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第29話:動き出す妻
夜空には雲一つなく、冷たい月明かりが庭園の木々を青白く照らし出している。
その光を跳ね返すかのように、馬車の前に立つアーサー・ヴァレンティンの姿は、傲慢なまでの自信と光り輝くような虚栄心に満ちていた。
「アーサー様、いかがかしら? 今夜の私のドレス、最高に美しいでしょう?」
甘ったるい声を上げながらエントランスから現れたのは、公爵令嬢のイザベラだ。
彼女が身に纏っているのは、夜会の中でも一際目を引くであろう、鮮やかな真紅のシルクドレスだった。
幾重にも重ねられたチュールと、胸元に散りばめられた大粒のルビーが、彼女の愛らしい童顔とは不釣り合いなほどの豪奢さを主張している。
そして彼女の歩みと共に、夜の空気を暴力的に塗り潰すような、強烈で俗悪な香水の匂いが周囲に撒き散らされた。
イランイランの重い甘さと、過剰な合成ムスクが混ざり合った、クロエならば決して調香しない下品な香りだ。
しかし、アーサーはその香りを深く吸い込み、うっとりとした表情でイザベラの腰を抱き寄せた。
「ああ、素晴らしいよイザベラ。君の美しさとその香りは、今夜のパーティーですべての貴族を魅了するだろう。……なにせ今夜は、新作星空の涙のコンセプトを大々的に発表する、記念すべき夜だからね」
アーサーの甘いブルーの瞳には、一切の迷いも罪悪感も存在しない。
彼の頭の中を占めているのは、今夜の発表で出資者たちからどれほどの莫大な資金を集められるか、そして、社交界の寵児として自分がどれほどの称賛を浴びるかということだけだ。
「ええ、とっても楽しみですわ! ……でも、本当に大丈夫ですの? その星空の涙、まだ試作品すらできていないのでしょう? 奥様は地下牢に入ったままですし」
イザベラが少しだけ唇を尖らせて上目遣いになると、アーサーは鼻で笑って彼女の頬を軽く抓った。
「心配ないさ。あの女はもう、完全に僕の掌の上だ。あの鞄を金庫に保管している限り、あいつは僕の許可なしでは息もできない。今夜、莫大な資金を集めた後、明日には地下から引き摺り出して、這いつくばって僕の靴を舐めさせながら香水を作らせてやる。あいつにはもう、逃げ出す気力なんて一欠片も残っていないよ」
アーサーは、以前エントランスホールで自分に縋り付いたクロエの惨めな姿を思い出し、嗜虐的な悦びに口角を吊り上げた。
女の才能など、しょせんは男が管理し、利用するための道具に過ぎない。
自分こそが絶対的な支配者なのだという全能感が、彼の思考を完全に麻痺させていた。
「さあ、行こうか」
アーサーはイザベラを馬車に乗せると、見送りに並んでいた屈強な警備員たちのリーダー格に鋭い視線を向けた。
「俺たちが帰るまで、屋敷の警備は怠るなよ。特に地下牢のクロエだ。絶対に外に出すな。まあ、水とパンだけで這いつくばって泣いているだけの女に、何かを企む気力などあるはずもないがな」
「承知いたしました。ご安心ください、旦那様」
警備員の力強い返事に満足し、アーサーは馬車に乗り込んだ。
御者が鞭を鳴らすと、豪奢な馬車は滑り出し、軽やかな車輪の音を立てて夜の王都へと消えていった。
彼らは、自分たちが勝利の美酒に酔いしれようとしている今この瞬間、自分たちの足元の地盤が完全に崩れ去るカウントダウンが既に始まっているなど、夢にも思っていなかった。
カビ臭く、冷え切った地下牢の暗闇の中。
クロエは、微かに響いてきた馬車の車輪の音が、完全に遠ざかって聞こえなくなるまで、石の床に伏せたままじっと息を潜めていた。
完全な静寂が、地下室を包み込んだ。
時折、壁の隙間から冷たい風が吹き込み、鉄格子を微かに鳴らすだけだ。
「……行ったわね」
クロエは、ゆっくりと身を起こした。
数日間、硬いパンと濁った水だけで過ごした体は確かに重く、関節は軋むように痛む。
埃にまみれたシルクのドレスは所々が破れ、青白い肌にはアーサーに打たれた頬の赤みがまだ微かに残っていた。
誰が見ても、限界を迎えた惨めな囚人の姿だ。
しかし、立ち上がった彼女の翡翠の瞳には、一切の絶望も、悲壮感もなかった。
あるのは、北極の氷床のように冷たく、そして鋭利に澄み切った理性の光だけだ。
クロエは、暗闇の中で自らの胸に手を当てた。
かつては、アーサーの足音が遠ざかるたびに、胸が締め付けられるような孤独と悲しみを感じていた。
どうして自分を見てくれないのか、どうして自分の献身をわかってくれないのかと、愚かな期待に縋っていた。
しかし今はどうだ。
あの男がイザベラを連れて豪奢なパーティーに向かったという事実すら、彼女にとってはただの計画を進行させるための好条件に過ぎない。
裏で動いている計画に気づかれないように、充分に注目を集め、時間も稼いだ。
アーサーの権力という横槍が入る余地もないほど、計画は進んでいるはずだ。
そろそろ、頃合いか。
「さて、始めましょうか」
クロエは呟き、ゆっくりと微笑んだ。
その光を跳ね返すかのように、馬車の前に立つアーサー・ヴァレンティンの姿は、傲慢なまでの自信と光り輝くような虚栄心に満ちていた。
「アーサー様、いかがかしら? 今夜の私のドレス、最高に美しいでしょう?」
甘ったるい声を上げながらエントランスから現れたのは、公爵令嬢のイザベラだ。
彼女が身に纏っているのは、夜会の中でも一際目を引くであろう、鮮やかな真紅のシルクドレスだった。
幾重にも重ねられたチュールと、胸元に散りばめられた大粒のルビーが、彼女の愛らしい童顔とは不釣り合いなほどの豪奢さを主張している。
そして彼女の歩みと共に、夜の空気を暴力的に塗り潰すような、強烈で俗悪な香水の匂いが周囲に撒き散らされた。
イランイランの重い甘さと、過剰な合成ムスクが混ざり合った、クロエならば決して調香しない下品な香りだ。
しかし、アーサーはその香りを深く吸い込み、うっとりとした表情でイザベラの腰を抱き寄せた。
「ああ、素晴らしいよイザベラ。君の美しさとその香りは、今夜のパーティーですべての貴族を魅了するだろう。……なにせ今夜は、新作星空の涙のコンセプトを大々的に発表する、記念すべき夜だからね」
アーサーの甘いブルーの瞳には、一切の迷いも罪悪感も存在しない。
彼の頭の中を占めているのは、今夜の発表で出資者たちからどれほどの莫大な資金を集められるか、そして、社交界の寵児として自分がどれほどの称賛を浴びるかということだけだ。
「ええ、とっても楽しみですわ! ……でも、本当に大丈夫ですの? その星空の涙、まだ試作品すらできていないのでしょう? 奥様は地下牢に入ったままですし」
イザベラが少しだけ唇を尖らせて上目遣いになると、アーサーは鼻で笑って彼女の頬を軽く抓った。
「心配ないさ。あの女はもう、完全に僕の掌の上だ。あの鞄を金庫に保管している限り、あいつは僕の許可なしでは息もできない。今夜、莫大な資金を集めた後、明日には地下から引き摺り出して、這いつくばって僕の靴を舐めさせながら香水を作らせてやる。あいつにはもう、逃げ出す気力なんて一欠片も残っていないよ」
アーサーは、以前エントランスホールで自分に縋り付いたクロエの惨めな姿を思い出し、嗜虐的な悦びに口角を吊り上げた。
女の才能など、しょせんは男が管理し、利用するための道具に過ぎない。
自分こそが絶対的な支配者なのだという全能感が、彼の思考を完全に麻痺させていた。
「さあ、行こうか」
アーサーはイザベラを馬車に乗せると、見送りに並んでいた屈強な警備員たちのリーダー格に鋭い視線を向けた。
「俺たちが帰るまで、屋敷の警備は怠るなよ。特に地下牢のクロエだ。絶対に外に出すな。まあ、水とパンだけで這いつくばって泣いているだけの女に、何かを企む気力などあるはずもないがな」
「承知いたしました。ご安心ください、旦那様」
警備員の力強い返事に満足し、アーサーは馬車に乗り込んだ。
御者が鞭を鳴らすと、豪奢な馬車は滑り出し、軽やかな車輪の音を立てて夜の王都へと消えていった。
彼らは、自分たちが勝利の美酒に酔いしれようとしている今この瞬間、自分たちの足元の地盤が完全に崩れ去るカウントダウンが既に始まっているなど、夢にも思っていなかった。
カビ臭く、冷え切った地下牢の暗闇の中。
クロエは、微かに響いてきた馬車の車輪の音が、完全に遠ざかって聞こえなくなるまで、石の床に伏せたままじっと息を潜めていた。
完全な静寂が、地下室を包み込んだ。
時折、壁の隙間から冷たい風が吹き込み、鉄格子を微かに鳴らすだけだ。
「……行ったわね」
クロエは、ゆっくりと身を起こした。
数日間、硬いパンと濁った水だけで過ごした体は確かに重く、関節は軋むように痛む。
埃にまみれたシルクのドレスは所々が破れ、青白い肌にはアーサーに打たれた頬の赤みがまだ微かに残っていた。
誰が見ても、限界を迎えた惨めな囚人の姿だ。
しかし、立ち上がった彼女の翡翠の瞳には、一切の絶望も、悲壮感もなかった。
あるのは、北極の氷床のように冷たく、そして鋭利に澄み切った理性の光だけだ。
クロエは、暗闇の中で自らの胸に手を当てた。
かつては、アーサーの足音が遠ざかるたびに、胸が締め付けられるような孤独と悲しみを感じていた。
どうして自分を見てくれないのか、どうして自分の献身をわかってくれないのかと、愚かな期待に縋っていた。
しかし今はどうだ。
あの男がイザベラを連れて豪奢なパーティーに向かったという事実すら、彼女にとってはただの計画を進行させるための好条件に過ぎない。
裏で動いている計画に気づかれないように、充分に注目を集め、時間も稼いだ。
アーサーの権力という横槍が入る余地もないほど、計画は進んでいるはずだ。
そろそろ、頃合いか。
「さて、始めましょうか」
クロエは呟き、ゆっくりと微笑んだ。
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