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第39話:顧客の怒り
ヴァレンティン商会の王都支部から、イザベラが強引に出荷した星空の涙が、王都の有力貴族たちの手元に届けられてから、わずか二日後のことだった。
アーサーは、差し押さえを免れた商会の執務室で、監査局から送られてきた山のような書類(詐欺容疑の証拠や、凍結された口座の明細)と格闘していた。
光を孕んでいたはずの金髪は皮脂で汚れ、落ち窪んだブルーの瞳は、絶えず小刻みに揺れている。
かつての傲慢な若き伯爵の姿は、見る影もなく憔悴しきっていた。
「……くそっ! なんでこんなことに……!」
アーサーは書類を机に叩きつけ、頭を抱えた。
クロエが屋敷から姿を消したあの日から、すべてが狂い始めた。
いや、彼が彼女の才能を搾取し、浮気を隠そうともしなかったあの日から、すでに崩壊へのカウントダウンは始まっていたのだ。
彼はただ、クロエが絶対に自分を見捨てない便利な道具だという致命的な勘違いのせいで、その足音に気づかなかっただけ。
「失礼いたします、伯爵様!」
執務室の扉が乱暴に開かれ、青ざめた顔の商会支配人が飛び込んできた。
「なんだ! 監査局がまた来たのか!?」
アーサーは弾かれたように顔を上げた。
「ち、違います! クレームです! モンゴメリ公爵様のお墨付きで先行出荷した星空の涙の試作品について、顧客の貴婦人方から猛烈な抗議が殺到しております!」
支配人の手には、数え切れないほどの抗議文の束が握られていた。
「クレーム……? イザベラが作ったあれか?」
アーサーは顔をしかめた。
イザベラが半狂乱になって工房で混ぜ合わせたあの液体。
アーサーも完成品を見てはいないが、彼女が「この私が作ったのだから絶対に素晴らしい」と出荷を強行したことは知っていた。
背に腹は代えられない状況で、彼もそれを止める気力すらなかったのだ。
「はい! 『こんな吐き気を催す悪臭、香水と呼べる代物ではない』『ドレスに変なシミがついた』……さらに深刻なのは、『肌に直接つけたところ、激しい炎症と発疹が出た』という健康被害の報告が、すでに十件以上も上がっております!」
「なっ……! 健康被害だと!?」
アーサーは椅子から立ち上がり、支配人の胸ぐらを掴んだ。
「どういうことだ! 香水で肌が荒れるなんて、クロエが作っていた時は一度もなかったぞ!」
「奥様……、いえ、クロエ様は、精油の化学的性質を完全に熟知しておられました。皮膚刺激の強い成分を中和し、安全な濃度に希釈するための緻密な計算をされていたのです。しかし、イザベラ様が調合されたものは……、原液に近い高濃度の精油と、粗悪な合成アルコールがデタラメに混ざり合った、ただの毒水です!」
支配人の悲痛な叫びに、アーサーの頭から血の気が引いた。
植物から抽出された精油は、薬にもなれば毒にもなる。
クロエは常にその危険性を理解し、秒単位の温度管理とミリグラム単位の配合で、安全かつ美しく香る商品を生み出していた。
それを、素人のイザベラが「可愛いから」「いい匂いだから」という理由だけで無秩序に混ぜ合わせた結果。
強烈な化学反応を起こした液体は、貴婦人たちのデリケートな肌を焼き、ドレスを汚す凶器と化したのだ。
「……お、おい、被害を受けたのは誰だ? どこの家だ?」
アーサーは震える声で尋ねた。
「王太后様の侍女長であるマーガレット夫人。財務卿の奥方……、そして、イザベラ様の御実家であるモンゴメリ公爵夫人も、お怒りのご様子です!」
「……終わった」
アーサーは、そのまま床に膝から崩れ落ちた。
王太后の側近や財務卿。
彼らは皆、先日のパーティーでアーサーの星空の涙のコンセプトに多額の出資を約束してくれた大口のパトロンたちだ。
その彼らに、健康被害をもたらす毒水を送りつけた。
「伯爵様……、さらに、被害を受けた貴族家からは、即刻の全額返金と、莫大な慰謝料の請求が届いております。契約違反による違約金も発生し、その総額は……、商会の全資産を売却しても、到底払いきれる額ではありません」
支配人は絶望的な顔で、最後通告のような書類をアーサーの足元に置いた。
アーサーは、差し押さえを免れた商会の執務室で、監査局から送られてきた山のような書類(詐欺容疑の証拠や、凍結された口座の明細)と格闘していた。
光を孕んでいたはずの金髪は皮脂で汚れ、落ち窪んだブルーの瞳は、絶えず小刻みに揺れている。
かつての傲慢な若き伯爵の姿は、見る影もなく憔悴しきっていた。
「……くそっ! なんでこんなことに……!」
アーサーは書類を机に叩きつけ、頭を抱えた。
クロエが屋敷から姿を消したあの日から、すべてが狂い始めた。
いや、彼が彼女の才能を搾取し、浮気を隠そうともしなかったあの日から、すでに崩壊へのカウントダウンは始まっていたのだ。
彼はただ、クロエが絶対に自分を見捨てない便利な道具だという致命的な勘違いのせいで、その足音に気づかなかっただけ。
「失礼いたします、伯爵様!」
執務室の扉が乱暴に開かれ、青ざめた顔の商会支配人が飛び込んできた。
「なんだ! 監査局がまた来たのか!?」
アーサーは弾かれたように顔を上げた。
「ち、違います! クレームです! モンゴメリ公爵様のお墨付きで先行出荷した星空の涙の試作品について、顧客の貴婦人方から猛烈な抗議が殺到しております!」
支配人の手には、数え切れないほどの抗議文の束が握られていた。
「クレーム……? イザベラが作ったあれか?」
アーサーは顔をしかめた。
イザベラが半狂乱になって工房で混ぜ合わせたあの液体。
アーサーも完成品を見てはいないが、彼女が「この私が作ったのだから絶対に素晴らしい」と出荷を強行したことは知っていた。
背に腹は代えられない状況で、彼もそれを止める気力すらなかったのだ。
「はい! 『こんな吐き気を催す悪臭、香水と呼べる代物ではない』『ドレスに変なシミがついた』……さらに深刻なのは、『肌に直接つけたところ、激しい炎症と発疹が出た』という健康被害の報告が、すでに十件以上も上がっております!」
「なっ……! 健康被害だと!?」
アーサーは椅子から立ち上がり、支配人の胸ぐらを掴んだ。
「どういうことだ! 香水で肌が荒れるなんて、クロエが作っていた時は一度もなかったぞ!」
「奥様……、いえ、クロエ様は、精油の化学的性質を完全に熟知しておられました。皮膚刺激の強い成分を中和し、安全な濃度に希釈するための緻密な計算をされていたのです。しかし、イザベラ様が調合されたものは……、原液に近い高濃度の精油と、粗悪な合成アルコールがデタラメに混ざり合った、ただの毒水です!」
支配人の悲痛な叫びに、アーサーの頭から血の気が引いた。
植物から抽出された精油は、薬にもなれば毒にもなる。
クロエは常にその危険性を理解し、秒単位の温度管理とミリグラム単位の配合で、安全かつ美しく香る商品を生み出していた。
それを、素人のイザベラが「可愛いから」「いい匂いだから」という理由だけで無秩序に混ぜ合わせた結果。
強烈な化学反応を起こした液体は、貴婦人たちのデリケートな肌を焼き、ドレスを汚す凶器と化したのだ。
「……お、おい、被害を受けたのは誰だ? どこの家だ?」
アーサーは震える声で尋ねた。
「王太后様の侍女長であるマーガレット夫人。財務卿の奥方……、そして、イザベラ様の御実家であるモンゴメリ公爵夫人も、お怒りのご様子です!」
「……終わった」
アーサーは、そのまま床に膝から崩れ落ちた。
王太后の側近や財務卿。
彼らは皆、先日のパーティーでアーサーの星空の涙のコンセプトに多額の出資を約束してくれた大口のパトロンたちだ。
その彼らに、健康被害をもたらす毒水を送りつけた。
「伯爵様……、さらに、被害を受けた貴族家からは、即刻の全額返金と、莫大な慰謝料の請求が届いております。契約違反による違約金も発生し、その総額は……、商会の全資産を売却しても、到底払いきれる額ではありません」
支配人は絶望的な顔で、最後通告のような書類をアーサーの足元に置いた。
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