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第37話:新たな契約
部屋の扉を塞ぐようにして立つギデオンは、まるで巨大な岩壁のようだった。
彼は肩で息をしながら、金色の瞳でセレスを射抜くように見つめている。
その手には、くしゃくしゃになった羊皮紙が一枚、握りしめられていた。
「……閣下。通行の妨げになっています。安全な動線確保のため、退いていただけますか」
セレスはトランクの取っ手を強く握り、できるだけ冷静な声を装った。
だが、ギデオンは動かない。
むしろ一歩、部屋の中へと踏み込んできた。
「どこへ行くつもりだ」
「ご報告した通りです。契約満了に伴う退去です。後任者へのマニュアルは机の上に……」
「そんなものはどうでもいい!」
ギデオンが怒鳴った。
セレスがびくりと肩を震わせると、彼はバツが悪そうに視線を逸らし、声を少し落とした。
「……すまん。だが、納得がいかん。お前は本当に、これで終わりでいいのか? 俺との日々は、ただの業務だったのか?」
その問いかけは、セレスの胸の痛みを直撃した。
業務なわけがない。
製粉の研究よりも、麺の開発よりも、彼と過ごす食卓の時間の方がずっと大切になっていた。
けれど、それを認めてしまえば、自分の中の論理が崩壊する。
「……感情論は生産性を下げます。契約書に基づき、私は……」
「なら、契約の話をしよう」
ギデオンはセレスの言葉を遮り、手に持っていた羊皮紙を突き出した。
それは、王太子が持ってきたような煌びやかな辞令書でも、公的な書類でもなかった。
インクの染みがついた、手書きの、それも書き殴ったような跡がある紙切れだ。
「契約更新だ。……いや、新規契約の申し込みと言ったほうが正しいか」
ギデオンはぶっきらぼうに言った。
「前の契約が満了したというなら、新しい契約を結べばいい。お前はフリーの技術者なんだろう? なら、俺にもオファーを出す権利があるはずだ」
セレスは瞬きをした。
確かに論理的だ。
彼女はトランクを置き、職業病ともいえる習性で、その紙を受け取ってしまった。
「……拝見します」
セレスは眼鏡の位置を直し、その拙い文字を目で追った。
『新規パートナーシップ契約書』
第1条(契約期間)
『本日より、双方の生命活動が停止するまで(生涯)』
セレスの目が点になった。
長期契約にも程がある。
「……閣下。期間設定が長すぎます。リスク管理の観点から、通常は一年ごとの更新とするのが一般的ですが」
「却下だ。それ以下は認めん」
「独占禁止法に抵触する恐れがあります」
「構わん。俺がお前を独占したいんだ」
ギデオンは真っ直ぐに言い放った。
セレスは頬が熱くなるのを感じながら、視線を下へと滑らせた。
第2条(報酬)
『ロックホールド辺境伯ギデオンの全資産、全権限、およびギデオン個人の全愛情』
第3条(業務内容)
『1.美味しい麺を作ること(任意)』
『2.俺の隣で、毎日美味い飯を食うこと(必須)』
『3.俺の隣で、幸せになること(最優先事項)』
読み進めるにつれて、セレスの手が震え出した。
これは契約書ではない。
あまりにも不器用で、論理的整合性が欠如していて、採算度外視の……、ラブレターだ。
「……異論は、認めん」
ギデオンが、祈るような声で付け加えた。
「お前が言った条件……、予算も、権限も、敬意も、全部やる。俺の命もやる。だから……、俺のそばにいてくれ」
彼は一歩近づき、セレスの手から羊皮紙を取り上げると、代わりに彼女の両手を、自身の大きく温かい手で包み込んだ。
「俺は、お前がいいんだ。製粉の知識があるからじゃない。お前がセレスだからだ。……理屈じゃない」
理屈じゃない。
その言葉が、セレスの中にあった最後の防壁を粉砕した。
彼は肩で息をしながら、金色の瞳でセレスを射抜くように見つめている。
その手には、くしゃくしゃになった羊皮紙が一枚、握りしめられていた。
「……閣下。通行の妨げになっています。安全な動線確保のため、退いていただけますか」
セレスはトランクの取っ手を強く握り、できるだけ冷静な声を装った。
だが、ギデオンは動かない。
むしろ一歩、部屋の中へと踏み込んできた。
「どこへ行くつもりだ」
「ご報告した通りです。契約満了に伴う退去です。後任者へのマニュアルは机の上に……」
「そんなものはどうでもいい!」
ギデオンが怒鳴った。
セレスがびくりと肩を震わせると、彼はバツが悪そうに視線を逸らし、声を少し落とした。
「……すまん。だが、納得がいかん。お前は本当に、これで終わりでいいのか? 俺との日々は、ただの業務だったのか?」
その問いかけは、セレスの胸の痛みを直撃した。
業務なわけがない。
製粉の研究よりも、麺の開発よりも、彼と過ごす食卓の時間の方がずっと大切になっていた。
けれど、それを認めてしまえば、自分の中の論理が崩壊する。
「……感情論は生産性を下げます。契約書に基づき、私は……」
「なら、契約の話をしよう」
ギデオンはセレスの言葉を遮り、手に持っていた羊皮紙を突き出した。
それは、王太子が持ってきたような煌びやかな辞令書でも、公的な書類でもなかった。
インクの染みがついた、手書きの、それも書き殴ったような跡がある紙切れだ。
「契約更新だ。……いや、新規契約の申し込みと言ったほうが正しいか」
ギデオンはぶっきらぼうに言った。
「前の契約が満了したというなら、新しい契約を結べばいい。お前はフリーの技術者なんだろう? なら、俺にもオファーを出す権利があるはずだ」
セレスは瞬きをした。
確かに論理的だ。
彼女はトランクを置き、職業病ともいえる習性で、その紙を受け取ってしまった。
「……拝見します」
セレスは眼鏡の位置を直し、その拙い文字を目で追った。
『新規パートナーシップ契約書』
第1条(契約期間)
『本日より、双方の生命活動が停止するまで(生涯)』
セレスの目が点になった。
長期契約にも程がある。
「……閣下。期間設定が長すぎます。リスク管理の観点から、通常は一年ごとの更新とするのが一般的ですが」
「却下だ。それ以下は認めん」
「独占禁止法に抵触する恐れがあります」
「構わん。俺がお前を独占したいんだ」
ギデオンは真っ直ぐに言い放った。
セレスは頬が熱くなるのを感じながら、視線を下へと滑らせた。
第2条(報酬)
『ロックホールド辺境伯ギデオンの全資産、全権限、およびギデオン個人の全愛情』
第3条(業務内容)
『1.美味しい麺を作ること(任意)』
『2.俺の隣で、毎日美味い飯を食うこと(必須)』
『3.俺の隣で、幸せになること(最優先事項)』
読み進めるにつれて、セレスの手が震え出した。
これは契約書ではない。
あまりにも不器用で、論理的整合性が欠如していて、採算度外視の……、ラブレターだ。
「……異論は、認めん」
ギデオンが、祈るような声で付け加えた。
「お前が言った条件……、予算も、権限も、敬意も、全部やる。俺の命もやる。だから……、俺のそばにいてくれ」
彼は一歩近づき、セレスの手から羊皮紙を取り上げると、代わりに彼女の両手を、自身の大きく温かい手で包み込んだ。
「俺は、お前がいいんだ。製粉の知識があるからじゃない。お前がセレスだからだ。……理屈じゃない」
理屈じゃない。
その言葉が、セレスの中にあった最後の防壁を粉砕した。
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