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第16話:辺境の繁栄と、穏やかな日々
クリストフェル元王太子とクロエが、罪人として王都へ護送されてから数ヶ月。
季節は巡り、アッシュバーン辺境伯領には遅い春が訪れていた。
かつては痩せていた大地は、今や劇的な変貌を遂げていた。
ヴィオラが整備したゴムホースによる灌漑システムのおかげで、農地には青々とした麦が茂り、ゴム底靴を履いた農民たちが活気よく働いている。
そして何より変わったのは、領都の風景だった。
活気ある槌音が響き、あちこちで建設工事が行われている。
王都から移転してきた商会をはじめとする多くの商人が、この地に拠点を構えたのだ。
「奥方様! 追加発注の高耐久ゴムタイヤ、五〇〇個納品完了しました!」
「こちらの防水シートも出荷準備よし! 王都からの注文が殺到して、生産が追いつきません!」
工場地帯を視察するヴィオラに、現場監督たちが嬉々として報告を上げてくる。
ヴィオラは白衣のポケットに手を入れ、積まれた製品の山を満足げに見上げた。
「……王都の復興需要を見越してラインを増設した判断は、最適解でしたね」
王都は今、崩壊したインフラを立て直すために必死だ。
皮肉なことに、彼らが喉から手が出るほど欲しているのは、かつて追い出したヴィオラが開発したゴム製品だった。
辺境伯領はそれらを高値で輸出し、莫大な外貨を獲得している。
その富が領内に還元され、さらなる技術投資を生むという、理想的な経済循環が完成していた。
「これもすべて、ヴィオラ様のおかげです!」
「へへっ、俺たちの作ったゴムが国を救ってるんだ。誇らしいや!」
職人たちの顔には、かつての王立工房にはなかった誇りと生気が満ちていた。
油にまみれた手も、煤けた顔も、ここでは勲章だ。
誰一人として、それを「汚い」などと蔑む者はいない。
工場の視察を終えたヴィオラは、迎えに来たルーファスと共に領都の大通りを歩いていた。
護衛もつけないお忍び(のつもり)だが、二人の姿はあまりに目立つ。
だが、すれ違う領民たちが向ける視線は、畏怖や嘲笑ではなく、親愛と敬意に満ちていた。
「あ、領主様! 奥方様!」
「この前の滑らない靴、最高だ! 婆ちゃんの腰痛が治ったよ!」
「奥方様、うちの畑で採れたトマトです! 栄養たっぷりですよ!」
次々と声をかけられ、ヴィオラの両手はあっという間に貢ぎ物でいっぱいになった。
かつて王都の夜会で、誰からも無視されていた自分が、ここでは中心にいる。
「……不思議な感覚です」
ヴィオラはぽつりと漏らした。
「私はただ、物理法則に従って最適解を出力しただけ。愛想を振りまいたわけでも、ドレスで着飾ったわけでもありません。以前と同じ、地味で堅物な機能重視のままです」
それなのに、なぜこんなにも温かいのか。
ルーファスは隣を歩きながら、穏やかな目でヴィオラを見下ろした。
「お前はまだ分かっていないな。民が見ているのは、外装の華やかさじゃない。中身と、実績だ」
彼は彼女の荷物を持ってやった。
「お前が泥にまみれて井戸を直し、徹夜で図面を引き、彼らの生活を良くしようと戦ったこと。その熱量が伝導したんだ。……ここでは、お前のその白衣と眼鏡こそが、最も美しいドレスコードなんだよ」
ヴィオラは瞬きをした。
白衣と眼鏡が、美しい。
王都では「色気がない」「研究室に引きこもる陰気な女」と言われ続けてきた記号が、ここでは信頼の証となっている。
「……評価基準が違うと、こうも扱いに差が出るものなのですね」
「ああ。ここは辺境だ。生きるか死ぬかの最前線だからな。口先だけの愛嬌より、明日を生き抜くための知恵の方が価値がある」
ルーファスは少し意地悪そうに笑った。
「ま、俺にとっては、お前の愛嬌……、たまに見せる熱暴走気味の反応も、かなりの高評価ポイントだがな」
「……っ、か、閣下! 公道での不必要な好意の表明は、周囲の交通の妨げになります!」
ヴィオラは顔を赤くして抗議したが、ルーファスは楽しそうに笑うだけだった。
屋敷に戻り、夕食までのひととき。
二人はテラスで、沈みゆく夕日を眺めていた。
眼下には、煙突から煙を上げる工場群と、豊かに実った農地、そして家路につく人々の灯りが見える。
かつては寒々しい荒野だった場所が、今は生命力に溢れていた。
「……私が求めていたのは、これだったのかもしれません」
ヴィオラは手すりに寄りかかり、独り言のように呟いた。
「王都にいた頃、私は常に周囲との間に絶縁材を挟んで生きてきました。他人の評価などノイズだと切り捨てて……、でも、それは本当は怖かっただけなのかもしれません」
理解されないこと。
拒絶されること。
だから心を硬化させ、理論武装して身を守っていた。
「でも、ここでは絶縁する必要がありません。ノイズではなく、意味のある信号だけが届きますから」
ありがとう、すごい、助かった。
そんな単純で温かい言葉たちが、ヴィオラの心の奥底まで抵抗なく届き、じんわりとした熱を生んでいる。
ヴィオラが照れくさそうに笑うと、ルーファスは彼女の隣に立ち、そっと肩を抱き寄せた。
「お前はもっと欲張っていい。技術者としてだけでなく、一人の女性としてもな」
「……女性として?」
「ああ。契約書には書いてなかったか? 幸福追求権は、パートナーとして当然の権利だと」
ルーファスの大きな手が、ヴィオラの手を包み込む。
その体温は心地よく、ヴィオラを安心させた。
「……では、権利を行使します」
ヴィオラは少し背伸びをして、ルーファスの頬に口づけた。
ルーファスが驚いて目を丸くする。
「……不意打ちは反則だぞ」
「奇襲攻撃は戦術の基本です。それに、接触によるオキシトシンの分泌は、ストレス軽減に有効ですから」
理屈を並べ立てるヴィオラの耳は真っ赤だ。
ルーファスは愛おしさに耐えきれず、彼女を強く抱きしめた。
「……ああ、有効だな。効果てきめんだ」
夕陽が二人を黄金色に染める。
王都の混乱も、元婚約者の没落も、もはや遠い世界の出来事だ。
ここには、努力が正当に報われる世界があり、互いを尊重し合えるパートナーがいる。
それこそが、ヴィオラが勝ち取った、何よりの報酬だった。
辺境の夜は穏やかに、未来への希望を孕んで更けていく。
それは、二人の契約期間の満了が近づいていることを知らせる、静かなカウントダウンでもあった。
季節は巡り、アッシュバーン辺境伯領には遅い春が訪れていた。
かつては痩せていた大地は、今や劇的な変貌を遂げていた。
ヴィオラが整備したゴムホースによる灌漑システムのおかげで、農地には青々とした麦が茂り、ゴム底靴を履いた農民たちが活気よく働いている。
そして何より変わったのは、領都の風景だった。
活気ある槌音が響き、あちこちで建設工事が行われている。
王都から移転してきた商会をはじめとする多くの商人が、この地に拠点を構えたのだ。
「奥方様! 追加発注の高耐久ゴムタイヤ、五〇〇個納品完了しました!」
「こちらの防水シートも出荷準備よし! 王都からの注文が殺到して、生産が追いつきません!」
工場地帯を視察するヴィオラに、現場監督たちが嬉々として報告を上げてくる。
ヴィオラは白衣のポケットに手を入れ、積まれた製品の山を満足げに見上げた。
「……王都の復興需要を見越してラインを増設した判断は、最適解でしたね」
王都は今、崩壊したインフラを立て直すために必死だ。
皮肉なことに、彼らが喉から手が出るほど欲しているのは、かつて追い出したヴィオラが開発したゴム製品だった。
辺境伯領はそれらを高値で輸出し、莫大な外貨を獲得している。
その富が領内に還元され、さらなる技術投資を生むという、理想的な経済循環が完成していた。
「これもすべて、ヴィオラ様のおかげです!」
「へへっ、俺たちの作ったゴムが国を救ってるんだ。誇らしいや!」
職人たちの顔には、かつての王立工房にはなかった誇りと生気が満ちていた。
油にまみれた手も、煤けた顔も、ここでは勲章だ。
誰一人として、それを「汚い」などと蔑む者はいない。
工場の視察を終えたヴィオラは、迎えに来たルーファスと共に領都の大通りを歩いていた。
護衛もつけないお忍び(のつもり)だが、二人の姿はあまりに目立つ。
だが、すれ違う領民たちが向ける視線は、畏怖や嘲笑ではなく、親愛と敬意に満ちていた。
「あ、領主様! 奥方様!」
「この前の滑らない靴、最高だ! 婆ちゃんの腰痛が治ったよ!」
「奥方様、うちの畑で採れたトマトです! 栄養たっぷりですよ!」
次々と声をかけられ、ヴィオラの両手はあっという間に貢ぎ物でいっぱいになった。
かつて王都の夜会で、誰からも無視されていた自分が、ここでは中心にいる。
「……不思議な感覚です」
ヴィオラはぽつりと漏らした。
「私はただ、物理法則に従って最適解を出力しただけ。愛想を振りまいたわけでも、ドレスで着飾ったわけでもありません。以前と同じ、地味で堅物な機能重視のままです」
それなのに、なぜこんなにも温かいのか。
ルーファスは隣を歩きながら、穏やかな目でヴィオラを見下ろした。
「お前はまだ分かっていないな。民が見ているのは、外装の華やかさじゃない。中身と、実績だ」
彼は彼女の荷物を持ってやった。
「お前が泥にまみれて井戸を直し、徹夜で図面を引き、彼らの生活を良くしようと戦ったこと。その熱量が伝導したんだ。……ここでは、お前のその白衣と眼鏡こそが、最も美しいドレスコードなんだよ」
ヴィオラは瞬きをした。
白衣と眼鏡が、美しい。
王都では「色気がない」「研究室に引きこもる陰気な女」と言われ続けてきた記号が、ここでは信頼の証となっている。
「……評価基準が違うと、こうも扱いに差が出るものなのですね」
「ああ。ここは辺境だ。生きるか死ぬかの最前線だからな。口先だけの愛嬌より、明日を生き抜くための知恵の方が価値がある」
ルーファスは少し意地悪そうに笑った。
「ま、俺にとっては、お前の愛嬌……、たまに見せる熱暴走気味の反応も、かなりの高評価ポイントだがな」
「……っ、か、閣下! 公道での不必要な好意の表明は、周囲の交通の妨げになります!」
ヴィオラは顔を赤くして抗議したが、ルーファスは楽しそうに笑うだけだった。
屋敷に戻り、夕食までのひととき。
二人はテラスで、沈みゆく夕日を眺めていた。
眼下には、煙突から煙を上げる工場群と、豊かに実った農地、そして家路につく人々の灯りが見える。
かつては寒々しい荒野だった場所が、今は生命力に溢れていた。
「……私が求めていたのは、これだったのかもしれません」
ヴィオラは手すりに寄りかかり、独り言のように呟いた。
「王都にいた頃、私は常に周囲との間に絶縁材を挟んで生きてきました。他人の評価などノイズだと切り捨てて……、でも、それは本当は怖かっただけなのかもしれません」
理解されないこと。
拒絶されること。
だから心を硬化させ、理論武装して身を守っていた。
「でも、ここでは絶縁する必要がありません。ノイズではなく、意味のある信号だけが届きますから」
ありがとう、すごい、助かった。
そんな単純で温かい言葉たちが、ヴィオラの心の奥底まで抵抗なく届き、じんわりとした熱を生んでいる。
ヴィオラが照れくさそうに笑うと、ルーファスは彼女の隣に立ち、そっと肩を抱き寄せた。
「お前はもっと欲張っていい。技術者としてだけでなく、一人の女性としてもな」
「……女性として?」
「ああ。契約書には書いてなかったか? 幸福追求権は、パートナーとして当然の権利だと」
ルーファスの大きな手が、ヴィオラの手を包み込む。
その体温は心地よく、ヴィオラを安心させた。
「……では、権利を行使します」
ヴィオラは少し背伸びをして、ルーファスの頬に口づけた。
ルーファスが驚いて目を丸くする。
「……不意打ちは反則だぞ」
「奇襲攻撃は戦術の基本です。それに、接触によるオキシトシンの分泌は、ストレス軽減に有効ですから」
理屈を並べ立てるヴィオラの耳は真っ赤だ。
ルーファスは愛おしさに耐えきれず、彼女を強く抱きしめた。
「……ああ、有効だな。効果てきめんだ」
夕陽が二人を黄金色に染める。
王都の混乱も、元婚約者の没落も、もはや遠い世界の出来事だ。
ここには、努力が正当に報われる世界があり、互いを尊重し合えるパートナーがいる。
それこそが、ヴィオラが勝ち取った、何よりの報酬だった。
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