勇士ヒンレックの冒険 〜ファンタージェンの竜とお姫様の物語〜

安曇野レイ

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6. 黄金の斧

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 モーグールは水晶玉が指し示した方向に、そこに映し出したとおりの姿で確かにあった。岩場の細い道から下ったところが盆地になっており、ありとあらゆる建物が倒れていた。ヒンレックたち三人は、その入り口に立っただけで、まるで自分たちが小人になったような気がするのだった。空全体が瓦礫で覆われているようだ。傾いた建物が折り重なって、まっすぐに立てるところはどこにも見当たらない。トロン村の村長のことをエイデルは思い出していた。
 建物の中の暗がりで、不吉な、しゅるしゅるという音が聞こえていた。とても大きなものが移動していた。
 長い槍を持った、毛むくじゃらの生き物が三列に並んで、瓦礫を乗り越えながらこちらへ歩いてくる。
「ここがモーグールです」エイデルは悲しげに呟いた。「こんなひどい土地が、ファンタージェンにあるなんて…」
 ミルペは彼をうながした。「私達を運んで下さい、エイデル。ここには用事はありません。あなたが話してくれたオグラマール姫は、この土地の最果てに。ヴォドガバイにいらっしゃるのですから」
 エイデルはうなずき、ヒンレックと彼女を引き寄せると、また『七里の靴』でジャンプした。

 ヴォドガバイの入り口に、エイデルはヒンレックとミルペを連れてくると、真っ直ぐに、前を指差した。
 美しさの欠片もない、灰色の城がこんもりとした山の中腹あたりに居座っていた。
 こちら側は、向こうよりやや高い位置にあるようだ。山に向かって広々とした荒れ地が、なだらかに下り、半ばからは上り坂になっていた。
 山の頂上は、厚い雲か霧に隠れていた。もう夕方で、薄暗かった。山の左手の彼方には、日がもう落ちかけていた。
 じっとしていると、音が一つも聞こえなかった。
 バスチアンから聞いていたとおり、城は堀が三重に巡らされていた。堀は六角形で、少しずつ色の異なる石か、金属で覆われていた。硝酸の沼は靄が立ち昇り、サソリがひしめく場所は、ここからでも大群がもぞもぞと蠢いているのが分かって、気味が悪かった。
 城までは、白い木切れのようなものが見渡す限り、一面に転がっている。目に映る限り、城の立つ方角には一本の木も立っておらず、建物もない。
 目の隅で光が見えたので顔を向けてみると、東側で夜の闇が広がっている辺りから、ふちが緑がかった青い鬼火がぽつ、ぽつと灯り始めていた。段々とその数は増えていくようだ。
「石化した森、ヴォドガバイ」
 ミルペはため息をついた。
「足元に気をつけて…。ここは元、賢者の都でした。スメーグが石にした人々が、そこらじゅうに横たわっているのです。エイデルの履いている靴があれば、森を飛び越え、あの堀も飛び越えられるので、城に入るまでは、さしあたって危険はないでしょう。問題は、城の中へ入ったあとです。さあ、あの中が、どうなっているのか分かるか、試してみます」
 ミルペは水晶玉にそれを命じると、魔法の道具が役目を果たすまでの間、勇士を見やった。
 ヒンレックはヴォドガバイと普通の森との境界に立っていた。剣を腰から外し、両手を柄に置き、地面にまっすぐに立てて、ラーガー城をじっと見つめていた。
 三ヶ月前の彼がここにいたなら、はやる気持ちを抑えられなかったろう。
 今は大切な仲間がいて、竜を倒すのは、ファンタージェン全体のためだと分かっていた。また、ミルペによれば、竜は帰り道を失くした『人間の子』だという。
 あの子も、どうか救って下さい、と女賢者に頼まれ、事の大きさに、ヒンレックはこの世界が抱えている大きなものを意識せずにはいられなかった。
「ヒンレック様」
 エイデルは思い切って彼の肩に手をおき、振り返ったその顔に、かむりを振った。「もう日が暮れます。残念ですが。闇の中で竜と命のやりとりをするのは危険です」
「分かっているよ」ヒンレックは、はにかんだ。「姫がまだ、無事でおられるなら、明日の朝一番に乗り込むとも。だが危険が迫っているなら、私はためらわない。その時は、君はここに残るんだ」
「その時は、私も、ご一緒するまでです」
 エイデルはにっこり笑ってみせた。
 ヒンレックは何か言おうと片手を上げたが、エイデルはその手を両手でつかんで、激しく首を振るのだった。
「大賢者ミルペ…。姫は無事におられるか、お分かりになりますか」ヒンレックは尋ねた。
 ミルペは青い光に包まれている水晶玉をかかげた。
「日が暮れてしまえば、この光が向こうから見つけられてしまうかも知れません。もし今、見えていたとしても、あのあたりの鬼火と見分けがつかないはず…。急ぎましょう」
 大賢者が玉をのぞきこむので、ヒンレックとエイデルもそれにならった。

 三人は最初に、銀の光に目をあてられ、眩しくて何も見えなくなった。
「これは?」たまらず、ヒンレックが尋ねると、ミルペはかざしていた右手を左に振った。すると銀の光は弱まった。
 玉の中には、城の玄関を入ったところにあるらしい、大広間が写っていた。床の中央には、蜘蛛の巣と埃をぶ厚くかぶっていたシャンデリアがゴミに混じって砕けている。広間の左手から奥に向かって、子供の背丈ほどの位置から、三人はこの風景を見ていた。
 壁一面に、等間隔に人の大きさほどの長方形の鏡が取り付けられている。
 鏡は絶えず、光を放ち、その広間の中央は、熱を持たない銀の光が三方向から集まり、凝縮していた。
 ミルペの水晶は、玄関を入ったところをまず写したので、まともに一点集中の光を通してしまったのだろう。
「まさか、この鏡をここで見るとは!」
 ミルペは驚き、水晶から目を離すと、彼方のラーガー城を凝視した。
「はるか昔のことですが、ファンタージェンにも戦のある時代がありました…。きわめて、ごく短い時ですが。その頃に作られた戦争の道具のひとつがこれです。我々賢者たちは、危険な道具を集めて保管するか、破壊を試みてきました。あれは最悪な道具の中でも特にたちの悪いものです。あの鏡の中は、もうひとつ別の世界につながっています。十中八九、オグラマール姫は、鏡の裏の世界の城に囚われているに違いありません」
「鏡の中へは、どうやって入ればいい?」とヒンレック。
「魔法の道具は、持ち主に従います。持ち主が死なない限り、道具は主人を裏切らないものです。鏡は主人の許しがない者は、いっさい通しません。言葉すら」
「では、破壊するしかないな…。その方法はあるのだろうか?」
 ミルペは眉間に皺を寄せ、かむりを振った。
「魔法には、魔法でしか対抗できません。より強力な魔法の武器、道具だけがそれを可能にするのです」
 ミルペの声が終わらないうちに、ヒンレックは答えを口にしていた。
「…それは、ラーガー城の地下にあるのです。ミルペよ、バスチアンは、それだけはどこにあるか、教えてくれた。あの城の地下を見せてほしい…。いや、その前に姫がいらっしゃるところを」
 彼に質問をする前に、ミルペは水晶玉に命じた。水晶玉が点滅している間、彼女の質問にはエイデルが答えた。
 そもそも、ヒンレックはなぜ旅をしているのか。
 今やエイデルほど、彼のことを理解し、話すことのできる者はいなかった。ミルペに自分の物語を話して聞かせてはいたものの、もっと初めから、ヒンレックの旅立ちから、エイデルは話した。

」とオグラマール姫は言った。
 ヒンレックは全身が粟立つのを覚えた。エイデルとミルペも驚いて彼と、水晶玉の中の風景を見た。
 オグラメール姫は無事だった。彼女はくたびれきって、眠るところだった。ベッドに入り、静かに両手を組み合わせ、仰向けで目をつむっていた。その口が開いた。水晶玉はその声を伝えた。かすかにガラスの震える音を交えて。
「私の中にある『物語』を、スメーグは全部平らげてしまったわ…。あの子ときたら、それだけがのぞみ。私自身は何も変わっていないのだけれど。日に日に、私は消耗していったのよ。なぜだか分かるかしら。ただ、生きのびるという目的のために物語るのは、命をすり減らすだけでした。スメーグもそれが分かっていて、それをさせるので、私は、私の好きな物語といっしょに、毎日、彼に侮辱されていたの。疲れてしまいました…愛しい人よ。
「きっと明日は、私のことが気に入らないという理由で…新しい物語が出てこないという理由で…私は彼にとっては、用済みになります。
「ねえ、ヒンレック。私は私なりに頑張ったけれど、これが最後でしょうから、泣き言を言わせてね。あなたのことは、最初から大好きでした。意地悪になってしまうほど、私はあなたに夢中だったのよ…。あなたがここにいてくれたら。もう一度言うわ。あなたがここにいてくれたなら! 私はあなたに謝りたい…」
 オグラマール姫はつかの間の、浅い眠りにおちた。
 ヒンレックは泣いていた。頭が痛くなるほど、声を立てずに泣いてしまうと、「今すぐにでも斧を見つけねば…!」と彼は慟哭した。

 そこは、水晶玉の『影の目』と『影の耳』が入れない場所だった。
 竜を滅ぼす斧のある場所への通路はすぐに見つかった。城の玄関の大広間の右奥の床に、こぶし大の穴が空いていた。そこには強力な魔法の痕跡があった。その先へは、水晶玉では、見ることができなかった。おそらくスメーグの魔法が邪魔をしているのだ。…が、ここが入り口であることは間違いなかった。
 行動するときだった。

 三人は魔法の靴で城の堀を物音ひとつ立てることなくとびこえ、城の正門前へ降り立った。
 鉛で出来ていて、重たい入り口の門は、ミルペが周囲の音を消す呪文を唱えているあいだ、ヒンレックが押し開いて、蝶番ごと壊して中へ押し入った。間もなく、日は落ち、闇が世界を覆った。
 すぐにスメーグと対決するわけにはいかないので、怪しまれないよう、ヒンレックは扉を元に戻し、しっかりとはめた。
 門を入ったすぐの所は、木の床で、その前に赤い絨毯が敷かれている、その向こうが、例の大広間だ。
 ヒンレックの工作が終わると、水晶でみた大広間へと、三人は足を踏み入れた。
 エイデルが先に立って、手鏡をかかげて、銀の光を反射した。彼は目をつぶっていた。その後ろのヒンレックが彼の背中に隠れて行き先を誘導した。ミルペはさらに、その後ろに続いていた。
 ようやく右奥の鏡のない一隅にたどりつき、三人は座り込んだ。
 ヒンレックは例の穴に指をかけてひっぱり、人ひとりが通れる隠し階段を見つけた。

 階段は長かった。
 列の一番後ろに立ったミルペが、水晶玉から光を投げかけたおかげで、足元を踏み外す恐れはなかった。
 ヒンレックは苛立つ自分をいさめた。こんなに長くては夜が明けてしまうのではないか、スメーグから姫を取り戻せなくなるのでは、と心配でたまらなかった。
 焦りで気がどうにかなりそうな時間がどれだけ続いたか分からず、後ろに続いているエイデルとミルペがだいぶ遅れたとき、急に道は平らになった。
 階段の先は、ごつごつした岩場だった。妙につるつるしていた。
 そこからも一本道だったが、すぐに天井が高くなり、見上げるほどで、そうすると、岩が上から垂れ下がっているのが分かった。巨大な鍾乳洞だった。ヒカリゴケが生えているらしく、薄暗がりではあったが、巨大な天井全体が光っているおかげで、水晶を使わずに先へ進むことができた。
 道は細く、気がつくと、地底湖の真ん中を渡っていた。
 歩きながら、ミルペが手を握ってきたので、エイデルは驚いて彼女を見た。彼女は震えていた。

 地底湖の真ん中は丸くなっており、そこに銅の台座が積まれていた。台座の中心からはまっすぐに伸びた杭があり、それが巨大な斧を支えていた。
 彼らがたどってきた道は、台座の反対側へつながり、真向かいの岸辺まで伸びてはいるが、すぐ壁にはばまれ、行き止まりになっている。左右を見回してみると、この台座は地底湖のちょうど真ん中にあるようだった。
「これは珍しい。竜を倒す斧に用事かな」
 斧の前には、トロン村の村長ほどではないにせよ、子供のような、小さな老人があぐらをかいていた。長く伸びた白い髭を、幾重にも体に巻きつけている。
「もしそうであるなら、名乗りなさい。間違ってここへ来たのなら、戻ることだ」
 ヒンレックがすぐに前へ出た。
「はじめまして。私は勇士のひとり、ヒンレックです。ラーガー城に住むスメーグという竜を倒すため、その斧が必要なのです。私は名乗りました。あなたはどなたでしょう」
 老人は頷いた。
「わしは、この斧の精霊バズルという。お見知りおきおかれよ。
「わしはな、魔法を失っておる。というのも、千年の間、失望したからじゃ。誰も千年の間、わしを求めなかった。ただのお話じゃろうと…。ファンタージェンにあっても、夢や希望を否定する心は、次第に気高い魔法をむしばむのだよ…。残念だが。ヒンレックよ、来るのが遅すぎた。わしの力は枯れ果てている」

 ヒンレックはあきらめなかった。
「バズルよ。御身の力を取り戻す方法はないのだろうか。私は勇士として、そのためならどんなことでもいたしましょう」
 ミルペは怖くなり、エイデルにしがみつくほどだった。
「わしがもう一度、奮い立つには、勇士の心、勇士の証が必要だ…」バズルは静かに言った。
「力比べなどではない。わしの前で勇士が最大の恐怖に打ち勝った時、魔法は戻るかも知れん、という話だ。
「さて、ヒンレックよ。そなたはバスチアンに涙の湖ムーフーで泳ぎを競うことを誘われたな…。そなたはムーフーの水があらゆるものを溶かすことを知っていて、それを拒否した。
「今、また同じ試錬がそなたに課せられるのじゃ…。この地底湖の水もまた、あらゆるものを溶かすのだ。さて、そなたがここから岸辺まで泳ぐのなら、わしは力を取りもどせるじゃろうが、それができるかな」
 エイデルが飛び出して言った。
「ヒンレック様にはもっと大事なお仕事が…」
 バズルは激昂した。
「ひかえよ! 宿屋の息子。お前は勇士ではない。これはヒンレックの問題だ!」
 エイデルはへたり込んだ。

 ヒンレックは皆に背を向けて、湖を眺めていた。誰にもその表情は分からなかった。
 彼は、バスチアンに、さあ行こう、と誘われたときのことを思い出していた。最初は恐怖で青くなり、次にそれを隠すために怒り狂ったっけ…。
 にっこり笑って、彼は皆に向き直った。
「私は泳ぎましょう、バズルよ。今ここで、誰かが正義の火を灯し直さねばなりますまい。あなたは千年、耐えたのだから、報われるべきです。
「私はこの追跡の旅で、ファンタージェンの正義が行われるのを見ました‥。また、自分でも、それを幾つか行ってきたと思います。そのたびに、私は生き返るような気持ちでした! あなたが望んでいるのも、このファンタージェンに必要なものも、きっとそれなのです。
「いつだったか、私はこう思ったものです。正義の火を灯し続けるため、薪のひとつでありたいと」
 ヒンレックはエイデルを見た。
「ありがとう。君に会えて、本当に良かった。君は一番の親友だ」
 エイデルは声を立てず、両手を握りしめて泣き始めた。
「ミルペも、ありがとう。あとのことは、アマルガンドへ行き、次の勇士を探して下さい。ヒクリオンたちがいればいいのだが。彼らは多分、バスチアンについて行ったかも。たが、大丈夫。ここはファンタージェンです! 必ずや正義の勇士は見つかるでしょう。よろしくお願いしますよ…」
 ミルペは青い顔をし、エイデルにすがりついたままで頷いた。
 
 老人は疑わしそうな目で彼らを見ていた。
 ヒンレックは、笑って、跳躍した。
 彼には水泳の師匠もいたから、まったく、胸のすくような、見事な飛び込みだった。手をまっすぐ頭の上で伸ばしてそろえ、顎を胸にひいて。
 ほとんど水しぶきは、上がらなかった。

 彼は両腕を広げて水をかき分け、まっすぐにそろえた足で水を打つと、水面にチョウのように躍り出た。
 エイデルは何も見逃すまいと、必死に目を見開いた。ヒンレックの髪や皮膚から白い煙が立ち昇って、たちまち後ろへなびいていた。皮膚がところどころめくれて、血が流れた。彼の跳躍は強力で、水の上で跳ねているようだったが、次にまた躍り出るとその衝撃で、身につけていた鎧が粉々になった。
 ミルペは、次にはヒンレックがズタズタになるのが心に浮かび上がり、目を閉じた。エイデルは胸が張り裂けそうだったが、目をそらしはしなかった。
「見事だ」
 バズルの声がしたが、振り返ると老人の姿はなかった。
 慌ててヒンレックの方に向き直ると、ちょうどヒンレックが沈むところだった。
 それきり、何の音もしなかった。

 エイデルは何も考えず、衝動にかられて飛び込もうとした。ミルペは、必死になって彼にしがみついた。
「お願いだから、行かないで! この世界で心から信じられるのは、あなたしかいない! 私は千年も苦痛を、不信と、あざけりと、排斥を受けてきたの。あなたがいなかったら、私は生きていけない」
 ミルペが泣き出すと、エイデルは我に返った。人を泣かせたのは、これが初めてだった。申し訳ない気持ちでいっぱいになるのと、ヒンレックを助けにいけないことで、彼は気が狂いそうだと思った。

 突如、湖全体が金色に輝いた。

 エイデルが怯えるミルペを抱き寄せている間に、湖は逆巻き、渦になった。渦は勢いを増し、やがて水流の早さで水がよけて、底が見えてくると、ついに傷を負って、横たわっているヒンレックが現れた。
「勇士ヒンレックよ。そなたの言うところの、『薪』は見事に放り込まれた! 我の心は、この世に生まれ出た時のように燃え盛っている! 正義を信じる心は示されたのだ。感謝するぞ…。そなたの心は真であった」
 声が響くと、逆巻く水の中から立派な黄金の鎧をつけた、筋肉質の勇士が現れた。
「我の流した千年の涙は、そなたによって報われた。ゆえに、哀しみの涙がつけた傷も、また報われる。そなたは癒やされるのだ!
「我はバズル。竜を滅ぼす斧の名である。勇士ヒンレック、そなたは奇跡を起こしたのだ」
 湖の水が干上がると同時に、恐ろしい傷を負ったヒンレックは目を覚まし、体を起こすのと、全身に負った傷が消えるのはほぼ、同時だった。

 本来の姿を取り戻したバズルが右手を差し上げて、手を開くと、そこに台座に収まっていた、巨大な斧が飛び込んできた。
 バズルはヒンレックの前に膝をつき、深く頭を下げ、両手で鉛の斧を差し出した。
「必要なことだったとはいえ、無慈悲な試錬を課してしまい、お詫びを申し上げます、勇士よ」
 ヒンレックは微笑んだ。
「やり直す機会を与えてくれて、ありがとう、バズル。今は、心から晴れ晴れとした気持ちだよ。私にはもう、何のわだかまりもない。ただ、正義というもののありがたみと、その厳しさに感嘆するばかりだよ」
 ヒンレックが斧を受け取ると、バズルの姿は消えた。
 鉛の斧は、勇士の手の中で黄金に変わった。
 次に、ヒンレックの手足と胴体に稲妻が駆け巡った。

 鎧を失い、下着も半分方、無くなっていたヒンレックだが、稲妻のあとには、黄金の鎧を身に着け、黄金の剣を腰に差した姿で立っていた。

「あなた様には、その心に相応しい装いが必要です」
 斧からバズルの声が響いた。
「君の魔法は強いのだねえ」ヒンレックは感心して言った。
「いいえ。私の魔法はその人物に相応しい出来事を起こすことしか出来ないのです。竜を滅ぼす決意を持ったものには、その力を。真の勇士には、その装いを。何もかも、あなた様がご自身で成し遂げられたことなのです」
 ヒンレックは黙って頷いた。
「ヒンレック様」
 干上がった湖の底まですべり降りてくると、エイデルは全速力で駆け寄り、勇士に両肩をつかむと喜びの涙を流した。
「こいつは男のくせにまったくよく泣くな」と、バズルは呆れて呟いた。「が、いい奴には違いない」

 地底湖の通路は狭いため、『七里の靴』で三人が跳躍するのは無理だった。
「今はまだ、夜中です。帰りが上り坂ということを考えても、夜明けまでには、十分、戻れるでしょう」
 魔法であたりを探っていたミルペは、目を開けると言った。
「それなら!」珍しく、エイデルがきっぱりとした声で言ったので、ヒンレックは驚いた。
「必要なものはそろいましたが、朝ご飯がまだです!
「私がこんなみっともない格好をしているのは、こんな時のためです、さあ、座って! さあさあ、ご飯の時間ですよ!」
「何を言っているんです、こいつは?」斧のバズルは、呆れた声を出した。「気でも違ったのか?」
 エイデルはバズルの尊大な声も気にすることなく、支度を始めた。
 腰に幾つもぶら下げている袋には、小さなカップが人数分入っていたし、ラーホー村の紅茶の葉の包みもある。火打ち石も入っていた。それに、『七里の靴』を使う前、野営地のそばの川で入れておいた新鮮な水も、革袋の中で手つかずだった。
 火をつけるものがないので、腰に巻いたロープを三分の一、小型のナイフで切り取り、焚付にした。
 トロンの村で分けてもらっていた干しブドウ、ひとかたまりの干し肉を炙り、三人は分け合って食べた。お茶を飲み干してしまうと、胃袋が温まり、三人はしみじみとため息をついた。
「全部終わったら、うちの宿にいつまでも泊まるといいよ」エイデルがミルペに言った。
「千年も一人だったんだから、心が癒えるには時間がかかるだろう…。もし居候になるのに気がひけるなら、時々仕事を手伝ってもらえればいいんだよ」
 彼は残りのロープで、ヒンレックの腰に斧をぶら下げながら言った。
「彼の作る料理はうまいよ」ヒンレックは頷いた。「いつか必ず元気が出る時がくる。エイデルといっしょなら、希望を失うなんて愚かなことだと分かるだろう。彼について行きたまえ。きっと幸せになれるさ」
 ミルペはほんのり赤くなった。エイデルを見たが、彼は後片付けに熱心だった。

 休憩すると、頭が回り、良い知恵が出た。上り坂で消耗して竜と対決するのはあまりにも不利だ。エイデルはまず彼女をおぶさると、その状態で跳躍した。
 あまり大きく飛ぶとぶつかりそうだったので、慎重に足を運んだ。
 結局、エイデルはヒンレックもおぶさって運び、彼らはあっという間に地下を脱出することができた。
 ラーガー城には鏡があっても、窓はない。それでも夜中の気配があった。
 三人は大広間の隅に腰を落ち着け、朝がくるまで寝入った。

 城が揺れていた。
 エイデルがまず目を覚まし、ヒンレックを、次にミルペを起こした。
 どこかでものすごく重たいものが揺れていた。
 ミルペは水晶玉を持ち出すと、一瞥して、すぐに走り出した。
 玄関から大広間を真っ直ぐに突っ切ると、しばらく赤い絨毯をしきつめた廊下が続く。
 ミルペは広間の奥からその通路へ走り込んだ。すぐに突き当りに特に大きな鏡が壁に取り付けられているのが見えてきた。
「ここが入り口です」
「剣をお使いください」バズルが言った。「その剣はまやかしの魔法を打ち砕く、あなたの心そのもの、まことの剣でございます」
 こうして、ヒンレックは長い間、勇士たちをだまし討ちし、多くの女を幽閉してきた鏡を壊しにかかったのだ。

   *    *   *  

 スメーグは泣き叫んでいた。
 醜い龍はテーブルを蹴り飛ばし、ベッドを持ち上げて投げつけた。
 ヒンレックは剣を持っていない左手でそれらを優しく受け止め、そっと床におろした。子供が投げつけるお手玉をつかまえておもちゃ箱に戻しているような動作だった。
 魔法の靴を履いているエイデルがつむじ風を起こして鏡の出入り口だったところに現れた。若き語り部はオグラマール姫を抱えていた。彼は恭しく腰をかがめ、勇士のうしろへ下がった。そこには魔法使いであり、賢者のミルペがいた。ヒンレックは、姫を二人に任せておけば安心だった。
 ヒンレックはすっかり石になった愛しい人を横目で見た。欠けたところはあるが、完全に折れてしまったところがないのを確かめると、息を深くはいた。
 破壊した入り口から、外の光が流れ込んでいた。
 せまくるしい虚飾の風景の中に、光が飛び散っていた。
 最後に部屋の形をしていたものは粉々になって四方に飛び散った。
 『鏡の裏』は滅んだ。
 今、彼らがいるのは、鏡の表の世界。オグラマール姫が幽閉されていた部屋と、左右が逆なことを除けば、瓜二つだった。
 元は暖炉だったところにやせ細った骸骨の山があった。
 さらわれてきた女性たちの哀れな結末だった。ヒンレックがその光景に眼を細めているのに気がつくと、スメーグは死者の山を背中にかばって、大きな羽を部屋いっぱいに広げて吠えた。
〈誰にも渡しはしないぞ。彼女たちはわたしのものだ〉
 スメーグは白い手を前に伸ばした。
〈返せ! オグラマールはわたしのものだ〉
 勇士ヒンレックは剣を柄に戻すと、黄金の斧を腰から外した。
 一閃!
 両腕で振りかぶると、ヒンレックの斧の一撃はスメーグの寸足らずの魔法の右手と、右の羽を突き破り、その後ろの城の壁を、木っ端微塵に吹き飛ばした。
 スメーグはよろめき、左前に倒れた。
 壊れた壁からは、城の裏手が見えた。
 大昔、立派な都市だったヴォドガバイの残骸だった。
 あちこちに立っている樹木に似た建造物は、石にされた人たちでこしらえた、嘆きのシンボルだった。
 両手を組み合わせて助けを願う人々、両腕を振り回して逃げ出した人々、スメーグの手にとらえられ、身をよじって抗議した人々、それらの人々の像が無理矢理固められ、そこかしこに隣接していた。
  頭上には黒雲が低く漂い、風すら吹かなかった。

〈こんなことはあり得ない〉スメーグは何とか身体を起こすと、氷の炎を吐き始めた。
 ヒンレックは左手で剣を抜いた。スメーグの炎を素早くよけ、風のように走って相手の脇腹に近づくと剣を突き立て、すぐ引き抜くと離れ、すきを見てはまた攻撃した。
 スメーグは血のない生き物だった。傷口はすぐふさがり、背後から猛毒を持つさそりの尻尾が勇士に向かってきた。ヒンレックは身体を低くしてかわし、動きを止めないで走り込むと、呪われた尻尾を根元から切り落とした。
 そのまま怪物の背中から肩に駆け上がると、スメーグの弱点である二つの頭の生えた目を切り落とそうとしたが、剣は頭に当たるとすさまじい音を立てて、後ろに跳ね返った。
 振り向いた醜悪な頭は、二つともにやりと笑った。
 スメーグの白い手が向かってきたのでヒンレックは肩から飛び降りて、ふたたび距離をとった。
〈なぜ何もかも知っているのだ。どうしてその斧が輝きを取り戻したのだ。…お前は、賢者のミルペではないか! いったい、誰がどうやって呪いを解いたのだ?〉
 スメーグは喘いだ。
「私は勇士ヒンレック。お前を滅ぼしにきた者だ」ヒンレックは言った。

 スメーグは目を見開いた。すべてがはっきり見えていた。これから、何が起こるのか分かったのだ。
 物語が始まる時、誰もが目を見開く。
 スメーグにとって、始まりとはあやまちの終わりだった。ようやくスメーグは、本当のスメーグに戻るのだ。だが…
 自分自身しか信じられないスメーグは、ヒンレックの話に耳を傾けずに襲いかかっていった。
 勇士は正面から挑み、地面を強く蹴って宙に浮いた。
 ヒンレックはスメーグの顔の前に突き出たワニのような口の上に立っていた。怪物の眼にあたるところに盛り上がっている小さな頭に狙いをつけた。その呪われた二つの頭を、唯一切り落とすことのできる斧を彼は大きく振りかぶった。
「人間の子よ。こんなものがあるから、悪いのだ…。できるなら、楽しい冒険をしてほしかった。私たちファンタージェンの者は、君を待っていたのだから。君は私達が欲しいものをくれたのだから…」
 勇士は斧を左右に振り回し、スメーグのふくれあがった〈のぞみ〉を切り落とした。人間の男の子は、ふくれあがった〈のぞみ〉を通してでしか、世界を見ることも考えることもできなかったのだ。

 スメーグは〈のぞみ〉を切り取られると、がっくりと前につんのめって倒れて、起き上がらなかった。

 竜の体は空気に溶け、ラーガー城の三重の堀に埋まっていた恐ろしいものはそれぞれ干上がって消えた。  
 ヴォドガバイの石化した森は、すがすがしい風が吹き抜ける本物の森になった。

 そして、白い大地から、呪いを解かれた人々が一人ずつ起き上がり、あとから来る者に手を貸した。やがて彼らは、ラーガー城…今ではくずれかかっているレンガの城としか見えない場所に立っている、黄金の鎧を着た勇士を指差し始めた。 
 
 体の真ん中に入っていたひびが亀裂になり、粉々に砕けると、下から生身のオグラマール姫があらわれた。
 ミルペが自分のマントで彼女をくるみ、介抱した。
 
 冷たい火の国は、草原の国に生まれ変わりつつあった。
 ヒンレックは野原の真ん中に倒れている男の子を見つけ、抱き上げた。
 スメーグ・シュバイツァー・シュトラウス。
 ヒンレックは少年を抱えて、エイデルとミルペの所へ戻ると言った。
「君たちは、ここからルンの国まで、オグラマール姫を送って行ってほしい」
 エイデルはミルペと顔を見合わせた。
 ヒンレックは眠っている男の子の顔を見て言った。
「この子はきっと、自分の名前を思い出せないだろう。自分自身だと思っていた〈のぞみ〉をわたしが切り落としてしまったからね。帰り道がますます分からなくなってしまっただろう。これは私の責任だ」
 ヒンレックは首を振った。
「スメーグはアウリンに願いをかけたせいでこうなった。この世界の責任として、正義のために、私はこの子の帰り道を見つけねばならない。わたしはこの子を連れてバスチアンのあとを追ってみるよ。彼は、アウリンを持っているからね。あのバスチアンならスメーグを救えるかも知れない」
 ヒンレックが話を終えると、オグラマールが目を開けて言った。               
「とってもいい…素敵なお話ね」

 二人は草の上に腰をおろしていた。
 オグラマールの腰まであった金髪は、石になった時にすっかり壊れてしまった。
 エイデルがきれいにそろえてくれた髪を、首の付根あたりでオグラマールはもてあそんでいた。
 ヒンレックはオグラマールの短くなった髪を見て、美しさを感じながら、姫は内面も良い意味で変わられたようだ、と思った。いや、そうではなく、姫はより自分らしくなられたのだろう。この冒険を通じて、それぞれが、自分自身を取り戻すことができたのだ。
 ヒンレックはそのことを語った。今までの冒険を話した。
「この旅は、この子を元の世界に戻してあげることで、ようやくおしまいにすることができるのです」
 スメーグはオグラマールの膝の上でぐっすり眠っていた。
 彼女は男の子の頭をなでてやった。オグラマールは顔を上げるとヒンレックの目を見たまま、唇を動かした。
 すべてが終わったら、私と結婚してほしいと、姫は打ち明けた。
「分かりません」とヒンレックは正直に言った。「竜を倒せる斧に、黄金の鎧。私は、正義のために働きたいと願っています。スメーグは本当にファンタージェンで最後の竜なのでしょうか。この世界のどこか片隅で、困っている人はいないかと気になりだしたのです」
 姫は、ヒンレックの唇にそっと自分のそれを重ね合わせた。
「立派になられて、嬉しいわ。あなたが自分のなすべきことをすべて終えたと思ったら、いつかその日が来たら、ルンへ来てくれますか」
「約束します。オグラマール」ヒンレックは言って、姫を胸の中に抱きしめた。


   *    *    * 

 彼らはまず、野営地に戻って、黒馬のブリューゲルと、エイデルのロバに再会した。二匹は綱を説かれていたが、辛抱強く待っていたのだ。
 
 久しぶりにまともな食事をとったあと、彼らはぐっすり眠った。

 翌朝、エイデルとミルペは、オグラマールと共にルンの王国へ旅立った。
 が、旅の途中でオグラマールが、エイデルの料理の美味しさについてどうしても気になり、色々聞いているうち、彼がムーアの息子であることを知ったため、三人の行き先は変わってしまった。
 疲れきったお姫様と魔法使いには、共に休息が必要だった。

   *    *    * 

 エイデルがヒンレックではなく、美しい女性を二人も連れて帰ってきたので、ラーホー村のみんなは呆気にとられ、それからみんなが笑った。エイデルってやつは、まったく面白いやつだよ、と。

 オグラマールはこの一年の事情を手紙にしたため、ルンの国へ向かうサーカス団に託した。
 私は今、夢にまで見た、伝説のムーアの宿にいるのです…と姫の手紙には書いてあった。

 エイデルは勇士ヒンレックの帰りを待った。彼もまた、夢が叶ったのだ。
 『正しい物語』の中に、彼はいた。
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