転生家族の異世界紀行 ~中流家庭が異世界で大貴族になりました~

安曇野レイ

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第1章 転生の章

第4話 大勉強

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「ご主人様、ダボンの輪にかけられた魔法を壊して下さいませ!」
 アイルが私の腕にすがりついて懇願した。
「本人の意識のあるなしに関係なく、あのように構築された魔法は機能し続けます! 本人に攻撃が加えられた今、何が起こるか…」
「分かった」私は頷いた。「あんまり強力な魔法は使いたくないんだけれど、壊したり、変質させるものじゃないからいいだろう。みんな、僕の周りに集まって…」
 アイルは僕の左腕にしがみつき、萌が右腕をつかんで聞いた。
「ねえ、魔法を使ったのよね。呪文を唱えたりしたの?」
「いや。やってみて分かったんだが、ただ念じればいいんだ…。もしくは命令を紙に文字に書いたり、石に刻んだりすればいいらしい。早く、いろいろ試してみないと」
「紙や石に刻む…本当にプログラムみたいじゃない?」それから、「アイル、胸、押し付けすぎよ」
 左腕の重みが多少消えた。
 萌は何か考え込んでいるようだったが、私もそうだった。眠っている記憶がうかびあがってきて、早く解釈するための時間が欲しかった。
 が、やるべきことを先に片付けなければ。
「みんな、お屋敷まで【瞬間移動】するから集まれ…」
 子どもたちが興奮して騒ぎ出した。
 大樹は「テレポーテーション? 本当に?」桜は「すごい、すごい、すごーい!」
 とにかく、私は移動を念じた。
 私の足元を中心にして、青い光の輪が生じ、光は地面と垂直に伸び上がって円筒形の檻となり、私たちを包んだ。

 その光が砕け散った。

 一瞬で、先程まで萌の目を通して見ていた光景の中に、全員が飛び込んでいた。
 風が吹き荒れ、髪が吹き上げられた。
 私は強い魔法を感じた。磁石が反発するような感じを頭の中で感じる。正面の光景に注目した。
 土煙が晴れて、ねじ曲がった腕を身体の下にからませたような状態で、身長一五〇センチくらいの小男がこちらに脚を向けて倒れていた。
 ダボンは、ピクリとも動かなかった。
 その彼のそばには、縄のようなものがあって、かなりの長さで土地を横切っている。ダボンと私たちの間は百メートルほど離れていた。縄は私たちの左側にもある。
 私はすぐ近くに行って、見てみた。他人の魔法を知るのは良い勉強だ。良いプログラムのソースコードを読むのときっと同じくらい、ためになるはずだと私は思った。
 お札のような細長い金属片の両端にそれぞれ丸い穴が空けられており、荒縄を通して、金属片同士を結びつけているのだった。そして、金属片には小さな、十中八九、魔法の文字が書かれていた。これが、何百個あるか分からない。ひょっとしたら数千個はあるかも知れない。
 なるほどなあ。力がなくても、根気よく構築すれば、大きなことが成し遂げられるというわけだ。
 私はよく失敗するくせに、ものづくりが好きなので、そんな仕組みを発見して、純粋に感心していた。とはいえ…

 躊躇している時間はなかったので、私は自分の魔法で金属片の上に書かれた文字をすべて削り取った。願い、集中すれば、何事をなせばいいかひらめくのだった。手を振り払う動作で成し遂げた。

 金属片はバチンと音を立てて丸くなり、結びついていた縄は燃えだした。乾燥しきっていたのだろう、すぐに縄は黒っぽい灰となり、風にあおられて散っていった。
 私は手をかざし、金属片をすべて目の前に集めると圧縮して一個の丸い玉に変えた。もう、ただのくず鉄だ。地面に転がしておいても問題ない。
「お父さんすごい!」桜は日曜日の朝にやっている魔法少女のアニメが好きなので、「魔法だあ!」と、とにかく感動している。
「いいなー。やってみたい」と大樹。
 我々はのんきなことを言っていたが、アイルが深々とため息をつき、地面にしゃがみこむと両手で顔を覆った。嗚咽していた。
 そうか…やっと安心できたんだな。

 私たちのお屋敷となる建物は、輪のさらに左手にあった。
 両脇に塔が立っているので、お屋敷、というより『城館』というのにふさわしいな、と私は思った。
 塔の窓を数えると、三階建てで、ちゃんと樋があって、排水が考えられていた。私は安心した。魔法使い以外にも、論理的に物事を考えて工夫をこらし、物を作り出す職人がいることが分かったからだ。
 表面は白い石と、茶色のレンガを水平にかわりばんこに積み上げている。
 建物の正面が南向きなのか(アースーンのこの土地が、南半球なのか北半球なのかすら分からないが)、とにかく太陽の光を正面に受けているので、白い石のレンガだけだったら、きっとまぶしいほどだったろう。茶色の石をはさむことで眩さをおさえている。
 屋敷の後ろを透視した萌のによると、花壇と畑に分割されており、その向こうには平らな土地があり、林が続いている。また、裏手の真ん中には、屋根のついた井戸があった。

 四季に関係なく、美しく見える建物だろうことは疑いなかった。
 これを設計した人間は、とにかくセンスがいい、と私は思ったし、家族みんな、しばらく目を丸くしていたから、きっと私と同じ思いだったろう。
 私たちは床の冷たい、築三十五年の借家に住んでいた。これからはすきま風にぞっとしたり、朝起きて冷たい階段を降りて、暖房がきくのを待ちながら朝ごはんを食べることはないのだ。
 --きっと。

 館の正面には、左右から登る低い階段がついており、上がったところが玄関だった。その扉には見たところ…金箔が貼ってあるようだ。
 窓の数を数えると、本館のこちらも三階建てのようだが、屋根がかなり大きい。屋根裏部屋があるのは確実だ。
 屋敷の手前は、細かな砂利が幅広く敷かれている。きっと、馬車のような乗り物をとめるための工夫だろう。
「すごい…。僕たち本当にここに住めるのかな」大樹が呆気にとられてつぶやいた。

 不意に、甲冑を着た四人の人物が飛び出してきて、横たわっているダボンを蹴りつけ始めた。
「ちょっと待って! その男には聞きたいことがあるんです!」私は言った。
 甲冑の人間たちはすぐにはやめなかったので、アイルが飛び出し、一人を突き飛ばした。まったく、行動力だけはピカイチだ。
 すると、立っている別の者が、自分の甲冑の仮面を脱いだ。
 その男は痩せこけ、青白い顔をしてはいるが、目はギラギラしている。利発そうな、三十代前半とも思われるその人物はリーダー格なのだろう、口を開いた。
「アイル、お前のせいでこうなったんだぞ! それにお前たち一家は…魔族だっていうじゃないか。マリーが魔法を使ったんで、みんな分かってる。お前のジャックは、ダボンに命じられて俺たちが、お前たちの家族を庭に引き立てて行くのを見て、親父さんと一緒に戦おうとしたんだ」
「ええ、知ってる」アイルは短く答え、その男とダボンとの間に立った。「とにかく、ダボンは新しいご主人様に引き渡すわ」
「ダボンを殺させろ! お前も、もう信じられないが…十年以上の付き合いだ。見逃してやるから、とっとと、この国から出ていくんだな。ダボンのやつは許せねえ! これまでどんなことをさせられてきたか…」
「すまないが、その男が魔法使いである以上、情報を聞き出す必要があるのです」
 私はその頃には、もう二人のすぐそばに来ていた。家族には、瞬間移動してきた場所にいてもらった。
 甲冑の兜を脱いだ男は、私のことをほとんど問題にしていないようだった。私を横目で見るだけで、まだ口もきかない。
 まあ…魔法使いでなければ、魔法を感じられないというのは本当のようだ。
「ダボンを倒したのは私ですよ」そう言うと、やっと関心をもって見てもらえた。
「はじめまして。三木樹と申します。私とその家族は、スティーヴン・ジョブズに頼まれて、別世界からやってきたんです。信じられないかも知れませんが、私は魔法使いです」
 自分で言った言葉を証明するのが面倒くさかったので、私は宙に浮いてみせた。ゆっくり。十メートルほど。
 そのあと、相手も宙にうかせた。
「やめてくれ! 魔法なんぞ、大嫌いだ!」
 男は手足をバタバタさせ、最初は私を殴ろうとした。そこで、私よりさらに上に行ってもらうことにした。二十メートルほど。
「やめろ、この…くそったれ魔法使い! くそっ、この土地は呪われてるんだ! トレントの旦那が死んで、くそダボンの次にまた魔法使いか! お前らは物事をひっかきまわしてるだけじゃないか! ここから降ろさないと八つ裂きにするぞ!」
 すると、地面に残っていた三人とも、かぶとを脱ぎ捨てた。ほとんどが似たような年齢だったが、一人だけ、十代後半の若い男もいた。アイルに突き飛ばされた人物だ。そろってかぶとを私に向かって投げつけたが、私は十分用心していたので、その軌道を曲げて、本人たちの顔にはめ直してやった。そして、全員、最初の男と同じ位置に持ち上げて、自分は地上に降り立った。

 地上では、アイルが家族たちと再会を果たし、母親には平手打ちをくらっていたが、その後は抱擁されていたから、まあ…大丈夫とみていいだろう。
 屋敷の両扉の玄関が開いた。右の扉を押し出したのは、身の丈が二メートルはある筋肉隆々の大男、左には生真面目そうな顔をした二十代半ばの美男子が、ドアを支えてこちらをうかがっていた。二人とも金髪だった。
「ジャック…」
 アイルはつぶやき、その背中に透明な羽を出現させると、玄関口の階段の下まで飛んでいき、そこから婚約者を見上げて言った。
「あたし…ごめんね。魔族なんだ。でも…あなたを愛してるの」
「アイル。俺を騙してたんだな。どうしてだ」
 ジャックの声は震えていた。
「あたしの気持ち、分かるでしょ?」アイルは泣き出した。
「考える時間をくれ…」
 ジャックはうなだれた。
 絵に描いたようなメロドラマだが、ふと振り返ると萌が目をキラキラさせていた。ゴシップ好きというか野次馬根性というか。
 コックのサムは、そんな二人をしばらく見ていたが、ふと宙に浮かんでいる男たちに気づき、口をあんぐりと開けた。アイルが気づき、自分の家族と、コックの親子ともども、私の前に連れてきた。
「みんな、紹介するわね。スティーヴン・ジョブズ様が選ばれた、良き魔法使いたちのあとを継いでくれる、新しいご主人様です。お名前は…」
「みなさん、三木樹です。名前が樹なんで、そう呼んでくれたら嬉しいです」
 私は、家族を呼び寄せた。
「あの背の高い女性が家内で、占い師の萌。長男が大樹で、長女が桜といいます」
 大樹も桜も、「はじめまして」と一礼した。
 コックの親子も、アイルの家族も(ぎこちなくとはいえ)はにかんだところを見ると、この人達は、まあ大丈夫だろう。
 私は宙に浮かんでいる人間たちがわめき疲れて静かになていったので、もう頭も冷えたろうと思い、すぐに降ろして、マリーたちの後ろに立たせてやった。
 先程、一番につっかかってきた男は、まだ文句がありそうだった。
「あんたはここに何をしにきたんだ」横柄な口調で、別の甲冑の男が尋ねた。
「俺達は十日前にダボンに言われてここにきて…それっきり家に帰ることもできずにいたんだ」

 私は全員をゆっくり見回して、みんなが自分のことを見ていることを確認してから言った。
「私たちがここに来たのは、この世界を幸せにするためですよ」と。
 みんな、ポカンとした。
 仕方ない。とはいえ、ここに来るまでも、ずっと考えていたことだった。実は、地球にいた時から、ずっと考えていたことでもあった。

 ブラック企業で六次請けの下っ端仕事を続けていて、あのまま休暇をとらなかったら、本当に死んでいたかも知れない。働くことの意味を考え直していた時期だったのだ。

「スティーブンさんたち、良き魔法使いは、そうでない魔法使いたちに裏をかかれて、この世界から追放され、世界の狭間で漂っていました。そこで、後継者を別の世界から選んだと聞いています。それが私です。さきほど、あなた達を縛り付けていた魔法は破壊しました。正義の名において。私利私欲のためじゃありません」
 すると、眉間にシワを寄せて私をにらんでいた男が、いきなり地面にへたりこんだ。
「すると…俺達は自由ってことか」肩が小刻みに震えている。
「家に帰れるんだな…?」と別の男。
「見返りを寄越せっていうんじゃあないだろな…?」若い男が握りこぶしを固める。
 私は甲冑の男たちをゆっくり見渡し、少しためてから、「全員自由です!」と叫んだ。「甲冑のみなさんは解散です! ご自宅へ帰って構いません!」
 歓喜の声があがり、甲冑姿の連中は全員、中庭を入って右手にある詰め所へ走り込んでいった。二人、腰の曲がった老人が加わり、「家へ帰れるんだぞ!」「自由になったんだよ」と仲間同士で言い合っている。
「とてもいい気分だけど、コックの、サムさん…と呼んでいいですか」
 私は身長が一七五センチ。ふだん、あまり自分より大きな人を見上げることはないので、おっかなびっくりだった。だが、この中で一番ショックを受けず、平静を保っていて、常識もありそうな人物だったので声をかけてみる気になったのだ。
「ええ。サムで結構ですよ」彼はにっこり笑った。「あんたが魔法使いで、トレント様のような方なら大歓迎だ」
 気のいい性格で、すぐピンときた。サムとはうまくやっていけそうだ。多分、親友になるんじゃないか。
 ちょっと話しただけで、ピンとくる人って世の中にはいるものだ。滅多にないことだけに、この出会いは嬉しかった。
「それで、お願いがあるんだけど。我々、この世界にきてから…」
 コック長は、ウインクした。
「言いたいことは分かってる。コックの前でそんな顔をするんじゃないよ。腹ペコなんだろ? どうぞ屋敷に入って、食卓についてくれ、案内する」
 そこで我々は甲冑の男たちと別れ、サムとジャックのあとに続き、階段を上がり、扉をくぐった。

 目の前には赤い絨毯がしきつめられ、二階へつづく曲がり階段が左右についている。
 玄関を入ったところはホールになっていた。
「正面を通ると、食堂だ」サムはどんどん先へ行く。「ちいっと時間がかかるが、料理の味は保証する」
「ありがとう。よろしく頼みます。できれば先に全員に水をもらいたいんだが…」
 アイルがまたすぐそばにきて、私の腕を自分の胸におしつけた。
「ご主人様、お待ち下さい」彼女はにっこり笑い、手を離すとすぐ奥の厨房へ歩いていった。双子の妹たちも笑いかけながら後へ続く。
 萌が言った。「あの子、本当にあなたのことを父親みたいに思ってるみたいねえ。さびしかったのね」
「そうか…なるほどね」
「ちょっと天衣無縫に過ぎるところがあるけど、あんな子供に手をだすんじゃないわよ?」
 私はにらまれたが、肩をすくめるしかなかった。
 大樹と桜は手をつなぎ、見るものすべてに目をみはりながら歩いている。
 いつの間にかアイルたちの母であるマリーが私の左耳の直ぐ側に唇を寄せて、いきなりこう言ったので飛び上がりそうになった。
「お目にかかれて光栄です。遠路はるばる、ようこそお出でくださいました」
「いや、こちらこそ。突然の訪問で驚かれたでしょう」
 マリーはしばらく私を見て、ほっとため息をもらした。
「来てくださって、本当に良かったのです…。ダボンはバスターズですから。ああ、つまり、出来損ないの魔法使いのことをそう呼んでおります」
「その言い方だと、バスターズというのは…」
「ええ、たいていはうまく魔法を使えないために、忌み嫌われ、性格が歪んでしまっている者が多いのです」
 マリーに案内され、私たち一家は奥へと進み、別の部屋に入った。
 そこにはよく磨かれた、分厚くて長いテーブルが置かれていた。
 アイルたちは、壁に備えられたランプを開け、暖炉から取り出してきた火かき棒のようなものの先に火をつけ、中のロウソクに火を灯している。ロウの焦げる匂いが漂ってくる。
 壁紙は緋色だった。暖かい雰囲気が目の前に現れて、私たち一家は全員がホッとした。子どもたちが感嘆の声をあげ、屋敷の人たちは微笑んでいた。
 奥の壁には、マントルピースを備え付けた暖炉もあり、今しがた火が灯されたところだった。
 そう寒くはないが、時期は春先のように感じられた。館の周りの樹木はこれから枝葉を伸ばそうとしているようだったし、色も萌黄色が目立った(実際、正しいと後で分かった)。
 家の中に入ると、ちょっと寒かった。
 マリーにすすめられ、私は一番奥の上座に座った。右側の近い席から、萌と桜が座り、左側には大樹が座った。食事やお茶の時間には、いつもこの席順になった。
 マリーが大樹の隣に腰かけて、真剣な顔で言った。
「それではあらためまして…。イツキ様、ダボンはいかがしましょう…」
「さっき彼を見て分かったんですが、本当に彼の魔法の力は微々たるものですね?」
 マリーはかぶりをふった。
「この世界に魔法使いはほとんどいません。そのため、子供の時にその兆しを見せるものが現れると、町をあげてその者を保護しようとします。汚れた水をろ過したり、病気の元を払ったり、永遠に動く仕掛けを作ったり、盗賊や猛獣から町を救うことができる…。それが魔法使いに期待されることです」
 アイルが妹たちと一緒に、陶器で出来た水差しとガラスのコップを盆にのせて運んできた。
 家族全員、三杯はおかわりをした。
 マリーは私が人心地がついたのを見計らって、話を続けた。
「魔法使いの中には、稀に出来損ないの才能しか持たない者が生まれます。その者たちは国や町の期待を裏切った者として、嫌われ者となる運命にあります。昔はそれほど数は多くなかったのですが…。この十年ほどは数が増えているような気がいたします」
「理由は見当がついているようですが」私は言った。
 マリーはしばらく黙り込んだ。
「念の為、確認させて頂きたいのですが」何か、固い覚悟を決めているような口調だった。
 私は頷いた。
「私たち一家のことをどうお思いですか。魔族と分かっても、本当にこの家において頂けるのでしょうか」
 私は自分の家族を見回した。みんな、頷いた。
「…というわけです。正直なところ、当面は魔族とか、どうでもいいと思っています。私たちには、この世界で出来ることがあるのか、しばらくは勉強したり、考える時間が必要です。僕らの方こそ、本当にここに住まわせてもらっていいのか、正直まだ信じられない気持ちなんです」
「それはもう…」
 マリーが言いかけた時、奥からいい匂いがしてきた。そしてメイドたちが新しくお盆を下げて登場した。
 見たところ、フィッシュ&チップスに近いものだった。揚げたてで湯気をあげている細い魚のフライに、マッシュポテトの付け合せで、それぞれにバターの入った皿がそえられた。飲み物は、と聞かれたが、誰も酒が飲めないので、お茶をもらえれば嬉しい、と答えた。すぐに紅茶のポットが登場した。ミルクと砂糖の壺もある。
 後で思えば、こうした当たり前の食事のことを、もっと疑って良かったのだと思う。どうして私たちの世界と、それほど差異がないのか。
 だが空腹時には、まったくもって些細な問題だった。
 私たちはフォークを使って、食事をした。マリーとサムは並んで席につき、いろいろなことを話してくれた。
 ジャックには、ダボンを東側の塔(と、ここでは呼ばれている)の客間に寝かせてもらうことにした。
「彼は死ぬことはないだろうが、苦しんでいるだろう」
 おなかが重くなってくると、私は言った。
「ひどいことをし続けてきたようだから、ちょっと我慢してもらおう。治すなら一瞬で済んでしまうからね。手当だけはしてもらいたいのだけど…」
「私がやっておきましょう」
 マリーが立ち上がった。
「娘たちには嫌な仕事ですから」そうして、彼女は立ち去った。
「で、どうするつもりなんだい」とサムが明るい調子で言った。
「紙が欲しいんです。できるだけたくさん」
「ほう?」
「頭の中に大量の記憶がつまっている。魔法のこともこの世界の歴史も。全部書きだして、何ができるのか検討しないといけない。ここでは、紙は高価なものでしょうか?」
「いや、トレントの旦那も物書きでね。ダボンもそうだったが…。紙なら一万枚は在庫がある」
「一本の木からは、一万三千枚のA4用紙が作られるって、学校の校外学習で聞いたことがあるよ。森林公園に行った時だけど」大樹が言った。
「物知りだな、タイジュといったか。そうだ、そのくらいは…とれるな」
 大樹は誇らしげに微笑んだ。彼もサムが気に入ったらしい。
「食事が済んだら、子どもたちを休ませたいので、部屋をあてがいたいんだけど、どうだろう」
「本館には、寝室が十二部屋あるよ。東側と西側には各階にひとつずつなので、全部で六つだ。合計十八部屋。本館の一階は、俺と息子、マリーの部屋がある。二階の中央にアイルと双子の部屋が並んでいて、客人たちはその両翼に泊まる。三階にはトレントの旦那の寝室と、書斎、他にベッドのある部屋が三つある。寝室には、ダブルベッドを屋根裏からおろしてくるよ。子どもたちはどうする? 一緒のほうがいいか?」
 桜が、おにいちゃんと一緒がいいと言いはったので、そうすることにした。
 手伝うと言ったのだが、今くらいは休んでおいてくれ、ダボンを片付けてくれたんだから、その分、お返しがしたいと言う。
 部屋の準備ができるまで、私たち家族は食堂に残された。

「お父さん」と大樹が言った。「僕ら、ひどい目にあったけど、結果的には良かったのかな」
 すぐには返事ができなかった。
「もう、学校の友達には会えないし、勉強もできないんだね…。映画も見れないし、マクドナルドも行けないし、ネットもないんだね」
「ユーチューブもないのかー…。音楽が聞けないのは、ちょっと寂しいな」と桜。
「でも、お母さんは今が一番嬉しいかも」と萌。
「お父さんが頑張って、この世界が良くなることを考えたり、何か良いことをすればいいんでしょう」萌は嬉しそうだった。
「言われるままに…お金のために身を削って、ちゃんと寝ることもできず、土日も出勤して仕事をして。あたしは、あなたがいつ倒れるんじゃないかと心配だったし、いつも暗い顔をしていたから、精神衛生上、とても良くなかったのよ? それが今は、『世界のために』『みんなのために』『正義のために』働くんでしょう? しかも、応援してくれる人たちが、ええと…この家だけで、もう六人もいるでしょう。こんなに心が晴れ上がったような気持ち、初めてで、くすぐったい気分よ」
「お父さん、頑張って勉強してね」と大樹。「僕も困っている人がいたら力になってあげたい」
「あたしも。正義の味方、させてねっ」と桜。

 その晩、私は書斎にこもり、羽ペンの使い心地を試していた。
 そして、静かな晩だな、と思った。こんなに静かな夜は、出稼ぎで、長野県に行っていた時以来だ。
 就職氷河期時代、地元では就職ができなかった私は、請負業で工場勤務の仕事で、住むところも、交通費もすべて負担してくれるという会社の面談を受けた。
 小学生の漢字テストと、算数の計算問題を解くだけで面談は終了。
 次の週には、高速バスで長野につき、何もない社宅の部屋でひとりっきりだった。
 それから一年、パソコン関係の資格勉強を、その静かな土地の静かな部屋で、たった一人きりで続けたのだった。結果的に、一年で資格は二十個取得でき、私は地元に戻って就職することができた。そのすぐ後、萌に出会ったんだ…。
 書き物机は、これまた幅の広い、立派なもので、両側に三段の引き戸がついている。
 革張りの椅子から立ち上がると、建物の裏が見える窓へ近寄った。
 もう夜で、何も見えない…と思ったが、星の明かりがやけに明るい。
 天の川だった。ここでは何というのか分からないが、天の川だ。
 空全体が、ここからは銀色にボウっと光っている。
 しばらく、私は異世界にいる、ということをかみしめていた。見覚えのある星座など、どこにもなかった。きっとカシオペアも、北斗七星も見えない(事実、そうだった)。
 これからどうするか…。私一人だけで、今よりずっと若かったら、絶望していたかも知れない。
 でも家族がいて、世界のため、正しいことのために何かできると思うと、勇気が出るのだった。
 私は椅子に座り直し、ペンを握り直した。

 その晩はかなり遅くまで起きていたが、不意にアイルが部屋に入ってきた。気がついたらいた、と言っていいかも知れない。
「どうしたの?」私はずっと書いていたので、顔をおこすと目がかすんだ。目頭を軽くおさえてマッサージした。
「樹様。どうか、ここにいて下さいね。私たちのこと、まだすべてをお話することはできませんが…」
「そのことね。今も書いていたんだけど。魔族と人間の間に、子供は生まれる。その子が魔法使いになるんじゃないか? すべての子がそうなるのではなく、『出来損ない』が生まれるのは、魔族の血が薄くなってきているんじゃないか?」
 アイルは微笑んだ。少し寂しそうだった。「魔法なんて…本当はなかったほうが良かった…。そんなふうに思うこともあります。私がジャックと結婚したら、どんな子が生まれるんでしょう」
 彼女は一礼して、「おやすみなさいませ」というと、ドアを開けて出ていった。

 萌が寝ているベッドにもぐりこむと、「勉強は、はかどった?」と眠たそうな声で彼女は言った。
「そこそこね。しばらくは、勉強漬けだよ」
 布団は驚くほど軽く、暖かだった。
「あなたの良いところはね、結婚してから今までずっとそうだったし、これからもそうだと思ってる…まるで専門外のことでも、何でもかんでも必要なら、とにかく勉強してきたことよ。そして、行動にうつすんだわ」萌は言った。「おやすみなさい」
「ああ…おやすみ」
 その後、私は夢を見ずに朝までぐっすり眠った。人生で一番上等な布団に包まれ、少なくとも税金や住宅ローンの苦しさからは開放されたのだということを、繰り返し、繰り返し、胸の中でかみしめていた。そして、子どもたちのため、この異世界で何ができるだろうかということが繰り返し、頭の中をよぎるのだった。
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