殿下から婚約破棄された後、戻ってきてくれと懇願されましたがもう遅いです。~契約結婚のはずなのに、溺愛されている気がするのですが~

水上

文字の大きさ
40 / 40

第40話:人生は味わい深い

「いただきます」

 二人は声を揃えて手を合わせた。
 セレスはレンゲでスープを一口含む。

「……ん」

 口いっぱいに広がる、鶏の旨味と野菜の甘み。
 塩味の角が取れていて、まろやかだ。

 そして麺を啜る。
 ツルッとした滑らかな舌触りの後、モチモチとした弾力が歯を楽しませる。

 小麦の香りが鼻腔を抜け、スープとの絡みも計算し尽くされている。

「……どうだ?」

 ギデオンが期待を込めて見てくる。
 セレスは眼鏡を外し、湯気で少し湿った瞳で彼を見つめ返した。

「……グルタミン酸とイノシン酸の相乗効果が最大化されています。麺の加水率四二パーセントも、このあっさりしたスープには最適解です。そして何より……」

 セレスは一度言葉を切り、微笑んだ。

「あなたの作ってくれる食事は、世界で一番、私の細胞を喜ばせてくれます」

 ギデオンは照れくさそうに鼻を擦った。

「理屈っぽい褒め言葉だが……、まあ、悪くない」

「事実ですから。……あなたも、早く食べてください。麺が伸びることは、宇宙のエントロピー増大則と同じくらい不可逆な損失です」

「わかったわかった」

 ギデオンも麺を豪快に啜り始めた。
 ズルズル、という音が、静かなダイニングに響く。
 
 今の二人にとって、これほど心地よいBGMはなかった。

 食べている間、二人は多くを語らなかった。

 「美味いな」

「ええ、美味しいです」

 それだけで十分だった。

 かつて、セレスは考えていた。
 人生とは、問題を解決し、効率を最大化し、リスクを排除する連続であると。

 けれど今、彼女の目の前には、計算できない幸せがある。

 不器用だが、誰よりも自分の能力を信じてくれる夫。
 自分たちの技術で豊かになった領地。

 そして、湯気の向こうに見える、穏やかな日常。

(……不思議ですね)

 セレスは丼の底に残ったスープを見つめた。
 愛でお腹は膨れない。それは物理的な事実だ。

 けれど、美味しい食事を大切な人と囲む時、そこにある愛のような温かい何かは、確かに心を栄養で満たしてくれる。

 それはカロリー計算には表れない、けれど生きていく上で不可欠なエネルギーだ。

「……ごちそうさまでした」

「お、完食だな。……まだ食えるか? デザートに、お前の好きな蒸しパンもあるぞ」

 ギデオンが嬉しそうに提案する。
 セレスは一瞬、自身の摂取カロリーと基礎代謝を天秤にかけたが、即座に思考を切り捨てた。

「はい、いただきます」

 ギデオンが立ち上がる。
 その広い背中を見ながら、セレスは心の中で独りごちた。

 かつて、自分は全てを失ったと思っていた。
 地位も、名誉も、居場所も。

 けれど、知識と技術だけは残った。
 そしてそれを拾い上げ、共に歩んでくれるパートナーに出会えた。

 人生は、製粉に似ている。

 硬い殻に覆われた日々を、努力という石臼で時間をかけて挽き、苦味を取り除き、知恵という水で練り上げる。

 そうして出来上がったものは、どんな形であれ、噛みしめるほどに味が出る。

 セレスは窓の外、広がる星空を見上げた。

 王都で食べた豪華な料理よりも、この辺境の、少し形は不格好な温かい麺の方が、ずっとずっと美味しい。

 私たちには知識と、技術と、美味しい食事がある。
 そして、隣には愛する人がいる。

 それだけで、人生は十分に味わい深い。

「……さて、蒸しパンの膨張率もチェックしませんとね」

 戻ってきたギデオンに、セレスは最高に幸せな、満面の笑みを向けた。

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

追放された宮廷花師が辺境の荒野に花を咲かせたら、王都の庭園だけが枯れ続けているようです

歩人
ファンタジー
「花を飾るだけの令嬢は不要だ」——王城の庭園を十年守った伯爵令嬢フローラは追放された。 翌月、王城の庭園が一夜にして枯れ果てる。さらに隣国への外交花束を用意できず国際問題に—— フローラの花束に込められた花言葉が、実は外交メッセージそのものだったのだ。 一方、辺境の荒野に降り立ったフローラが地面に触れると花が芽吹き始める。 荒野を花畑に変えていくスローライフの中で、花の感情が色で見える加護が目覚めて——。

「通訳など辞書で足りる」と追放された令嬢——三国会談で、婚約者は一言も話せなくなった

歩人
ファンタジー
宮廷通訳官エレノーラは五つの言語を操り、婚約者クラウスの外交を陰で支えてきた。 だがクラウスは言った。「通訳など辞書で足りる。お前は要らない」 追放されたエレノーラは隣国で新たな道を歩み始める。 一方、クラウスは三国会談の場で辞書片手に立ち往生。 誤訳が外交問題に発展し、窮地に陥ったその場に、隣国の通訳官として現れたのは——。 「その言葉は、もう翻訳できません」

誘拐された公爵令嬢ですが、なぜか皇帝に溺愛されています』

富士山麓
恋愛
舞踏会で王太子から婚約破棄を告げられそうになった瞬間―― 目の前に現れたのは、馬に乗った仮面の皇帝だった。 そのまま攫われた公爵令嬢ビアンキーナは、誘拐されたはずなのに超VIP待遇。 一方、助けようともしなかった王太子は「無能」と嘲笑され、静かに失墜していく。 選ばれる側から、選ぶ側へ。 これは、誰も断罪せず、すべてを終わらせた令嬢の物語。

「退屈な女だ」と婚約破棄されたので去りましたが、翌日から国政が止まったそうです。え、私はもう存じませんけど?

にたまご
恋愛
公爵令嬢クラーラは、ユリウス王太子殿下に婚約を破棄された。 「退屈な女だ」「何の取り柄もない」と。 否定はしない。 けれど殿下が知らないだけで、通商条約も予算案も外交書簡も、この国の政務の大半を六年間匿名で回していたのは──この「退屈な女」だ。 婚約破棄の翌朝、宰相補佐官のレオンが焼き菓子と四十二件の緊急報告を携えて公爵邸を訪れる。 「貴女がいなくなった王宮は、控えめに申し上げて、地獄です」 ──存じません。私はもう、ただの無職ですので。

「君は悪役令嬢だ」と離婚されたけど、追放先で伝説の力をゲット!最強の女王になって国を建てたら、後悔した元夫が求婚してきました

黒崎隼人
ファンタジー
「君は悪役令嬢だ」――冷酷な皇太子だった夫から一方的に離婚を告げられ、すべての地位と財産を奪われたアリシア。悪役の汚名を着せられ、魔物がはびこる辺境の地へ追放された彼女が見つけたのは、古代文明の遺跡と自らが「失われた王家の末裔」であるという衝撃の真実だった。 古代魔法の力に覚醒し、心優しき領民たちと共に荒れ地を切り拓くアリシア。 一方、彼女を陥れた偽りの聖女の陰謀に気づき始めた元夫は、後悔と焦燥に駆られていく。 追放された令嬢が運命に抗い、最強の女王へと成り上がる。 愛と裏切り、そして再生の痛快逆転ファンタジー、ここに開幕!

追放された落ちこぼれ令嬢ですが、氷血公爵様と辺境でスローライフを始めたら、天性の才能で領地がとんでもないことになっちゃいました!!

六角
恋愛
「君は公爵夫人に相応しくない」――王太子から突然婚約破棄を告げられた令嬢リナ。濡れ衣を着せられ、悪女の烙印を押された彼女が追放された先は、"氷血公爵"と恐れられるアレクシスが治める極寒の辺境領地だった。 家族にも見捨てられ、絶望の淵に立たされたリナだったが、彼女には秘密があった。それは、前世の知識と、誰にも真似できない天性の《領地経営》の才能! 「ここなら、自由に生きられるかもしれない」 活気のない領地に、リナは次々と革命を起こしていく。寂れた市場は活気あふれる商業区へ、痩せた土地は黄金色の麦畑へ。彼女の魔法のような手腕に、最初は冷ややかだった領民たちも、そして氷のように冷たいはずのアレクシスも、次第に心を溶かされていく。 「リナ、君は私の領地だけの女神ではない。……私だけの、女神だ」

婚約破棄された令嬢は、“神の寵愛”で皇帝に溺愛される 〜私を笑った全員、ひざまずけ〜

夜桜
恋愛
「お前のような女と結婚するくらいなら、平民の娘を選ぶ!」 婚約者である第一王子・レオンに公衆の面前で婚約破棄を宣言された侯爵令嬢セレナ。 彼女は涙を見せず、静かに笑った。 ──なぜなら、彼女の中には“神の声”が響いていたから。 「そなたに、我が祝福を授けよう」 神より授かった“聖なる加護”によって、セレナは瞬く間に癒しと浄化の力を得る。 だがその力を恐れた王国は、彼女を「魔女」と呼び追放した。 ──そして半年後。 隣国の皇帝・ユリウスが病に倒れ、どんな祈りも届かぬ中、 ただ一人セレナの手だけが彼の命を繋ぎ止めた。 「……この命、お前に捧げよう」 「私を嘲った者たちが、どうなるか見ていなさい」 かつて彼女を追放した王国が、今や彼女に跪く。 ──これは、“神に選ばれた令嬢”の華麗なるざまぁと、 “氷の皇帝”の甘すぎる寵愛の物語。

これが普通なら、獣人と結婚したくないわ~王女様は復讐を始める~

黒鴉そら
ファンタジー
「私には心から愛するテレサがいる。君のような偽りの愛とは違う、魂で繋がった番なのだ。君との婚約は破棄させていただこう!」 自身の成人を祝う誕生パーティーで婚約破棄を申し出た王子と婚約者と番と、それを見ていた第三者である他国の姫のお話。 全然関係ない第三者がおこなっていく復讐? そこまでざまぁ要素は強くないです。 最後まで書いているので更新をお待ちください。6話で完結の短編です。