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第1話:煤まみれの婚約破棄
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王宮の舞踏会場は、目が痛くなるほどの煌めきに満ちていた。
頭上には数百本の蝋燭が燃える巨大なシャンデリア。
壁際には彩り豊かなドレスを纏った貴族たちが群がり、香水の匂いが充満している。
(……換気が不十分ですね。この空間容積に対して熱源が多すぎます。酸素濃度が低下し、判断能力が鈍る人間が出てくるのも時間の問題でしょう)
壁際に立つエレナ・バーンシュタインは、冷めた瞳で会場を見渡していた。
灰がかった銀髪を一応は結い上げているものの、飾り気はない。
エレナにとって、この夜会は苦痛以外の何物でもなかった。
窯の温度管理表をつけ忘れていないか、新しい樫の木の乾燥具合はどうだったか。そんなことばかりが頭をよぎる。
その時だった。
楽団の演奏が唐突に止み、張り詰めた静寂が訪れる。
会場の中央、スポットライトのような輝きの中に立ったのは、この国の第一王子であり、エレナの婚約者であるジュリアン殿下だった。
「エレナ・バーンシュタイン! 前へ出よ!」
よく通る声に呼ばれ、エレナは溜息を飲み込んで進み出た。
ジュリアンの隣には、ふわふわとしたドレスを着た小柄な令嬢が寄り添っている。
男爵令嬢のマリーだ。
上目遣いで周囲を伺うその姿は、いかにも庇護欲をそそる小動物のようだった。
「殿下、ご機嫌麗しゅう存じます」
「挨拶など不要だ。単刀直入に言おう。貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
会場がどよめいた。
だが、エレナの心拍数は平時の数値を保っていた。
やはりか、と思っただけだ。
「……理由は、お伺いしても?」
「理由だと? 鏡を見てみるがいい! その地味な髪、飾り気のないドレス、そして何より……、貴様からは常に煤の臭いがするのだ! 王族の隣に立つ女が、炭焼き小屋のような臭気を漂わせてどうする!」
ジュリアンは大袈裟に鼻をつまんでみせた。
周囲の貴族たちがクスクスと嘲笑を漏らす。
エレナは無表情のまま、冷静に分析した。
(確かに、昨日は最高品質の黒炭を焼くために窯に篭りきりでした。洗浄は行いましたが、微粒子レベルでの付着は否定できません)
「それに引き換え、マリーは素晴らしい。愛らしく、清らかで、そして何より白炭という画期的な発明を成し遂げた!」
その単語が出た瞬間、エレナの眉がピクリと動いた。
ジュリアンが高々と掲げたのは、一本の炭だった。
通常の炭とは違い、断面が金属光沢を帯び、白く輝いている。
「見よ、この美しさを! 煙も出ず、長時間燃え続ける夢の燃料。これをマリーが考案したのだ! お前のように泥臭い作業しかできぬ女とは、才能の格が違う!」
「きゃっ、殿下ったら……、私、ただみんなに温まってほしくて、一生懸命頑張っただけですぅ」
マリーがジュリアンの腕にしなだれかかる。
エレナは、その白炭を凝視した。
間違いない。
あれは一週間前、研究室から紛失したエレナの試作品だ。
研究ノートごと消えていたが、まさかこんな場所でお披露目されるとは。
「……マリー様」
エレナは静かに口を開いた。
怒りはない。
ただ、純粋な疑問があった。
「その白炭、素晴らしい成果ですね。一つ、技術的な質問をさせていただいても?」
「えっ? あ、はい……、どうぞ?」
マリーが視線を泳がせる。
エレナは淡々と問いかけた。
「その美しい白さを出すための精錬工程についてです。仕上げの消火法は窯内消火ですか? それとも窯外消火ですか? また、その際の窯内温度は何百度に設定されましたか?」
「えっ……?」
マリーの顔が凍りついた。
窯内消火と窯外消火。
それは炭の性質を決定づける最も基本的なプロセスだ。
開発者ならば即答できて当然の質問である。
「え、えっと……、その、すごく熱い窯の中で、一生懸命……、火を消しました! お水でジュッて!」
「……窯の中で水を?」
エレナは小さく首を傾げた。
1000度近い高温の窯の中に直接水を入れれば、水蒸気爆発を起こして窯が吹き飛ぶか、炭が砕け散る。
白炭を作るには、真っ赤に焼けた炭を窯の外に出し、消し粉を被せて冷ます窯外消火が必要不可欠だ。
(この方、基礎理論はおろか、酸化還元の仕組みすら理解していない……?)
「ええい、黙れ! グダグダと理屈っぽいことばかり!」
マリーの窮地を救うように、ジュリアンが怒鳴った。
「マリーは感覚で真理に到達した天才なのだ! お前のようなへ理屈女にはわかるまい! この炭こそが、我が国の未来を照らす光だ!」
「……殿下。精錬プロセスが不明瞭な燃料は、爆発や一酸化炭素中毒のリスクがあります。運用には慎重な検証が」
「うるさい! 貴様のような可愛げのない女は、もはや我が王都には不要だ! 追放を命じる。二度と私の前に顔を見せるな!」
追放。
それはエレナにとっては効率的な配置転換に聞こえた。
自分の技術を理解しない王太子の下で働き続けるより、新天地を探すほうが生産性は高い。
「……承知いたしました」
エレナは優雅にカーテシーをした。
その動きには、貴族令嬢としての洗練された所作と、職人としての揺るぎない芯の強さがあった。
「では、私はこれにて。――あぁ、最後に一つだけ」
背を向けかけたエレナは、肩越しに冷ややかな視線を二人に送った。
「私が開発、いえ、管理していた炭の供給は本日をもって停止します。今後の品質保証は致しかねますので、暖炉の不完全燃焼にはくれぐれもお気をつけください」
「ふん、負け惜しみを!」
ジュリアンの嘲笑を背に、エレナは会場を後にした。
胸にあるのは喪失感ではない。
むしろ、劣悪な労働環境から解放された清々しさだった。
そして、彼女はまだ知らない。
その知識と技術を、誰よりも高く評価する者との出会いが、すぐそこまで迫っていることを……。
頭上には数百本の蝋燭が燃える巨大なシャンデリア。
壁際には彩り豊かなドレスを纏った貴族たちが群がり、香水の匂いが充満している。
(……換気が不十分ですね。この空間容積に対して熱源が多すぎます。酸素濃度が低下し、判断能力が鈍る人間が出てくるのも時間の問題でしょう)
壁際に立つエレナ・バーンシュタインは、冷めた瞳で会場を見渡していた。
灰がかった銀髪を一応は結い上げているものの、飾り気はない。
エレナにとって、この夜会は苦痛以外の何物でもなかった。
窯の温度管理表をつけ忘れていないか、新しい樫の木の乾燥具合はどうだったか。そんなことばかりが頭をよぎる。
その時だった。
楽団の演奏が唐突に止み、張り詰めた静寂が訪れる。
会場の中央、スポットライトのような輝きの中に立ったのは、この国の第一王子であり、エレナの婚約者であるジュリアン殿下だった。
「エレナ・バーンシュタイン! 前へ出よ!」
よく通る声に呼ばれ、エレナは溜息を飲み込んで進み出た。
ジュリアンの隣には、ふわふわとしたドレスを着た小柄な令嬢が寄り添っている。
男爵令嬢のマリーだ。
上目遣いで周囲を伺うその姿は、いかにも庇護欲をそそる小動物のようだった。
「殿下、ご機嫌麗しゅう存じます」
「挨拶など不要だ。単刀直入に言おう。貴様との婚約を、今この時をもって破棄する!」
会場がどよめいた。
だが、エレナの心拍数は平時の数値を保っていた。
やはりか、と思っただけだ。
「……理由は、お伺いしても?」
「理由だと? 鏡を見てみるがいい! その地味な髪、飾り気のないドレス、そして何より……、貴様からは常に煤の臭いがするのだ! 王族の隣に立つ女が、炭焼き小屋のような臭気を漂わせてどうする!」
ジュリアンは大袈裟に鼻をつまんでみせた。
周囲の貴族たちがクスクスと嘲笑を漏らす。
エレナは無表情のまま、冷静に分析した。
(確かに、昨日は最高品質の黒炭を焼くために窯に篭りきりでした。洗浄は行いましたが、微粒子レベルでの付着は否定できません)
「それに引き換え、マリーは素晴らしい。愛らしく、清らかで、そして何より白炭という画期的な発明を成し遂げた!」
その単語が出た瞬間、エレナの眉がピクリと動いた。
ジュリアンが高々と掲げたのは、一本の炭だった。
通常の炭とは違い、断面が金属光沢を帯び、白く輝いている。
「見よ、この美しさを! 煙も出ず、長時間燃え続ける夢の燃料。これをマリーが考案したのだ! お前のように泥臭い作業しかできぬ女とは、才能の格が違う!」
「きゃっ、殿下ったら……、私、ただみんなに温まってほしくて、一生懸命頑張っただけですぅ」
マリーがジュリアンの腕にしなだれかかる。
エレナは、その白炭を凝視した。
間違いない。
あれは一週間前、研究室から紛失したエレナの試作品だ。
研究ノートごと消えていたが、まさかこんな場所でお披露目されるとは。
「……マリー様」
エレナは静かに口を開いた。
怒りはない。
ただ、純粋な疑問があった。
「その白炭、素晴らしい成果ですね。一つ、技術的な質問をさせていただいても?」
「えっ? あ、はい……、どうぞ?」
マリーが視線を泳がせる。
エレナは淡々と問いかけた。
「その美しい白さを出すための精錬工程についてです。仕上げの消火法は窯内消火ですか? それとも窯外消火ですか? また、その際の窯内温度は何百度に設定されましたか?」
「えっ……?」
マリーの顔が凍りついた。
窯内消火と窯外消火。
それは炭の性質を決定づける最も基本的なプロセスだ。
開発者ならば即答できて当然の質問である。
「え、えっと……、その、すごく熱い窯の中で、一生懸命……、火を消しました! お水でジュッて!」
「……窯の中で水を?」
エレナは小さく首を傾げた。
1000度近い高温の窯の中に直接水を入れれば、水蒸気爆発を起こして窯が吹き飛ぶか、炭が砕け散る。
白炭を作るには、真っ赤に焼けた炭を窯の外に出し、消し粉を被せて冷ます窯外消火が必要不可欠だ。
(この方、基礎理論はおろか、酸化還元の仕組みすら理解していない……?)
「ええい、黙れ! グダグダと理屈っぽいことばかり!」
マリーの窮地を救うように、ジュリアンが怒鳴った。
「マリーは感覚で真理に到達した天才なのだ! お前のようなへ理屈女にはわかるまい! この炭こそが、我が国の未来を照らす光だ!」
「……殿下。精錬プロセスが不明瞭な燃料は、爆発や一酸化炭素中毒のリスクがあります。運用には慎重な検証が」
「うるさい! 貴様のような可愛げのない女は、もはや我が王都には不要だ! 追放を命じる。二度と私の前に顔を見せるな!」
追放。
それはエレナにとっては効率的な配置転換に聞こえた。
自分の技術を理解しない王太子の下で働き続けるより、新天地を探すほうが生産性は高い。
「……承知いたしました」
エレナは優雅にカーテシーをした。
その動きには、貴族令嬢としての洗練された所作と、職人としての揺るぎない芯の強さがあった。
「では、私はこれにて。――あぁ、最後に一つだけ」
背を向けかけたエレナは、肩越しに冷ややかな視線を二人に送った。
「私が開発、いえ、管理していた炭の供給は本日をもって停止します。今後の品質保証は致しかねますので、暖炉の不完全燃焼にはくれぐれもお気をつけください」
「ふん、負け惜しみを!」
ジュリアンの嘲笑を背に、エレナは会場を後にした。
胸にあるのは喪失感ではない。
むしろ、劣悪な労働環境から解放された清々しさだった。
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