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第13話:旅立つ妻
夕刻、職人たちが帰宅し、静まり返った工房。
エルサとバルトは、完成間近の月桂樹のダイニングチェアを前に、二人きりで向かい合っていた。
「お嬢様、お話とは一体……」
エルサは深く深呼吸をし、真っ直ぐにバルトの目を見た。
「バルト。私、この工房を去ります」
「……なっ!?」
バルトは息を呑み、目を見開いた。
「ランカスター伯爵と離縁することに決めました。もう、限界なのです。私自身の心も、そして……、これ以上、あなたたち職人を旦那様の理不尽な命令の犠牲にするわけにはいきません」
「お嬢様……! ついに、ご決断なされたのですね」
バルトの太い声が微かに震えた。
彼は長年、エルサがどれほど不当な扱いを受けてきたか、一番近くで見てきたのだ。
「ええ。それで、バルトにお願いがあるの。私が去った後、この工房はすぐに立ち行かなくなるでしょう。オズワルド商会の納期も、隣国の特注品も、旦那様の手には負えません。必ず、あなたたちに責任を押し付け、無理難題を強いてくるはずです」
「……分かっております。あの男は、そういう人間です」
バルトはギリッと歯を食いしばった。
「だから、あなたたちも逃げてください」
エルサは、自身の懐から分厚い封筒を取り出し、バルトに手渡した。
「これは……?」
「私が長年、個人的に蓄えてきた財産の一部と、ウォルドルフ子爵家名義の口座にあった当座の資金です。これを、職人全員への退職金として分配してください。私がいなくなった後、すぐにでも辞表を叩きつけて構いません」
バルトは封筒の重みに驚愕し、慌ててエルサに押し返そうとした。
「そんな! これは、お嬢様が新しい生活を始めるための大事な……、我々が受け取るわけにはいきません!」
「受け取って。これは私の我儘なの。あなたたちがいなければ、私はとっくに心が壊れていたわ。私の手元には、まだ十分に生活できるだけの資金が残してあるから心配しないで」
エルサは優しく、しかし決して譲らない強さで、バルトの手を包み込んだ。
荒れた指先同士が触れ合う。
それは、クリスチャンが蔑んだ汚い手ではなく、確かな技術と信頼で結ばれた職人の手だった。
「私は、少し遠くの街で、小さな工房を構えようと思っています。もし、あなたたちが今の騒ぎが落ち着いた後でも、まだ木を削る気があるのなら……」
「行きます!!」
バルトは食い気味に、大声で叫んだ。
「当たり前です! 我々は、ランカスター伯爵ではなく、エルサお嬢様に雇われているつもりで今までやってきたんです! お嬢様が行くなら、地の果てまでついて行きますぞ!」
バルトのその言葉で、エルサの胸の奥で冷え切っていた何かが、ふっと温かく溶けていくのを感じた。
「……ありがとう、バルト」
二人はしっかりと頷き合い、秘密の計画を共有した。
翌日の夜明け前。
エルサは、工房の鍵と、自身が愛用していた幾つかの特別な彫刻刀だけを小さなトランクに詰めた。
本邸の執務室に向かい、クリスチャンの机の上に、指輪、離縁状、工房の鍵、そしてあの完璧な引き継ぎ書を、整然と並べる。
(事業の顔である資料の体裁は、完璧に整えておきましたわ、旦那様。後はご自身のマクロな視点で、どうぞご自由に)
心の中でそう呟き、エルサは振り返ることなく、軽い足取りで屋敷を後にした。
朝陽に照らされた彼女の緑色の瞳は、澄み切った森のように美しく輝いていた。
エルサとバルトは、完成間近の月桂樹のダイニングチェアを前に、二人きりで向かい合っていた。
「お嬢様、お話とは一体……」
エルサは深く深呼吸をし、真っ直ぐにバルトの目を見た。
「バルト。私、この工房を去ります」
「……なっ!?」
バルトは息を呑み、目を見開いた。
「ランカスター伯爵と離縁することに決めました。もう、限界なのです。私自身の心も、そして……、これ以上、あなたたち職人を旦那様の理不尽な命令の犠牲にするわけにはいきません」
「お嬢様……! ついに、ご決断なされたのですね」
バルトの太い声が微かに震えた。
彼は長年、エルサがどれほど不当な扱いを受けてきたか、一番近くで見てきたのだ。
「ええ。それで、バルトにお願いがあるの。私が去った後、この工房はすぐに立ち行かなくなるでしょう。オズワルド商会の納期も、隣国の特注品も、旦那様の手には負えません。必ず、あなたたちに責任を押し付け、無理難題を強いてくるはずです」
「……分かっております。あの男は、そういう人間です」
バルトはギリッと歯を食いしばった。
「だから、あなたたちも逃げてください」
エルサは、自身の懐から分厚い封筒を取り出し、バルトに手渡した。
「これは……?」
「私が長年、個人的に蓄えてきた財産の一部と、ウォルドルフ子爵家名義の口座にあった当座の資金です。これを、職人全員への退職金として分配してください。私がいなくなった後、すぐにでも辞表を叩きつけて構いません」
バルトは封筒の重みに驚愕し、慌ててエルサに押し返そうとした。
「そんな! これは、お嬢様が新しい生活を始めるための大事な……、我々が受け取るわけにはいきません!」
「受け取って。これは私の我儘なの。あなたたちがいなければ、私はとっくに心が壊れていたわ。私の手元には、まだ十分に生活できるだけの資金が残してあるから心配しないで」
エルサは優しく、しかし決して譲らない強さで、バルトの手を包み込んだ。
荒れた指先同士が触れ合う。
それは、クリスチャンが蔑んだ汚い手ではなく、確かな技術と信頼で結ばれた職人の手だった。
「私は、少し遠くの街で、小さな工房を構えようと思っています。もし、あなたたちが今の騒ぎが落ち着いた後でも、まだ木を削る気があるのなら……」
「行きます!!」
バルトは食い気味に、大声で叫んだ。
「当たり前です! 我々は、ランカスター伯爵ではなく、エルサお嬢様に雇われているつもりで今までやってきたんです! お嬢様が行くなら、地の果てまでついて行きますぞ!」
バルトのその言葉で、エルサの胸の奥で冷え切っていた何かが、ふっと温かく溶けていくのを感じた。
「……ありがとう、バルト」
二人はしっかりと頷き合い、秘密の計画を共有した。
翌日の夜明け前。
エルサは、工房の鍵と、自身が愛用していた幾つかの特別な彫刻刀だけを小さなトランクに詰めた。
本邸の執務室に向かい、クリスチャンの机の上に、指輪、離縁状、工房の鍵、そしてあの完璧な引き継ぎ書を、整然と並べる。
(事業の顔である資料の体裁は、完璧に整えておきましたわ、旦那様。後はご自身のマクロな視点で、どうぞご自由に)
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(他「エブリスタ」様に投稿)