殿下から婚約破棄された後、戻ってきてくれと懇願されましたがもう遅いです。~契約結婚のはずなのに、溺愛されている気がするのですが~

水上

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第32話:招かれざる客

 荷造りは、着々と進んでいた。
 セレスの私室には、分類タグが付けられた木箱が整然と積み上げられている。

 中身は製粉に関するデータ、試作メモ、そしてこの領地で開発した数々のレシピだ。

(私物は最小限。あとは後任者への引き継ぎマニュアルを最終確認すれば、物理的な撤収準備は完了です)

 セレスは無表情でチェックリストに印をつけた。
 胸の痛みはまだ続いている。

 だが、それを未解決のバグとしてバックグラウンド処理に回し、表面上の業務を遂行するのが彼女のスタイルだった。

 その時、城のエントランスホールがにわかに騒がしくなった。
 怒号と、何かを乞うような悲鳴に近い声。

「通せ! 私を誰だと思っている! この国の王太子だぞ!」

「お引き取りください! アポイントメントのない面会は……!」

 聞き覚えのある、しかし以前よりずっとヒステリックな声。
 セレスは眼鏡の位置を直し、一つため息をついた。

 計算外の来訪者だ。

 だが、このタイミングで来たということは、清算すべき過去が向こうからやってきたということだろう。

「……最終処理を行いましょう」

 セレスは静かに部屋を出た。

 エントランスホールに降り立つと、そこには見るも無残な姿の男がいた。
 かつての婚約者、王太子ジュリアンだ。

 煌びやかだった衣装は泥と埃で汚れ、少し太り気味だった頬はげっそりとこけ、目の下には濃い隈ができている。

 彼を押し留めようとする衛兵たちの後ろには、腕を組み、鬼のような形相で仁王立ちするギデオンがいた。

「セレス!」

 階段を降りてきたセレスを見つけるなり、ジュリアンが目を輝かせた。

 彼は衛兵の手を振りほどき、セレスの足元に駆け寄ろうとしたが、ギデオンの鋭い視線に射すくめられ、数メートル手前で立ち止まった。

「……お久しぶりでございます、殿下。随分とおやつれになったようですが、体格指数の急激な変動は健康リスクを高めますよ」

「嫌味を言っている場合か! セレス、頼む、戻ってきてくれ!」

 ジュリアンはなりふり構わず叫んだ。

「王都は地獄だ! パンはカビだらけ、ロザリーの工場はストライキで停止、貴族たちは次々と逃げ出し……、父上からは『なんとかしなければ廃嫡だ』と脅されている!」

 彼は両手を合わせ、拝むような仕草を見せた。

「お前が必要なんだ! お前の知識があれば、カビた麦も食べられるようになるのだろう? 工場の職人たちも戻ってくるはずだ! そうだ、隣国への謝罪文も書いてくれ。お前の文章なら、奴らも納得するはずだ!」

 自分の尻拭いをすべて丸投げする発言。
 セレスは冷ややかな目で彼を見下ろした。

 かつては、この男のために尽くすことが正義だと信じていた時期もあった。
 だが今、彼女の目には非効率なトラブルメーカーとしか映らない。

 セレスは小さくため息をつき、彼に話し始めた。

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