「妻ならわかってよ」浮気夫が、私の成果を愛人の手柄にしました。〜私なしでも事業が回ると思っているようなので、現実を見せて差し上げましょう~

水上

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第22話:鳥籠の中の妻

 外側から重々しい鍵がかけられる音が、静まり返った寝室に響いた。
 クロエは、ベッドの端に腰掛けたまま、その無機質な音を静かに聞いていた。

 窓には頑丈な鉄格子がはめられており、扉の前にはアーサーが手配した屈強な警備員が常駐している。
 
 食事や着替えを運んでくるのは、かつての味方であったメアリーではなく、アーサーの息のかかった無愛想なメイドに変わっていた。

 ここはもう、彼女の家ではない。
 物理的な鍵と、夫という権力によって完全に封鎖された牢獄だった。

(……見事に、閉じ込められたわね)

 クロエは自嘲気味に微笑み、荒れた指先でシーツを撫でた。
 脱出失敗から、すでに三日が経過している。

 王太后の生誕祭は予定通り行われ、アーサーとイザベラはネロリの夜明けを披露して大絶賛を浴びたらしい。

 見張りのメイドが食事を運んでくる際、わざとらしく「旦那様とイザベラ様は、それはもう美しくて……、王太后様も大層お気に召したそうですわ」と語っていくのを聞かされていた。

(私が血を吐く思いで作った香水で、彼らはまた一つ名声を手に入れた。そして私は、用済みとしてここに軟禁されている)

 クロエは冷めたスープを一口啜り、無表情のまま匙を置いた。

 アーサーの目的は明白だ。
 クロエを完全に孤立させ、精神的に追い詰めること。

 自分にはアーサーしかいない、自分一人では生きていけないと彼女に思い知らせ、再び従順な便利な道具として調教し直そうとしているのだ。

 実際、現状は絶望的だった。
 実家との連絡手段は絶たれ、屋敷内の味方であったトーマスやメアリーとも接触できない。

 クロエは窓辺に歩み寄り、鉄格子の隙間から広大な庭園を見下ろした。
 警備の男たちが、等間隔で屋敷の周囲を巡回しているのが見える。

 アルベール男爵家の迎えを強引に引き留めたアーサーの権力と、この厳重な監視網。
 正面突破は不可能だ。
 
 仮に屋敷を抜け出せたとしても、王都の監査機関に辿り着く前に捕まり、今度こそ地下牢にでも繋がれるかもしれない。

 圧倒的な無力感と、閉塞感。
 じわじわと息が詰まっていく。

 現実の理不尽さ。
 男の権力と暴力の前には、ただ従うしかないという絶望。

 しかし。

「……奥様」

 不意に、ドアの下の隙間から、小さく折りたたまれた紙片が滑り込んできた。
 クロエはハッとして、足音を忍ばせて紙片を拾い上げた。

 開くと、そこにはトーマスの見慣れた筆跡で、短い文が書かれていた。

『告発状と離縁状、無事受理されました。商会保護の準備も進行中』

 クロエの翡翠の瞳に、鋭い光が宿った。
 心臓が、力強く鼓動を早める。

(……まだ、終わっていない)

 アーサーは勘違いしている。

 彼はクロエを、感情に流されて夜逃げを企てた、愚かで無力な妻だと思っている。
 だからこそ、鞄を取り上げ、部屋に閉じ込めれば彼女は屈服すると信じているのだ。

 だが、あの鞄の中身は奪われても問題ない物の寄せ集めに過ぎない。
 本物の研究データ、そしてアーサーの不正を証明する帳簿の写しは、すでに王都の監査機関の手に渡っている。

 そして、クロエの才能を以前から高く評価していた有力商会——ルミエール商会が、彼女の保護と引き抜きに向けて動いてくれているはずだ。

 その動きに気づかれて、途中でアーサーが横槍を入れる可能性はある。
 今最も重要なのは、アーサーの監視の目を外側に向けないようにすることだ。

 そのためには、内側のクロエに彼らの視線を集中させる必要がある。
 来るその時まで、計画がまだ生きていることは、絶対に気づかれてはいけない。

 クロエは、トーマスからの手紙を細かく引き裂き、完全に読めなくした。

(私が今すべきことは、泣いて許しを乞うことでも、絶望して心を閉ざすことでもない)

 彼女は、再び鏡の前に立った。

 青白い肌、目の下の隈。
 軟禁生活でさらにやつれた顔。

 しかし、その表情は絶望した妻のものではない。
 極めて冷静に盤面を俯瞰する、チェスプレイヤーのそれだった。

(正面突破が駄目なら、彼らの傲慢さと油断を利用するまでよ)

 アーサーは、クロエの才能を搾取しながらも、彼女自身を馬鹿な女と見下している。
 イザベラは、クロエを自分より劣る惨めな敗北者と嘲笑している。

 彼らのその歪んだ自己評価こそが、最大の弱点だ。

「……私は、もっと哀れなな女にならなければ」

 クロエは、自嘲気味に呟いた。
 完璧な微笑みの仮面は、もう必要ない。

 次に被るべきは、夫に完全に屈服し、自分の無力さに絶望し、ただ許しを乞うだけの哀れな妻という、彼らが最も喜ぶ仮面だ。

(彼らが私を完全に支配したと錯覚した瞬間、その油断の隙を突いて、今度こそこの鳥籠から飛び立ってやる)

 クロエは、荒れた手で自分の頬を軽く叩いた。
 
 計画がまだ死んでいないのと同様に、クロエの心もまだ、完全には死んでいなかった。

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