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第26話:失敗前提の逃亡劇
決行の夜。
屋敷中が寝静まった深夜二時。
クロエは、自室のベッドの上で、息を潜めていた。
彼女が身につけているのは、裾が長く、足さばきの悪い豪奢なシルクのドレスだった。
アーサーから贈られたもので、歩くたびに微かに衣擦れの音が響く。
(……さて、幕開けね)
クロエは、自室の扉にそっと手をかけた。
本来なら外から鍵がかけられているはずの扉だが、実は昼間のうちに、アーサーが手配した無愛想なメイドが食事を運んできた隙を突き、扉の蝶番のピンを半分ほど抜き取っておいたのだ。
精油の抽出工程で培った金属の膨張と収縮の知識を応用し、微量の酸性溶液(レモン精油の成分を濃縮したもの)を使って金属を腐食させ、滑りを良くしておくという細工だ。
音を立てないように、クロエは扉を枠ごと僅かに持ち上げ、蝶番から外し、人間一人が通れるだけの隙間を作った。
廊下に出ると、警備員の姿はなかった。
彼らはクロエを完全に心が折れた無能な女と見くびり、この時間は厨房の隅で酒を飲んでサボっていることを、クロエはここ数日の観察で把握していた。
クロエは、重い旅行鞄を引きずりながら、足音を忍ばせて二階の廊下を進んだ。
目指すは、アーサーの書斎。
そこに、彼女のダミーの鞄が保管されているはずだ。
書斎の扉は施錠されていなかった。
アーサーは自分の屋敷の中で、妻が書斎に忍び込むなどとは微塵も警戒していないのだ。
月明かりだけが頼りの室内。
クロエは迷わず、アーサーの執務机の横にある金庫へと向かった。
しかし、金庫を開けるまでもない。
アーサーの傲慢さを象徴するかのように、クロエのダミーの鞄は、金庫の上——誰の目にも触れる一番目立つ場所——に、まるで戦利品のように飾られていた。
(……本当に、私を馬鹿にしているのね)
クロエは内心で冷笑しつつ、その鞄をひったくるように抱え込んだ。
「よし……これで……!」
クロエは、ダミーの鞄を抱え、書斎を飛び出した。
クロエは二階のメイン階段へと向かった。
硬いヒールの音が、静まり返ったエントランスホールに虚しく響く。
裸足の方が見つかる確率は下がるが、今回の脱出はあくまでも、裏で動いている計画から目を逸らすためのパフォーマンスだ。
「……誰だっ!」
一階の警備員が、その音に気づいて怒声を上げた。
クロエは「ひっ!」と態とらしい短い悲鳴を上げ、鞄を抱え直して、重い玄関の扉へと走り出した。
「おい、奥様だ! 逃げようとしてるぞ!」
「捕まえろ! 旦那様に知らせろ!」
背後から迫る複数の足音。
クロエは玄関の扉の重い真鍮のドアノブに手をかけたが、もちろんそれは内側から強固に施錠されていた。
ガチャガチャと音を立てて開けようと焦るフリをするクロエの腕を、警備員の一人が乱暴に掴んだ。
「痛っ……! 放して! 放しなさい!」
クロエは抵抗する素振りを見せながら、ダミーの鞄だけは絶対に手放さないように強く胸に抱きしめた。
その必死な姿は、警備員たちの目に狂気じみた執着として映ったことだろう。
「何事だ、こんな夜中に!」
階段の上から、不機嫌極まりない声が降ってきた。
ガウンを羽織り、寝癖のついた金髪を掻き毟りながら降りてきたのは、アーサーだった。
その後ろには、薄いネグリジェ姿のイザベラが、眠そうに目を擦りながらくっついている。
「旦那様! 奥様が、旦那様の書斎から鞄を盗み出し、正面から逃亡を図りました!」
警備員が報告すると、アーサーの顔色が一気に怒りで赤黒く染まった。
「……クロエ! 貴様、また逃げようとしたのか!」
アーサーの怒号が、エントランスホールにビリビリと響き渡った。
(さあ、来たわ)
クロエは、警備員に腕を掴まれたまま、床にへたり込んだ。
乱れたシルクのドレス、両腕に抱えた鞄。
そして、アーサーを見上げるその翡翠の瞳には、かつてないほどの絶望と恐怖が完璧に作り出されていた。
「……違うんです、私はただ、この鞄がないと……、イザベラ様の香水が、作れないから……!」
クロエは、ダミーの鞄を盾にするようにして、震える声で言い訳を口にした。
ここまでは、クロエのシナリオ通りだった。
屋敷中が寝静まった深夜二時。
クロエは、自室のベッドの上で、息を潜めていた。
彼女が身につけているのは、裾が長く、足さばきの悪い豪奢なシルクのドレスだった。
アーサーから贈られたもので、歩くたびに微かに衣擦れの音が響く。
(……さて、幕開けね)
クロエは、自室の扉にそっと手をかけた。
本来なら外から鍵がかけられているはずの扉だが、実は昼間のうちに、アーサーが手配した無愛想なメイドが食事を運んできた隙を突き、扉の蝶番のピンを半分ほど抜き取っておいたのだ。
精油の抽出工程で培った金属の膨張と収縮の知識を応用し、微量の酸性溶液(レモン精油の成分を濃縮したもの)を使って金属を腐食させ、滑りを良くしておくという細工だ。
音を立てないように、クロエは扉を枠ごと僅かに持ち上げ、蝶番から外し、人間一人が通れるだけの隙間を作った。
廊下に出ると、警備員の姿はなかった。
彼らはクロエを完全に心が折れた無能な女と見くびり、この時間は厨房の隅で酒を飲んでサボっていることを、クロエはここ数日の観察で把握していた。
クロエは、重い旅行鞄を引きずりながら、足音を忍ばせて二階の廊下を進んだ。
目指すは、アーサーの書斎。
そこに、彼女のダミーの鞄が保管されているはずだ。
書斎の扉は施錠されていなかった。
アーサーは自分の屋敷の中で、妻が書斎に忍び込むなどとは微塵も警戒していないのだ。
月明かりだけが頼りの室内。
クロエは迷わず、アーサーの執務机の横にある金庫へと向かった。
しかし、金庫を開けるまでもない。
アーサーの傲慢さを象徴するかのように、クロエのダミーの鞄は、金庫の上——誰の目にも触れる一番目立つ場所——に、まるで戦利品のように飾られていた。
(……本当に、私を馬鹿にしているのね)
クロエは内心で冷笑しつつ、その鞄をひったくるように抱え込んだ。
「よし……これで……!」
クロエは、ダミーの鞄を抱え、書斎を飛び出した。
クロエは二階のメイン階段へと向かった。
硬いヒールの音が、静まり返ったエントランスホールに虚しく響く。
裸足の方が見つかる確率は下がるが、今回の脱出はあくまでも、裏で動いている計画から目を逸らすためのパフォーマンスだ。
「……誰だっ!」
一階の警備員が、その音に気づいて怒声を上げた。
クロエは「ひっ!」と態とらしい短い悲鳴を上げ、鞄を抱え直して、重い玄関の扉へと走り出した。
「おい、奥様だ! 逃げようとしてるぞ!」
「捕まえろ! 旦那様に知らせろ!」
背後から迫る複数の足音。
クロエは玄関の扉の重い真鍮のドアノブに手をかけたが、もちろんそれは内側から強固に施錠されていた。
ガチャガチャと音を立てて開けようと焦るフリをするクロエの腕を、警備員の一人が乱暴に掴んだ。
「痛っ……! 放して! 放しなさい!」
クロエは抵抗する素振りを見せながら、ダミーの鞄だけは絶対に手放さないように強く胸に抱きしめた。
その必死な姿は、警備員たちの目に狂気じみた執着として映ったことだろう。
「何事だ、こんな夜中に!」
階段の上から、不機嫌極まりない声が降ってきた。
ガウンを羽織り、寝癖のついた金髪を掻き毟りながら降りてきたのは、アーサーだった。
その後ろには、薄いネグリジェ姿のイザベラが、眠そうに目を擦りながらくっついている。
「旦那様! 奥様が、旦那様の書斎から鞄を盗み出し、正面から逃亡を図りました!」
警備員が報告すると、アーサーの顔色が一気に怒りで赤黒く染まった。
「……クロエ! 貴様、また逃げようとしたのか!」
アーサーの怒号が、エントランスホールにビリビリと響き渡った。
(さあ、来たわ)
クロエは、警備員に腕を掴まれたまま、床にへたり込んだ。
乱れたシルクのドレス、両腕に抱えた鞄。
そして、アーサーを見上げるその翡翠の瞳には、かつてないほどの絶望と恐怖が完璧に作り出されていた。
「……違うんです、私はただ、この鞄がないと……、イザベラ様の香水が、作れないから……!」
クロエは、ダミーの鞄を盾にするようにして、震える声で言い訳を口にした。
ここまでは、クロエのシナリオ通りだった。
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