殿下から婚約破棄された後、戻ってきてくれと懇願されましたがもう遅いです。~契約結婚のはずなのに、溺愛されている気がするのですが~

水上

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第36話:後悔する男と、後悔したくない男

「いやあ、やっぱり北の麺はすげえな。こんなに煮込んでも全然伸びねえ」

「ああ。ロックホールド辺境伯領から届いた支援物資だってよ。向こうじゃ、この乾麺のおかげで冬でも食い物に困らねえらしい」

「セレス様……、だっけか? あそこへ嫁いだ奥様が開発したんだとよ。本当に、女神様みたいな人だよな」

 ──セレス。

 その名前を聞いた瞬間、ジュリアンとロザリーの手が止まった。

 この麺は、セレスが作ったものなのか。
 あの「粉臭い」「可愛げがない」「能面のようだ」と蔑み、笑いものにして追放した女が。

 辺境の地で開発し、国中に広め、そして今、落ちぶれた自分たちの命を救っている。

「……あ」

 ジュリアンは椀の中の麺を見つめた。
 黄金色に輝く麺の縮れは、まるでセレスが計算式を書き連ねた文字のように見えた。

 そこには、確かな知識と、技術と、食べる人への配慮が詰まっている。
 「愛があれば」と叫びながら、何も生み出さず、ただ消費して腐らせた自分たちとは対照的に。

(私は……、何を捨ててしまったんだ)

 後悔という名の冷たい刃が、温まったばかりの胃袋を突き刺した。
 彼女は言っていた。

 『愛でお腹は膨れない』と。
 その通りだった。

 今、自分たちの腹を満たし、命を繋いでいるのは、彼女の論理と計算が生み出した成果物だけだ。

 隣を見ると、ロザリーが椀を抱えたまま、静かに泣いていた。

「……勝てないわ」

 彼女は掠れた声で呟いた。

「可愛く甘えることしかできない私じゃ……、こんな凄いもの、一生作れない。逆立ちしたって敵わなかったのよ……」

 ロザリーの涙がスープに落ちて波紋を作った。
 彼女も気づいたのだ。

 自分が盗んだ論文の価値と、それを形にする本当の実力差に。
 「私がやればもっとうまくいく」という言葉が、いかに浅はかで滑稽だったかを。

 冬空の下、廃嫡された元王太子と、家を失った元男爵令嬢。
 二人は、自分たちが追い出した女性からの施しを啜るしかなかった。

 あまりにも皮肉で、あまりにも残酷な現実。
 だが、麺は悔しいほどに美味しかった。

「こんなことになるなら、あの時、婚約破棄なんてしなければ……」

 ジュリアンの口から、情けない本音が漏れた。
 だが、その声は北風にかき消され、誰の耳にも届かない。

 たとえ届いたとしても、もう遅い。

 ジュリアンは空になった椀を抱きしめ、うずくまって泣いた。
 かつて彼が「つまらない」と切り捨てたものが、今は彼にとって唯一の温もりだった。

 その温もりが、彼の愚かさを永遠に責め立てているようだった。

     *

 一方、ロックホールド辺境伯領。
 セレスは自室で、最後の荷物をまとめていた。

「……くしゅん」

 小さくくしゃみが出る。

「誰かが噂でもしているのでしょうか。……非科学的ですね。単なる寒暖差アレルギーです」

 セレスは鼻をすすり、部屋を見回した。
 綺麗に片付いた部屋。

 明日、ここを出る。
 ジュリアンの襲来は解決したが、彼女の中での契約満了という事実は変わっていない。

 胸の痛みはずっと続いている。

「……行きましょう」

 セレスはトランクを持ち上げた。
 その時、廊下の向こうからドタドタと足音が近づいてくるのが聞こえた。

 ノックもなしに扉が開かれる。

「セレス!」

 息を切らせて立っていたのは、ギデオンだった。

 そして、その手には、一枚の新しい羊皮紙が握りしめられていた。

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