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第11話:白い平野と、毛管現象の呪い
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岩塩ドームの発見から数日後。
アースガルド領は、かつてない活気に包まれていた。
「素晴らしい……! これは塩ではありません。食卓の宝石です!」
商人のガストンが、倉庫に積み上げられた薄紅色の岩塩を見て、震える声で叫んだ。
「海塩のような雑味がなく、まろやかで甘みすら感じる。その上、見た目も美しいピンク色。……マリアンヌ様、これは王都の貴族たちが目の色を変えて飛びつきますぞ。ピンク・クリスタル・ソルトとして売り出せば、白いダイヤと同等の価値がつきます!」
「ええ、頼んだわガストン。ジェラルド殿下が国境を封鎖しているから、迂回ルートで隣国へ流して頂戴」
「お任せを。殿下はアースガルドへの輸出は禁じましたが、アースガルドからの輸入を止める法律は作っていませんからな。法の抜け穴を、このピンクの粉で埋め尽くしてやりましょう」
ガストンは満面の笑みで荷馬車に岩塩を積み込み、去っていった。
これでもう、資金面での心配はない。
塩は生命維持に不可欠であり、かつ保存食作りに必須の消耗品。
需要が尽きることはないのだ。
「……皮肉なものですな」
見送りを終えたセバスチャンが、複雑な表情で呟いた。
「殿下は我々を干上がらせようとして塩を止めましたが、結果として、我々は王都よりも上質な塩を手に入れ、巨万の富を得ようとしている」
「作用・反作用の法則よ。強く押さえつければ、それだけ強い力で跳ね返されるの」
私は満足げに頷き、テラスでお茶(ガストンからの差し入れ)を飲むことにした。
しかし、ガストンが去り際に残していったある情報が、私の頭の片隅に引っかかっていた。
『そういえば、ジェラルド殿下の領地で、奇妙な病が流行っているそうです』
『病?』
『ええ。豊かなはずの小麦畑が、なぜか枯れ始めているとか。農民たちは「白い呪い」だと騒いでいるそうです』
白い呪い。
私はカップの中の紅茶を見つめながら、その正体を推測していた。
そして、その答え合わせをするかのように、セバスが尋ねてきた。
「お嬢様。先ほどのガストンの話、気になりますな。殿下の領地は王国内でも有数の穀倉地帯。水も豊富で、灌漑設備も整っているはず。なぜ作物が枯れるのでしょうか?」
「セバス。角砂糖を一つ、持ってきてくれる?」
「は? お茶に入れるのですか?」
「いいえ、実験に使うの」
私はセバスが持ってきた角砂糖を、ソーサーにこぼれた紅茶の滴の上に、そっと置いた。
白い角砂糖の底が、褐色の液体に触れる。
すると一瞬にして、紅茶が角砂糖の中を駆け上がった。
白かった砂糖は、みるみるうちに褐色に染まっていく。
「見て、セバス。液体が重力に逆らって、砂糖の隙間を登っていくでしょう? これを『毛管現象と言うわ」
「はあ……。布が水を吸うのと同じ理屈ですな」
「そう。そして、これと同じことが今、ジェラルド殿下の領地で起きているのよ」
私は茶色く染まった角砂糖を指先で崩した。
「殿下の領地は乾燥地帯に近いけれど、近くに大河があるわ。殿下は収穫量を増やそうとして、大規模な水路を作り、大量の水を畑に撒いた。……ここまでは良いわ。でも、彼は排水のことを考えなかった」
「排水、ですか?」
「ええ。出口のない水は地下に溜まり、地下水位を上昇させる。するとどうなると思う? 地下水に溶けていた塩分が、この角砂糖のように、土の隙間を通って地表まで上がってくるのよ」
セバスがハッとした顔をした。
「まさか……」
「地表まで上がった水は、太陽の熱で蒸発する。でも、塩分は蒸発しない。結果、地表には塩だけが白く残る。……これが塩類集積。農業における死の病よ」
私は崩れた角砂糖をハンカチで拭った。
「一度こうなると、その土地はもう終わりよ。高い浸透圧のせいで、植物は根から水を吸えなくなり、脱水症状を起こして枯れる。ガストンが言っていた『白い呪い』の正体は、殿下が自ら撒いた水が引き起こした塩害なのよ」
「なんという……」
セバスが絶句した。
良かれと思って水を撒いた結果、大地を殺してしまった。
無知とは、時に悪意よりも残酷な結果を招く。
「殿下は私に『塩を止めろ』と命じた。その一方で、自分の領地は塩まみれになって不毛の地と化している。……笑えない喜劇ね」
私は遠く南の空を見上げた。
今頃、ジェラルド殿下は真っ白になった畑の前で呆然としているだろう。
「なぜだ! 水はやったのに! 肥料もやったのに!」と叫びながら。
「お嬢様。その……、治す方法はあるのですか?」
「あるわよ。大量の水を撒いて塩を洗い流し、地下にパイプを通して排水するリーチングという手法がね。でも、それには莫大なコストと、何より正しい地質学の知識が必要よ」
私は冷めた紅茶を一口飲んだ。
「今の殿下に、その知識があるかしら? あるいは、私に頭を下げる度胸が?」
「……ないでしょうな」
「でしょうね。なら、その土地は砂漠になるだけよ」
自然は嘘をつかない。
正しい知識で接すればピンクの宝石(岩塩)を与えてくれるが、無知なまま支配しようとすれば白い毒(塩害)で報復する。
それだけの話だ。
「さあ、セバス。他所の不幸を嘆いている暇はないわ。資金も塩も手に入った。次はいよいよ、この領地の特産品を色で彩る番よ」
「色、ですか?」
「ええ。ガストンが言っていたわ。隣国の羊毛産業が盛んだって。でも、彼らの染色は色が褪せやすいのが悩みだと。……解決してあげましょう。私の化学でね」
私は立ち上がり、再び荒野へと視線を向けた。
塩害で滅びゆく元婚約者の国。
知識で栄えゆく私の領地。
その差は、これからもっと開いていくことでしょう。
アースガルド領は、かつてない活気に包まれていた。
「素晴らしい……! これは塩ではありません。食卓の宝石です!」
商人のガストンが、倉庫に積み上げられた薄紅色の岩塩を見て、震える声で叫んだ。
「海塩のような雑味がなく、まろやかで甘みすら感じる。その上、見た目も美しいピンク色。……マリアンヌ様、これは王都の貴族たちが目の色を変えて飛びつきますぞ。ピンク・クリスタル・ソルトとして売り出せば、白いダイヤと同等の価値がつきます!」
「ええ、頼んだわガストン。ジェラルド殿下が国境を封鎖しているから、迂回ルートで隣国へ流して頂戴」
「お任せを。殿下はアースガルドへの輸出は禁じましたが、アースガルドからの輸入を止める法律は作っていませんからな。法の抜け穴を、このピンクの粉で埋め尽くしてやりましょう」
ガストンは満面の笑みで荷馬車に岩塩を積み込み、去っていった。
これでもう、資金面での心配はない。
塩は生命維持に不可欠であり、かつ保存食作りに必須の消耗品。
需要が尽きることはないのだ。
「……皮肉なものですな」
見送りを終えたセバスチャンが、複雑な表情で呟いた。
「殿下は我々を干上がらせようとして塩を止めましたが、結果として、我々は王都よりも上質な塩を手に入れ、巨万の富を得ようとしている」
「作用・反作用の法則よ。強く押さえつければ、それだけ強い力で跳ね返されるの」
私は満足げに頷き、テラスでお茶(ガストンからの差し入れ)を飲むことにした。
しかし、ガストンが去り際に残していったある情報が、私の頭の片隅に引っかかっていた。
『そういえば、ジェラルド殿下の領地で、奇妙な病が流行っているそうです』
『病?』
『ええ。豊かなはずの小麦畑が、なぜか枯れ始めているとか。農民たちは「白い呪い」だと騒いでいるそうです』
白い呪い。
私はカップの中の紅茶を見つめながら、その正体を推測していた。
そして、その答え合わせをするかのように、セバスが尋ねてきた。
「お嬢様。先ほどのガストンの話、気になりますな。殿下の領地は王国内でも有数の穀倉地帯。水も豊富で、灌漑設備も整っているはず。なぜ作物が枯れるのでしょうか?」
「セバス。角砂糖を一つ、持ってきてくれる?」
「は? お茶に入れるのですか?」
「いいえ、実験に使うの」
私はセバスが持ってきた角砂糖を、ソーサーにこぼれた紅茶の滴の上に、そっと置いた。
白い角砂糖の底が、褐色の液体に触れる。
すると一瞬にして、紅茶が角砂糖の中を駆け上がった。
白かった砂糖は、みるみるうちに褐色に染まっていく。
「見て、セバス。液体が重力に逆らって、砂糖の隙間を登っていくでしょう? これを『毛管現象と言うわ」
「はあ……。布が水を吸うのと同じ理屈ですな」
「そう。そして、これと同じことが今、ジェラルド殿下の領地で起きているのよ」
私は茶色く染まった角砂糖を指先で崩した。
「殿下の領地は乾燥地帯に近いけれど、近くに大河があるわ。殿下は収穫量を増やそうとして、大規模な水路を作り、大量の水を畑に撒いた。……ここまでは良いわ。でも、彼は排水のことを考えなかった」
「排水、ですか?」
「ええ。出口のない水は地下に溜まり、地下水位を上昇させる。するとどうなると思う? 地下水に溶けていた塩分が、この角砂糖のように、土の隙間を通って地表まで上がってくるのよ」
セバスがハッとした顔をした。
「まさか……」
「地表まで上がった水は、太陽の熱で蒸発する。でも、塩分は蒸発しない。結果、地表には塩だけが白く残る。……これが塩類集積。農業における死の病よ」
私は崩れた角砂糖をハンカチで拭った。
「一度こうなると、その土地はもう終わりよ。高い浸透圧のせいで、植物は根から水を吸えなくなり、脱水症状を起こして枯れる。ガストンが言っていた『白い呪い』の正体は、殿下が自ら撒いた水が引き起こした塩害なのよ」
「なんという……」
セバスが絶句した。
良かれと思って水を撒いた結果、大地を殺してしまった。
無知とは、時に悪意よりも残酷な結果を招く。
「殿下は私に『塩を止めろ』と命じた。その一方で、自分の領地は塩まみれになって不毛の地と化している。……笑えない喜劇ね」
私は遠く南の空を見上げた。
今頃、ジェラルド殿下は真っ白になった畑の前で呆然としているだろう。
「なぜだ! 水はやったのに! 肥料もやったのに!」と叫びながら。
「お嬢様。その……、治す方法はあるのですか?」
「あるわよ。大量の水を撒いて塩を洗い流し、地下にパイプを通して排水するリーチングという手法がね。でも、それには莫大なコストと、何より正しい地質学の知識が必要よ」
私は冷めた紅茶を一口飲んだ。
「今の殿下に、その知識があるかしら? あるいは、私に頭を下げる度胸が?」
「……ないでしょうな」
「でしょうね。なら、その土地は砂漠になるだけよ」
自然は嘘をつかない。
正しい知識で接すればピンクの宝石(岩塩)を与えてくれるが、無知なまま支配しようとすれば白い毒(塩害)で報復する。
それだけの話だ。
「さあ、セバス。他所の不幸を嘆いている暇はないわ。資金も塩も手に入った。次はいよいよ、この領地の特産品を色で彩る番よ」
「色、ですか?」
「ええ。ガストンが言っていたわ。隣国の羊毛産業が盛んだって。でも、彼らの染色は色が褪せやすいのが悩みだと。……解決してあげましょう。私の化学でね」
私は立ち上がり、再び荒野へと視線を向けた。
塩害で滅びゆく元婚約者の国。
知識で栄えゆく私の領地。
その差は、これからもっと開いていくことでしょう。
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