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第23話:夫の歪んだ愛情表現と、妻の冷ややかな瞳
軟禁生活が始まって一週間。
クロエの生活範囲は、自室と隣接する小さなバスルームのみに制限されていた。
窓の鉄格子は外されることなく、扉の外には常に警備の気配がある。
しかし、彼女の心は凪いだ海のように静まり返っていた。
この鳥籠の中で、ただひたすらにその時を待つための、完璧な演技を続けているからだ。
ガチャリ、と重い鍵が開く音がして、アーサーが部屋に入ってきた。
彼の服装は、相変わらず上等なテーラードジャケットに身を包み、甘い香水の匂いを漂わせている。
王太后の生誕祭での大成功により、彼の事業はさらに拡大し、社交界での地位は盤石なものとなっていた。
「やあ、クロエ。少しは頭が冷えたかい?」
アーサーは、機嫌良さそうに微笑みながら歩み寄ってきた。
彼の手には、豪奢なベルベットの小箱が握られている。
クロエは、ベッドの端に膝を抱えて座ったまま、力なく彼を見上げた。
青白い肌、光を失った翡翠の瞳、乱れた髪。
彼女が今演じているのは、脱出に失敗し、夫の権力に完全に屈服して絶望した哀れな妻だ。
「……旦那様」
掠れた声で呟き、クロエは視線を伏せた。
「ほら、これ。君へのプレゼントだ」
アーサーは小箱を開け、クロエの目の前に差し出した。
中に入っていたのは、大粒のサファイアが輝く、目を奪われるほど美しいネックレスだった。
ヴァレンティン商会の利益がどれほど莫大なものかを物語る、途方もない金額の品だ。
「君が大人しく反省してるなら、僕だって鬼じゃない。これからは、ちゃんと僕の言うことを聞いて、僕のために香水を作ってくれるよな? そうすれば、君をまた僕の隣に置いて、愛してやるからさ」
アーサーは、さも寛大な夫であるかのように振る舞い、クロエの首にネックレスをかけようと手を伸ばした。
彼にとって、妻の愛情や忠誠心は、金や宝石で簡単に買い戻せるものなのだ。
彼女が自分の元から逃げ出そうとしたのは、単に寂しかったからか、愛が足りなかったから拗ねただけだと、本気で勘違いしている。
クロエは、内心で吐き気を感じながらも、その手に触れられる前に、そっと体を引いた。
「……こんなに高価なもの、私には勿体ないです」
「遠慮することないさ。君は僕の妻なんだから。君が僕を支えてくれる限り、君には何不自由ない生活を約束するよ」
アーサーは強引にクロエの首にサファイアを飾り、その冷たい頬を撫でた。
「あのさ、クロエ」
アーサーは、甘いブルーの瞳を細め、少しだけ声を潜めた。
「イザベラが、次の香水のアイデアを持ってきたんだ。星空の涙っていうテーマなんだけどね。君のあの鞄に入ってた研究データ、僕がちゃんと保管してるからさ。君がまた工房に戻って、あのデータを使って新しい香水を作ってくれるなら、鞄は返してあげるよ」
クロエは、微かに肩を震わせた。
それは恐怖や悲しみからではなく、彼が本気であのダミーの鞄を交渉材料として使えると思い込んでいることに対する、強烈な冷笑を抑え込むためだった。
「……でも、私、もう、どうやって作ればいいか……」
クロエは、両手で顔を覆い、わざとらしく嗚咽を漏らした。
「私、旦那様に見捨てられたら、生きていけません……。もう、逃げませんから……、だから、見捨てないで……」
それは、かつてイザベラが放った「アーサー様に見捨てられたら生きていけないですものね」という嘲笑を、そのままなぞった言葉だった。
アーサーの傲慢な支配欲を、最も満たすであろう台詞。
案の定、アーサーは満足げに笑みを深めた。
「ははっ、やっと分かったのか。そうだ、君は僕がいないと何もできないんだよ。だから、僕の言う通りにしていればいいんだ。工房への立ち入りは、明日から許可してやる。監視はつけるけどね」
アーサーはクロエの頭をポンポンと撫でると、踵を返して部屋を出て行った。
扉が閉まり、再び外から鍵がかけられる音が響く。
その瞬間、クロエの顔から哀れな妻の演技がスッと剥がれ落ちた。
両手で覆っていた顔を上げると、そこには一切の涙はなく、冷え切った翡翠の瞳だけが静かに輝いていた。
「……滑稽ね」
クロエは、首にかけられた高価なサファイアのネックレスを、忌々しげに引きちぎるようにして外した。
彼が「愛してやる」と差し出したものは、ただの首輪だ。
クロエを繋ぎ止めるための、冷たくて重い鎖。
(彼は、私が完全に屈服したと信じている。自分の権力と、あのダミーの鞄さえあれば、私を永遠にコントロールできると)
クロエは、ネックレスをベッドの隅に放り投げた。
明日から、工房への立ち入りが許可される。
それは、彼女が待ち望んでいた反撃の第一歩だった。
冷ややかな瞳の奥で、クロエの頭脳はすでに、完璧な脱出のシナリオを組み上げていた。
クロエの生活範囲は、自室と隣接する小さなバスルームのみに制限されていた。
窓の鉄格子は外されることなく、扉の外には常に警備の気配がある。
しかし、彼女の心は凪いだ海のように静まり返っていた。
この鳥籠の中で、ただひたすらにその時を待つための、完璧な演技を続けているからだ。
ガチャリ、と重い鍵が開く音がして、アーサーが部屋に入ってきた。
彼の服装は、相変わらず上等なテーラードジャケットに身を包み、甘い香水の匂いを漂わせている。
王太后の生誕祭での大成功により、彼の事業はさらに拡大し、社交界での地位は盤石なものとなっていた。
「やあ、クロエ。少しは頭が冷えたかい?」
アーサーは、機嫌良さそうに微笑みながら歩み寄ってきた。
彼の手には、豪奢なベルベットの小箱が握られている。
クロエは、ベッドの端に膝を抱えて座ったまま、力なく彼を見上げた。
青白い肌、光を失った翡翠の瞳、乱れた髪。
彼女が今演じているのは、脱出に失敗し、夫の権力に完全に屈服して絶望した哀れな妻だ。
「……旦那様」
掠れた声で呟き、クロエは視線を伏せた。
「ほら、これ。君へのプレゼントだ」
アーサーは小箱を開け、クロエの目の前に差し出した。
中に入っていたのは、大粒のサファイアが輝く、目を奪われるほど美しいネックレスだった。
ヴァレンティン商会の利益がどれほど莫大なものかを物語る、途方もない金額の品だ。
「君が大人しく反省してるなら、僕だって鬼じゃない。これからは、ちゃんと僕の言うことを聞いて、僕のために香水を作ってくれるよな? そうすれば、君をまた僕の隣に置いて、愛してやるからさ」
アーサーは、さも寛大な夫であるかのように振る舞い、クロエの首にネックレスをかけようと手を伸ばした。
彼にとって、妻の愛情や忠誠心は、金や宝石で簡単に買い戻せるものなのだ。
彼女が自分の元から逃げ出そうとしたのは、単に寂しかったからか、愛が足りなかったから拗ねただけだと、本気で勘違いしている。
クロエは、内心で吐き気を感じながらも、その手に触れられる前に、そっと体を引いた。
「……こんなに高価なもの、私には勿体ないです」
「遠慮することないさ。君は僕の妻なんだから。君が僕を支えてくれる限り、君には何不自由ない生活を約束するよ」
アーサーは強引にクロエの首にサファイアを飾り、その冷たい頬を撫でた。
「あのさ、クロエ」
アーサーは、甘いブルーの瞳を細め、少しだけ声を潜めた。
「イザベラが、次の香水のアイデアを持ってきたんだ。星空の涙っていうテーマなんだけどね。君のあの鞄に入ってた研究データ、僕がちゃんと保管してるからさ。君がまた工房に戻って、あのデータを使って新しい香水を作ってくれるなら、鞄は返してあげるよ」
クロエは、微かに肩を震わせた。
それは恐怖や悲しみからではなく、彼が本気であのダミーの鞄を交渉材料として使えると思い込んでいることに対する、強烈な冷笑を抑え込むためだった。
「……でも、私、もう、どうやって作ればいいか……」
クロエは、両手で顔を覆い、わざとらしく嗚咽を漏らした。
「私、旦那様に見捨てられたら、生きていけません……。もう、逃げませんから……、だから、見捨てないで……」
それは、かつてイザベラが放った「アーサー様に見捨てられたら生きていけないですものね」という嘲笑を、そのままなぞった言葉だった。
アーサーの傲慢な支配欲を、最も満たすであろう台詞。
案の定、アーサーは満足げに笑みを深めた。
「ははっ、やっと分かったのか。そうだ、君は僕がいないと何もできないんだよ。だから、僕の言う通りにしていればいいんだ。工房への立ち入りは、明日から許可してやる。監視はつけるけどね」
アーサーはクロエの頭をポンポンと撫でると、踵を返して部屋を出て行った。
扉が閉まり、再び外から鍵がかけられる音が響く。
その瞬間、クロエの顔から哀れな妻の演技がスッと剥がれ落ちた。
両手で覆っていた顔を上げると、そこには一切の涙はなく、冷え切った翡翠の瞳だけが静かに輝いていた。
「……滑稽ね」
クロエは、首にかけられた高価なサファイアのネックレスを、忌々しげに引きちぎるようにして外した。
彼が「愛してやる」と差し出したものは、ただの首輪だ。
クロエを繋ぎ止めるための、冷たくて重い鎖。
(彼は、私が完全に屈服したと信じている。自分の権力と、あのダミーの鞄さえあれば、私を永遠にコントロールできると)
クロエは、ネックレスをベッドの隅に放り投げた。
明日から、工房への立ち入りが許可される。
それは、彼女が待ち望んでいた反撃の第一歩だった。
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