば、合理的な判断ができなくなる。
契約終了後も居座り続ければ、それは情に甘えることになり、プロフェッショナルとしての美学に反する。
(……私は、管理者として正しい振る舞いをしなければ)
セレスはぎゅっと拳を握り締め、自分に言い聞かせた。
そして、震える息を整え、冷徹な能面を被った。
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