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第28話:進行し続ける計画
クロエが地下牢に放り込まれてから、数日が経過した。
カビ臭い空気と冷たい石の床。食事として与えられるのは、一日に一度、小窓から差し入れられる硬いパンと濁った水だけだ。
アーサーは、クロエを完全に支配したという勝利の美酒に酔いしれ、彼女を精神的に追い詰めるためのこの仕打ちを大いに楽しんでいるようだった。
「ほら、奥様。旦那様からのありがたいお食事だ」
鉄格子の向こうで、警備員が薄ら笑いを浮かべながらパンを放り投げた。
クロエは部屋の隅で膝を抱え、怯えたように震える背中を見せたまま、微かに頷くだけだ。
彼女の乱れた亜麻色の髪と、埃にまみれたドレスは、誰の目にも完全に心が折れた惨めな敗北者として映っていた。
「……随分とおとなしくなったもんだ。旦那様も『あいつはもう僕の許可なく息もできないだろう』ってご機嫌だったぜ」
警備員は鼻で笑い、足音を立てて階段を上っていった。
その足音が完全に消えたのを確認すると、クロエはゆっくりと顔を上げた。
怯えていたはずの翡翠の瞳には、微かな涙の跡すらない。
あるのは、氷のように冷たく、そして鋭利に澄み切った理性の光だけだった。
クロエは、放り投げられた硬いパンを手に取り、無表情のまま齧った。
味などどうでもいい。
ただ、明日の夜の決行に向けて、最低限の体力を維持するためだけの作業だ。
一方、地上のヴァレンティン邸の主寝室では、アーサーとイザベラが豪奢なベッドで甘い時間を過ごしていた。
「あははっ! 本当に奥様ったら滑稽でしたわね! あんな薄汚い鞄にしがみついて、アーサー様に土下座するなんて!」
イザベラは、アーサーの胸に顔を埋めながら甲高い声で笑った。
「ああ、傑作だったよ。あいつは結局、僕の足元でしか生きられないんだ。あの鞄さえ僕が握っていれば、あいつは僕のために一生香水を作り続ける。……僕の、便利な道具としてね」
アーサーは甘いブルーの瞳を細め、イザベラの髪を撫でた。
彼の中では、完全に決着がついていた。
妻は自分の権力の前に平伏し、二度と逃げ出す気力を持たない。
彼女の研究データは、自分が金庫の奥底に厳重に保管しているのだから。
しかし、彼らは事実を知らない。
アーサーが金庫にしまい込んだあの革の鞄の中身。
それが、完全なダミーであるということを。
本物の研究データ——ヴァレンティン商会の命綱とも言える数年間の膨大な抽出記録。
そして、アーサーが妻の成果を横取りし、商会の資金を私的に流用していたことを証明する帳簿。
さらには、クロエの署名がなされた離縁状。
それらはすべて、トーマスの手によって屋敷から持ち出され、王都の厳格な監査機関へと届けられていた。
王都の監査機関は、すでにその証拠を精査し、ヴァレンティン商会への強制捜査の準備を進めている。
同時に、クロエの才能を高く評価するルミエール商会の会頭が、彼女を専属調香師として迎え入れるための法的な保護手続きを完了させていた。
アーサーが勝利を確信して笑っているこの瞬間にも、彼が立つ足元の地盤は、音を立てて崩れ落ち始めているのだ。
「……ねえ、アーサー様。明日の夜は、私の父である公爵様もいらっしゃる新事業の発表パーティーですわよね? 私の星空の涙のコンセプト、大々的に発表してくださるんでしょう?」
イザベラが、甘えるように上目遣いで尋ねた。
「もちろんだよ。あの女には、地下牢から出したらすぐに試作品を作らせる。僕のプロデュースと君の感性があれば、また社交界の話題を独占できるさ」
アーサーは自信たっぷりに微笑み、イザベラの唇にキスをした。
明日の夜、ヴァレンティン伯爵邸では、大勢の貴族を招いた華やかなパーティーが開かれる。
アーサーとイザベラは、その主役として会場に立つ。
屋敷の警備はパーティー会場に集中し、地下牢や裏口の監視は手薄になる。
(……彼らが最も油断し、最も高い場所で有頂天になるその時)
地下牢の冷たい闇の中で、クロエは静かに目を閉じた。
彼女の頭の中には、すでに屋敷の構造、警備員の配置、最終兵器の投入タイミングが、完璧な化学式のように組み上がっていた。
「さあ、アーサー。イザベラ」
目を開いたクロエの唇から、微かな囁きが漏れた。
「あなたたちの見ている幻は、明日で終わりよ。……私が、この手で目を覚まさせてあげるわ」
冷え切った翡翠の瞳が暗闇の中で、鋭利な光を放っていた。
カビ臭い空気と冷たい石の床。食事として与えられるのは、一日に一度、小窓から差し入れられる硬いパンと濁った水だけだ。
アーサーは、クロエを完全に支配したという勝利の美酒に酔いしれ、彼女を精神的に追い詰めるためのこの仕打ちを大いに楽しんでいるようだった。
「ほら、奥様。旦那様からのありがたいお食事だ」
鉄格子の向こうで、警備員が薄ら笑いを浮かべながらパンを放り投げた。
クロエは部屋の隅で膝を抱え、怯えたように震える背中を見せたまま、微かに頷くだけだ。
彼女の乱れた亜麻色の髪と、埃にまみれたドレスは、誰の目にも完全に心が折れた惨めな敗北者として映っていた。
「……随分とおとなしくなったもんだ。旦那様も『あいつはもう僕の許可なく息もできないだろう』ってご機嫌だったぜ」
警備員は鼻で笑い、足音を立てて階段を上っていった。
その足音が完全に消えたのを確認すると、クロエはゆっくりと顔を上げた。
怯えていたはずの翡翠の瞳には、微かな涙の跡すらない。
あるのは、氷のように冷たく、そして鋭利に澄み切った理性の光だけだった。
クロエは、放り投げられた硬いパンを手に取り、無表情のまま齧った。
味などどうでもいい。
ただ、明日の夜の決行に向けて、最低限の体力を維持するためだけの作業だ。
一方、地上のヴァレンティン邸の主寝室では、アーサーとイザベラが豪奢なベッドで甘い時間を過ごしていた。
「あははっ! 本当に奥様ったら滑稽でしたわね! あんな薄汚い鞄にしがみついて、アーサー様に土下座するなんて!」
イザベラは、アーサーの胸に顔を埋めながら甲高い声で笑った。
「ああ、傑作だったよ。あいつは結局、僕の足元でしか生きられないんだ。あの鞄さえ僕が握っていれば、あいつは僕のために一生香水を作り続ける。……僕の、便利な道具としてね」
アーサーは甘いブルーの瞳を細め、イザベラの髪を撫でた。
彼の中では、完全に決着がついていた。
妻は自分の権力の前に平伏し、二度と逃げ出す気力を持たない。
彼女の研究データは、自分が金庫の奥底に厳重に保管しているのだから。
しかし、彼らは事実を知らない。
アーサーが金庫にしまい込んだあの革の鞄の中身。
それが、完全なダミーであるということを。
本物の研究データ——ヴァレンティン商会の命綱とも言える数年間の膨大な抽出記録。
そして、アーサーが妻の成果を横取りし、商会の資金を私的に流用していたことを証明する帳簿。
さらには、クロエの署名がなされた離縁状。
それらはすべて、トーマスの手によって屋敷から持ち出され、王都の厳格な監査機関へと届けられていた。
王都の監査機関は、すでにその証拠を精査し、ヴァレンティン商会への強制捜査の準備を進めている。
同時に、クロエの才能を高く評価するルミエール商会の会頭が、彼女を専属調香師として迎え入れるための法的な保護手続きを完了させていた。
アーサーが勝利を確信して笑っているこの瞬間にも、彼が立つ足元の地盤は、音を立てて崩れ落ち始めているのだ。
「……ねえ、アーサー様。明日の夜は、私の父である公爵様もいらっしゃる新事業の発表パーティーですわよね? 私の星空の涙のコンセプト、大々的に発表してくださるんでしょう?」
イザベラが、甘えるように上目遣いで尋ねた。
「もちろんだよ。あの女には、地下牢から出したらすぐに試作品を作らせる。僕のプロデュースと君の感性があれば、また社交界の話題を独占できるさ」
アーサーは自信たっぷりに微笑み、イザベラの唇にキスをした。
明日の夜、ヴァレンティン伯爵邸では、大勢の貴族を招いた華やかなパーティーが開かれる。
アーサーとイザベラは、その主役として会場に立つ。
屋敷の警備はパーティー会場に集中し、地下牢や裏口の監視は手薄になる。
(……彼らが最も油断し、最も高い場所で有頂天になるその時)
地下牢の冷たい闇の中で、クロエは静かに目を閉じた。
彼女の頭の中には、すでに屋敷の構造、警備員の配置、最終兵器の投入タイミングが、完璧な化学式のように組み上がっていた。
「さあ、アーサー。イザベラ」
目を開いたクロエの唇から、微かな囁きが漏れた。
「あなたたちの見ている幻は、明日で終わりよ。……私が、この手で目を覚まさせてあげるわ」
冷え切った翡翠の瞳が暗闇の中で、鋭利な光を放っていた。
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