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第33話:新たな待遇
真夜中の王都を走る馬車の中は、静謐な空気に包まれていた。
ルミエール商会の会頭、ギルバートは、対面の席に座るクロエに温かい紅茶の入った水筒と、肌触りの良いカシミアのショールを差し出した。
「まずは少しお体を休めてください。王都の外れにある私の別邸まで、あと一時間ほどかかります」
「ありがとうございます、ギルバート様」
クロエはショールを肩に掛け、紅茶を一口啜った。
上質なダージリンの香りが、三日間パンと水だけで冷え切っていた胃の腑にじんわりと染み渡る。
自分が破れたドレスのまま裸足でいることなど、今の彼女にはどうでもよかった。
肩の力が抜け、長年張り詰めていた緊張の糸が、ようやく解れていくのを感じていた。
「それにしても、先ほどの貴女の話……。実に見事な手際です。まさか、厳重な監視網を、たった数滴の香りで突破されるとは」
ギルバートは、感嘆の息を漏らした。
彼が手配したのは、あくまで屋敷の外での馬車の待機と、王都の監査機関への根回しだけだ。
屋敷内部からの脱出は、クロエ自身の力で成し遂げられたものだった。
「あの男……、ヴァレンティン伯爵は、貴女の才能をただの便利な道具としてしか見ていなかった。我が商会としては、その無能さに呆れると同時に、貴女を迎え入れる絶好の機会を与えてくれたことに感謝すら覚えますよ」
ギルバートは苦笑交じりに首を横に振った。
「ええ。彼は自分が何を守り、何を失ったのかを、最も残酷な形で知ることになるでしょうね」
クロエは窓の外へと視線を向けた。
流れる王都の夜景。
ガス灯の光が、彼女の翡翠の瞳に静かな決意の炎を映し出している。
アーサーが今夜のパーティーで、どれほどの出資者から莫大な資金を集めようとも、それは明日にはすべて詐欺の証拠として彼の首を絞める鎖となる。
彼が誇るネロリの夜明けも、新事業の星空の涙も、クロエの知識と技術がなければ、一滴たりとも生産することは不可能なのだから。
「今後のことですが」
ギルバートが、少し真剣な表情になって身を乗り出した。
「監査機関は、ヴァレンティン商会への強制捜査に踏み切ります。貴女が提出した離縁状も、不正の証拠と共に受理され、法的に有効なものとして処理される手筈です。……貴女はもう、あの男の妻ではありません。完全に自由な身です」
「……」
クロエは、ショールを握りしめた。
完全に自由。
その言葉の響きが、胸の奥深くに沁み込んでいく。
もう、徹夜で香水を作らされることもない。
もう、手柄を浮気相手に横取りされて愛想笑いを浮かべる必要もない。
もう、あの暴力的な香水の匂いと、無責任な責任転嫁の言葉に心をすり減らすこともないのだ。
「そして、我がルミエール商会は、貴女を専属の調香師として、最高の待遇でお迎えいたします。もちろん、貴女の望む研究環境と、正当な報酬をお約束します。貴女の技術は、誰かに搾取されるべきものではない。世界を豊かにするための、尊い財産なのですから」
ギルバートの力強い言葉に、クロエの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、アーサーの前で見せた計算された涙でも、絶望の涙でもない。
自分の価値を正当に評価し、一人の人間として、専門家として尊重してくれる言葉に対する、純粋な安堵と喜びの涙だった。
「……ありがとうございます、ギルバート様。私は、技術のすべてを、私自身と、正当に評価してくださる方のために使います」
クロエは涙を拭い、力強く頷いた。
搾取からの完全なる解放。
鳥籠は完全に破壊され、彼女は今、広い空へと飛び立ったのだ。
ルミエール商会の会頭、ギルバートは、対面の席に座るクロエに温かい紅茶の入った水筒と、肌触りの良いカシミアのショールを差し出した。
「まずは少しお体を休めてください。王都の外れにある私の別邸まで、あと一時間ほどかかります」
「ありがとうございます、ギルバート様」
クロエはショールを肩に掛け、紅茶を一口啜った。
上質なダージリンの香りが、三日間パンと水だけで冷え切っていた胃の腑にじんわりと染み渡る。
自分が破れたドレスのまま裸足でいることなど、今の彼女にはどうでもよかった。
肩の力が抜け、長年張り詰めていた緊張の糸が、ようやく解れていくのを感じていた。
「それにしても、先ほどの貴女の話……。実に見事な手際です。まさか、厳重な監視網を、たった数滴の香りで突破されるとは」
ギルバートは、感嘆の息を漏らした。
彼が手配したのは、あくまで屋敷の外での馬車の待機と、王都の監査機関への根回しだけだ。
屋敷内部からの脱出は、クロエ自身の力で成し遂げられたものだった。
「あの男……、ヴァレンティン伯爵は、貴女の才能をただの便利な道具としてしか見ていなかった。我が商会としては、その無能さに呆れると同時に、貴女を迎え入れる絶好の機会を与えてくれたことに感謝すら覚えますよ」
ギルバートは苦笑交じりに首を横に振った。
「ええ。彼は自分が何を守り、何を失ったのかを、最も残酷な形で知ることになるでしょうね」
クロエは窓の外へと視線を向けた。
流れる王都の夜景。
ガス灯の光が、彼女の翡翠の瞳に静かな決意の炎を映し出している。
アーサーが今夜のパーティーで、どれほどの出資者から莫大な資金を集めようとも、それは明日にはすべて詐欺の証拠として彼の首を絞める鎖となる。
彼が誇るネロリの夜明けも、新事業の星空の涙も、クロエの知識と技術がなければ、一滴たりとも生産することは不可能なのだから。
「今後のことですが」
ギルバートが、少し真剣な表情になって身を乗り出した。
「監査機関は、ヴァレンティン商会への強制捜査に踏み切ります。貴女が提出した離縁状も、不正の証拠と共に受理され、法的に有効なものとして処理される手筈です。……貴女はもう、あの男の妻ではありません。完全に自由な身です」
「……」
クロエは、ショールを握りしめた。
完全に自由。
その言葉の響きが、胸の奥深くに沁み込んでいく。
もう、徹夜で香水を作らされることもない。
もう、手柄を浮気相手に横取りされて愛想笑いを浮かべる必要もない。
もう、あの暴力的な香水の匂いと、無責任な責任転嫁の言葉に心をすり減らすこともないのだ。
「そして、我がルミエール商会は、貴女を専属の調香師として、最高の待遇でお迎えいたします。もちろん、貴女の望む研究環境と、正当な報酬をお約束します。貴女の技術は、誰かに搾取されるべきものではない。世界を豊かにするための、尊い財産なのですから」
ギルバートの力強い言葉に、クロエの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、アーサーの前で見せた計算された涙でも、絶望の涙でもない。
自分の価値を正当に評価し、一人の人間として、専門家として尊重してくれる言葉に対する、純粋な安堵と喜びの涙だった。
「……ありがとうございます、ギルバート様。私は、技術のすべてを、私自身と、正当に評価してくださる方のために使います」
クロエは涙を拭い、力強く頷いた。
搾取からの完全なる解放。
鳥籠は完全に破壊され、彼女は今、広い空へと飛び立ったのだ。
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