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第16話:焦り始めた者たち
ランカスター伯爵邸の執務室は、まるで嵐が過ぎ去った後のように荒れ果てていた。
床には書類が散乱し、クリスチャンが苛立ちのままに投げつけたティーカップの破片が転がっている。
「くそっ! なぜだ! なぜ誰も戻ってこない!」
クリスチャン・ランカスターは、充血した目で執務机を激しく叩いた。
エルサが屋敷を去り、バルトをはじめとする職人全員が姿を消してから、丸二日が経過していた。
最初のうちは「どうせ僕の気を引きたいだけだ。あの無能な女が、僕なしで生きていけるはずがない。すぐに泣いて謝ってくる」と高を括っていた。
職人たちも、自分のランカスター伯爵という権威に恐れをなし、土下座して戻ってくるに違いないと。
しかし、現実は彼の薄っぺらな予想を無惨に打ち砕いた。
オズワルド商会からの大量の発注。
隣国からの特注品の厳しい納期。
工房は完全に稼働を停止し、一台の椅子すら組み上がらない。
焦ったクリスチャンは、街の他の工房から職人を高給で引き抜こうと使いを出した。
だが、戻ってきた使いの報告は絶望的なものだった。
『ランカスター工房の図面は複雑すぎて、我々には到底手に負えません。それに、あのバルト親方たちが一斉に辞めたとなれば、何か裏があるに違いない。関わりたくありません』
どの職人も、そう言って首を縦に振らなかったのだ。
「クリスチャン様……! 大変ですわ!」
扉が勢いよく開き、香水の匂いを漂わせたローラが、顔面を蒼白にして駆け込んできた。
その手には、何通もの封書が握りしめられている。
「なんだ、今度は何だ! 騒々しい!」
「と、取引先の木材問屋からです! 『先日の発注書にあったウォールナット材の指定含水率が記載されておらず、出荷ができない』と……! さらに、別の問屋からは『前回の支払いが滞っている』と督促状が……!」
「含水率だと!? そんなもの、適当に乾燥させたものを送らせろ! 支払いだって、エルサが帳簿を管理していたはずだろう!」
クリスチャンはローラの言葉に激昂し、机の上の書類の山から業務引き継ぎ書をひったくった。
「ここにマニュアルがあるはずだ! エルサが完璧にまとめたと……!」
震える手でページをめくる。
しかし、何度読んでも、そこには実務を動かすためのノウハウは一切記されていなかった。
『資材調達フェーズにおけるベンダーとのシナジー効果の最大化』
『キャッシュフローの最適化による流動資産の確保』
「……なんだ、これは」
クリスチャンは呻き声を上げ、書類を床に叩きつけた。
「こんなふざけた言葉の羅列で、どうやって含水率を指示しろというんだ! 帳簿のどこを見れば支払いがわかるんだ!」
彼は初めて、己の致命的な無能さに直面していた。
彼は、エルサが提出する泥臭い現場の報告書を「ミクロすぎる」「感情論だ」と見下し、体裁ばかりを批判してきた。
その結果、エルサは彼が望む通りの中身のない空っぽの書類を置いていったのだ。
(僕が、彼女をコントロールしていたはずだった……! 僕の洗練された指導があってこそ、あの工房は回っていたはずなのに……!)
クリスチャンの呼吸が荒くなる。
冷や汗が背中を伝う。
「ク、クリスチャン様! 私、どうすれば……!」
ローラがパニックになり、クリスチャンの腕にすがりついた。
「君も秘書だろう!! 何か案を出せ!! 取引先に言い訳の一つでも考えてこい!!」
クリスチャンは八つ当たり気味にローラを怒鳴りつけた。
「そ、そんな! 私、難しいことはわかりませんわ! 私はただ、クリスチャン様の高尚なお考えをサポートするだけで……。実務なんて、エルサ様の下賤なお仕事ですもの!」
「下賤だと!? その下賤な仕事のおかげで、僕たちは今、首をくくる寸前なんだぞ!!」
クリスチャンはローラを乱暴に突き飛ばした。
彼女の無知で甘ったるい言葉は、これまで彼の歪んだ自尊心を満たす最高の媚薬だった。
しかし今となっては、何の役にも立たない、ただの耳障りな雑音でしかなかった。
「ひっ……!」
ローラは床に倒れ込み、信じられないものを見るような目でクリスチャンを見上げた。
優雅で完璧だった彼の顔は、今や恐怖と焦燥で醜く歪んでいる。
その時、執務室の重厚な扉が、重々しいノックの音とともに開かれた。
床には書類が散乱し、クリスチャンが苛立ちのままに投げつけたティーカップの破片が転がっている。
「くそっ! なぜだ! なぜ誰も戻ってこない!」
クリスチャン・ランカスターは、充血した目で執務机を激しく叩いた。
エルサが屋敷を去り、バルトをはじめとする職人全員が姿を消してから、丸二日が経過していた。
最初のうちは「どうせ僕の気を引きたいだけだ。あの無能な女が、僕なしで生きていけるはずがない。すぐに泣いて謝ってくる」と高を括っていた。
職人たちも、自分のランカスター伯爵という権威に恐れをなし、土下座して戻ってくるに違いないと。
しかし、現実は彼の薄っぺらな予想を無惨に打ち砕いた。
オズワルド商会からの大量の発注。
隣国からの特注品の厳しい納期。
工房は完全に稼働を停止し、一台の椅子すら組み上がらない。
焦ったクリスチャンは、街の他の工房から職人を高給で引き抜こうと使いを出した。
だが、戻ってきた使いの報告は絶望的なものだった。
『ランカスター工房の図面は複雑すぎて、我々には到底手に負えません。それに、あのバルト親方たちが一斉に辞めたとなれば、何か裏があるに違いない。関わりたくありません』
どの職人も、そう言って首を縦に振らなかったのだ。
「クリスチャン様……! 大変ですわ!」
扉が勢いよく開き、香水の匂いを漂わせたローラが、顔面を蒼白にして駆け込んできた。
その手には、何通もの封書が握りしめられている。
「なんだ、今度は何だ! 騒々しい!」
「と、取引先の木材問屋からです! 『先日の発注書にあったウォールナット材の指定含水率が記載されておらず、出荷ができない』と……! さらに、別の問屋からは『前回の支払いが滞っている』と督促状が……!」
「含水率だと!? そんなもの、適当に乾燥させたものを送らせろ! 支払いだって、エルサが帳簿を管理していたはずだろう!」
クリスチャンはローラの言葉に激昂し、机の上の書類の山から業務引き継ぎ書をひったくった。
「ここにマニュアルがあるはずだ! エルサが完璧にまとめたと……!」
震える手でページをめくる。
しかし、何度読んでも、そこには実務を動かすためのノウハウは一切記されていなかった。
『資材調達フェーズにおけるベンダーとのシナジー効果の最大化』
『キャッシュフローの最適化による流動資産の確保』
「……なんだ、これは」
クリスチャンは呻き声を上げ、書類を床に叩きつけた。
「こんなふざけた言葉の羅列で、どうやって含水率を指示しろというんだ! 帳簿のどこを見れば支払いがわかるんだ!」
彼は初めて、己の致命的な無能さに直面していた。
彼は、エルサが提出する泥臭い現場の報告書を「ミクロすぎる」「感情論だ」と見下し、体裁ばかりを批判してきた。
その結果、エルサは彼が望む通りの中身のない空っぽの書類を置いていったのだ。
(僕が、彼女をコントロールしていたはずだった……! 僕の洗練された指導があってこそ、あの工房は回っていたはずなのに……!)
クリスチャンの呼吸が荒くなる。
冷や汗が背中を伝う。
「ク、クリスチャン様! 私、どうすれば……!」
ローラがパニックになり、クリスチャンの腕にすがりついた。
「君も秘書だろう!! 何か案を出せ!! 取引先に言い訳の一つでも考えてこい!!」
クリスチャンは八つ当たり気味にローラを怒鳴りつけた。
「そ、そんな! 私、難しいことはわかりませんわ! 私はただ、クリスチャン様の高尚なお考えをサポートするだけで……。実務なんて、エルサ様の下賤なお仕事ですもの!」
「下賤だと!? その下賤な仕事のおかげで、僕たちは今、首をくくる寸前なんだぞ!!」
クリスチャンはローラを乱暴に突き飛ばした。
彼女の無知で甘ったるい言葉は、これまで彼の歪んだ自尊心を満たす最高の媚薬だった。
しかし今となっては、何の役にも立たない、ただの耳障りな雑音でしかなかった。
「ひっ……!」
ローラは床に倒れ込み、信じられないものを見るような目でクリスチャンを見上げた。
優雅で完璧だった彼の顔は、今や恐怖と焦燥で醜く歪んでいる。
その時、執務室の重厚な扉が、重々しいノックの音とともに開かれた。
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