31 / 40
第31話:涙
「……閣下」
「ん? どうした、顔色が悪いぞ。また腹が減ったか?」
ギデオンが心配そうに手を伸ばしてくる。
その温かい手が触れる前に、セレスは一歩下がって避けた。
ギデオンの手が空を切る。
「……セレス?」
「その計画に、修正が必要です」
「修正? どこだ? 予算なら心配するな、麺の売上で……」
「予算の問題ではありません。……人員配置の問題です」
セレスは机の上の契約書を、ギデオンの方へと滑らせた。
「本日の収穫確定をもちまして、契約書の第5条、目標の達成が完遂されました」
事務的な、あまりにも事務的な声だった。
「よって、契約に基づき、私の任務は終了となります。……私は、来年の春にはここにおりませんので、新規プロジェクトへの参画は不可能です」
部屋の空気が、凍りついた。
ギデオンは笑顔を張り付かせたまま、動かなくなった。
言葉の意味を理解するのに、数秒のラグが生じたようだった。
「……は?」
「ですから、契約満了です。私は荷物をまとめて、近日中に領を出ます。後任の技術者への引き継ぎ資料は、すでに作成済みです」
「ま、待て。待て待て待て」
ギデオンが慌てて図面を放り投げ、契約書を掴み上げた。
「なんだそれは。契約終了? 出て行く? ……冗談だろう?」
「私は業務報告において冗談を言ったことは一度もありません」
「だが……! うまくいってるじゃないか! 領地も、俺たちも!」
ギデオンが叫んだ。
その声には悲痛な響きが混じっていた。
「俺にはお前が必要だと言っただろう! 唯一無二だと!」
「ええ。ですから、その技術提供は完了しました。私のノウハウは全てマニュアル化して残しますので、誰がやっても八割の精度で再現可能です。私がこれ以上ここに常駐する理由はありません」
嘘だ。
理由などどうでもいい。
ただ、これ以上彼に惹かれて、別れが辛くなるのが怖いだけだ。
自分の心が、計算できないほど乱されるのが怖いのだ。
だから、セレスはあえて冷たい数字の盾に隠れた。
「……理由」
ギデオンが力なく呟いた。
金色の瞳が、傷ついた獣のように揺れている。
「お前にとって……、俺との日々は、ただのコスト計算の結果だったのか?」
「……契約ですから」
セレスは視線を逸らした。
直視すれば、決意が揺らぐ。
「報酬は十分にいただきました。感謝いたします。……失礼します」
セレスは逃げるように執務室を出ようとした。
すれ違いざま、ギデオンが何かを言おうとして、唇を噛み締め、拳を握りしめる気配がした。
だが、引き留める言葉はなかった。
バタン、と扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、セレスは壁に背中を預け、ズルズルと座り込んだ。
「……うっ」
胸が痛い。
先ほどよりも激しく、呼吸ができないほどに痛い。
目から、温かい液体が溢れ出した。
ただただ、悲しかった。
「……計算通りに終わらせたはずなのに。なぜ、こんなに苦しいのですか……」
誰もいない廊下で彼女は、初めて計算できない感情に打ちひしがれて泣いた。
二人の関係は、論理という名の迷路の中で、完全に行き場を失っていた。
「ん? どうした、顔色が悪いぞ。また腹が減ったか?」
ギデオンが心配そうに手を伸ばしてくる。
その温かい手が触れる前に、セレスは一歩下がって避けた。
ギデオンの手が空を切る。
「……セレス?」
「その計画に、修正が必要です」
「修正? どこだ? 予算なら心配するな、麺の売上で……」
「予算の問題ではありません。……人員配置の問題です」
セレスは机の上の契約書を、ギデオンの方へと滑らせた。
「本日の収穫確定をもちまして、契約書の第5条、目標の達成が完遂されました」
事務的な、あまりにも事務的な声だった。
「よって、契約に基づき、私の任務は終了となります。……私は、来年の春にはここにおりませんので、新規プロジェクトへの参画は不可能です」
部屋の空気が、凍りついた。
ギデオンは笑顔を張り付かせたまま、動かなくなった。
言葉の意味を理解するのに、数秒のラグが生じたようだった。
「……は?」
「ですから、契約満了です。私は荷物をまとめて、近日中に領を出ます。後任の技術者への引き継ぎ資料は、すでに作成済みです」
「ま、待て。待て待て待て」
ギデオンが慌てて図面を放り投げ、契約書を掴み上げた。
「なんだそれは。契約終了? 出て行く? ……冗談だろう?」
「私は業務報告において冗談を言ったことは一度もありません」
「だが……! うまくいってるじゃないか! 領地も、俺たちも!」
ギデオンが叫んだ。
その声には悲痛な響きが混じっていた。
「俺にはお前が必要だと言っただろう! 唯一無二だと!」
「ええ。ですから、その技術提供は完了しました。私のノウハウは全てマニュアル化して残しますので、誰がやっても八割の精度で再現可能です。私がこれ以上ここに常駐する理由はありません」
嘘だ。
理由などどうでもいい。
ただ、これ以上彼に惹かれて、別れが辛くなるのが怖いだけだ。
自分の心が、計算できないほど乱されるのが怖いのだ。
だから、セレスはあえて冷たい数字の盾に隠れた。
「……理由」
ギデオンが力なく呟いた。
金色の瞳が、傷ついた獣のように揺れている。
「お前にとって……、俺との日々は、ただのコスト計算の結果だったのか?」
「……契約ですから」
セレスは視線を逸らした。
直視すれば、決意が揺らぐ。
「報酬は十分にいただきました。感謝いたします。……失礼します」
セレスは逃げるように執務室を出ようとした。
すれ違いざま、ギデオンが何かを言おうとして、唇を噛み締め、拳を握りしめる気配がした。
だが、引き留める言葉はなかった。
バタン、と扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、セレスは壁に背中を預け、ズルズルと座り込んだ。
「……うっ」
胸が痛い。
先ほどよりも激しく、呼吸ができないほどに痛い。
目から、温かい液体が溢れ出した。
ただただ、悲しかった。
「……計算通りに終わらせたはずなのに。なぜ、こんなに苦しいのですか……」
誰もいない廊下で彼女は、初めて計算できない感情に打ちひしがれて泣いた。
二人の関係は、論理という名の迷路の中で、完全に行き場を失っていた。
あなたにおすすめの小説
誘拐された公爵令嬢ですが、なぜか皇帝に溺愛されています』
富士山麓
恋愛
舞踏会で王太子から婚約破棄を告げられそうになった瞬間――
目の前に現れたのは、馬に乗った仮面の皇帝だった。
そのまま攫われた公爵令嬢ビアンキーナは、誘拐されたはずなのに超VIP待遇。
一方、助けようともしなかった王太子は「無能」と嘲笑され、静かに失墜していく。
選ばれる側から、選ぶ側へ。
これは、誰も断罪せず、すべてを終わらせた令嬢の物語。
「通訳など辞書で足りる」と追放された令嬢——三国会談で、婚約者は一言も話せなくなった
歩人
ファンタジー
宮廷通訳官エレノーラは五つの言語を操り、婚約者クラウスの外交を陰で支えてきた。
だがクラウスは言った。「通訳など辞書で足りる。お前は要らない」
追放されたエレノーラは隣国で新たな道を歩み始める。
一方、クラウスは三国会談の場で辞書片手に立ち往生。
誤訳が外交問題に発展し、窮地に陥ったその場に、隣国の通訳官として現れたのは——。
「その言葉は、もう翻訳できません」
追放された宮廷花師が辺境の荒野に花を咲かせたら、王都の庭園だけが枯れ続けているようです
歩人
ファンタジー
「花を飾るだけの令嬢は不要だ」——王城の庭園を十年守った伯爵令嬢フローラは追放された。
翌月、王城の庭園が一夜にして枯れ果てる。さらに隣国への外交花束を用意できず国際問題に——
フローラの花束に込められた花言葉が、実は外交メッセージそのものだったのだ。
一方、辺境の荒野に降り立ったフローラが地面に触れると花が芽吹き始める。
荒野を花畑に変えていくスローライフの中で、花の感情が色で見える加護が目覚めて——。
「退屈な女だ」と婚約破棄されたので去りましたが、翌日から国政が止まったそうです。え、私はもう存じませんけど?
にたまご
恋愛
公爵令嬢クラーラは、ユリウス王太子殿下に婚約を破棄された。
「退屈な女だ」「何の取り柄もない」と。
否定はしない。
けれど殿下が知らないだけで、通商条約も予算案も外交書簡も、この国の政務の大半を六年間匿名で回していたのは──この「退屈な女」だ。
婚約破棄の翌朝、宰相補佐官のレオンが焼き菓子と四十二件の緊急報告を携えて公爵邸を訪れる。
「貴女がいなくなった王宮は、控えめに申し上げて、地獄です」
──存じません。私はもう、ただの無職ですので。
追放された落ちこぼれ令嬢ですが、氷血公爵様と辺境でスローライフを始めたら、天性の才能で領地がとんでもないことになっちゃいました!!
六角
恋愛
「君は公爵夫人に相応しくない」――王太子から突然婚約破棄を告げられた令嬢リナ。濡れ衣を着せられ、悪女の烙印を押された彼女が追放された先は、"氷血公爵"と恐れられるアレクシスが治める極寒の辺境領地だった。
家族にも見捨てられ、絶望の淵に立たされたリナだったが、彼女には秘密があった。それは、前世の知識と、誰にも真似できない天性の《領地経営》の才能!
「ここなら、自由に生きられるかもしれない」
活気のない領地に、リナは次々と革命を起こしていく。寂れた市場は活気あふれる商業区へ、痩せた土地は黄金色の麦畑へ。彼女の魔法のような手腕に、最初は冷ややかだった領民たちも、そして氷のように冷たいはずのアレクシスも、次第に心を溶かされていく。
「リナ、君は私の領地だけの女神ではない。……私だけの、女神だ」
「君は悪役令嬢だ」と離婚されたけど、追放先で伝説の力をゲット!最強の女王になって国を建てたら、後悔した元夫が求婚してきました
黒崎隼人
ファンタジー
「君は悪役令嬢だ」――冷酷な皇太子だった夫から一方的に離婚を告げられ、すべての地位と財産を奪われたアリシア。悪役の汚名を着せられ、魔物がはびこる辺境の地へ追放された彼女が見つけたのは、古代文明の遺跡と自らが「失われた王家の末裔」であるという衝撃の真実だった。
古代魔法の力に覚醒し、心優しき領民たちと共に荒れ地を切り拓くアリシア。
一方、彼女を陥れた偽りの聖女の陰謀に気づき始めた元夫は、後悔と焦燥に駆られていく。
追放された令嬢が運命に抗い、最強の女王へと成り上がる。
愛と裏切り、そして再生の痛快逆転ファンタジー、ここに開幕!
ベールを上げた新郎は『君じゃない』と叫んだ
ハートリオ
恋愛
結婚式で新郎に『君じゃない』と叫ばれたのはウィオラ。
スピーナ子爵家の次女。
どうやら新郎が結婚する積りだったのは姉のリリウム。
ウィオラはいつも『じゃない方』
認められない、
選ばれない…
そんなウィオラは――
中世ヨーロッパ風異世界でのお話です。
よろしくお願いします。
婚約破棄された令嬢は、“神の寵愛”で皇帝に溺愛される 〜私を笑った全員、ひざまずけ〜
夜桜
恋愛
「お前のような女と結婚するくらいなら、平民の娘を選ぶ!」
婚約者である第一王子・レオンに公衆の面前で婚約破棄を宣言された侯爵令嬢セレナ。
彼女は涙を見せず、静かに笑った。
──なぜなら、彼女の中には“神の声”が響いていたから。
「そなたに、我が祝福を授けよう」
神より授かった“聖なる加護”によって、セレナは瞬く間に癒しと浄化の力を得る。
だがその力を恐れた王国は、彼女を「魔女」と呼び追放した。
──そして半年後。
隣国の皇帝・ユリウスが病に倒れ、どんな祈りも届かぬ中、
ただ一人セレナの手だけが彼の命を繋ぎ止めた。
「……この命、お前に捧げよう」
「私を嘲った者たちが、どうなるか見ていなさい」
かつて彼女を追放した王国が、今や彼女に跪く。
──これは、“神に選ばれた令嬢”の華麗なるざまぁと、
“氷の皇帝”の甘すぎる寵愛の物語。