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第3章 危機の章

第3話 裏庭

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 手術で麻酔を受けた人なら分かると思うけれど、私は水の中から飛び出すように、急に意識が『覚醒』した。
 エメット・ブラウンの変身は解除されており、私は、私自身に戻っていた。

 変身中は慣れない身体なので、自分の身体ならこう動く、という思い込みが通用しなかった。常にバランスをとる必要があったが、今は自分の呼吸音が聞こえるほど静かで…まったくおかしなことに、とても落ち着いていた。裏切られたことによる苦い思いも、どうした訳か感じられなかった。

 直前の記憶と痛みはまったく鮮明に覚えている。
 矢の先が胸の奥と左肩にあり、それを拒絶したい気持ちで気が狂いそうだった。『良き魔法使い』たちの力による自動修復も追いつかない。間に合わない。全身が痛みのショックで硬直して震えていた。胸の奥からこみ上げてくる血潮が鼻と口からあふれ出し、空気の代わりに血で肺がいっぱいになり息が出来ないという恐怖…。

「さて、それで気がすみました?」
 メアリーのよくとおる声がした。そして、本がパタンと閉じる音。
 ああ、私は失敗したのだと…その音を聞いてすべてを悟った。

 目を開けると見えるのは…白く光り輝く天井だった。私は、天井と同じく、輝く床にそのまま寝かされていた。
 床と天井、それに加えて壁までもが、何の装飾もなく、継ぎ目もない。
 ただ、周囲に目を配ると、わずかに青白い直線が見えた。それで、白く輝く壁に取り囲まれた、立方体の中にいるのだと分かった。出入口は見当たらなかった。

 起き上がりかかると、床は動いた。
 私の背中を支えるように、持ち上げるように、なめらかに動いたのだ。
 その時、床から切り離されるような妙な感覚があった。
 私がつま先を床下につけようと伸ばすと、床は私を解放した。軽い音を立てて、私は着地した。
 自分の身体を見下ろしてみると、大開拓会議を終えて飛び出した時の服装のまま。黒革のコートに茶色の革靴、灰色のスラックスに白いシャツを着ている。
「私が人間にうんざりしているのが、これで分かったでしょう? いつも、裏切られる」
 メアリーは後ろ手に自分の体重を支えて軽く回転すると、見事な曲線美を描いている両足をそろえて、座っていたソファに似た形の椅子を軽い身のこなしで飛び越え、床に降りた。本が一冊、椅子の上に置かれたままになっている。薄い水色のワンピースを着ていた。裾は膝が隠れる程度。彼女は裸足だった。
 
 メアリー・スタウトは相変わらず…力に満ちていた。だが前とは違って、その力に対する恐れはだいぶ減っていた。力の背景について、だいぶ教えてもらっていたから。これは、人間が作り出したコンピューティングが達成した結果なのだ。

「この、白く輝いているもの…。あなたが北極で見せてくれたものに似ていますが…」
 メアリーは嬉しそうに笑った。
「ええ。まさしく同じものです」
 どうしてそんなに嬉しそうに笑うのだろう? と私は思った…。

   *   *   *

 メアリーが私たちの屋敷にやって来て、私に同行するかと尋ねたあと、私たちは共に連れ立って、心配そうな萌やアイルたちを玄関先に残し、北極を目指した。私たちは屋敷の裏側を乗り越えると、どんどんスピードを上げていった。
 最初、わたしが恐る恐る飛んでいると、メアリーは振り返って近づき、私の手首を唐突につかんだ。
 すると、空を飛ぶためのテクニックが直接、脳の中にインプットされた。
 ほとんど一瞬のことで、何の感覚もなかった。痛みも、ほんの少しの痒みすらもなかった。
「飛翔コードをそなたの脳にダウンロードさせた」
 この時のメアリーの口調は、まだ尊大だった。
「これで我らと同じように飛べるはず。ついてこい。遅れるでないぞ」

 私は伝えられたコードとやらを記憶から引っ張りだした。何のことはなかった。

 地球上の経緯度の値を、言葉から検索できる合言葉。
 経緯度を引数にして、自分もしくは目的のモノを運ぶための合言葉。
 この二つだけだった。

「暗き夜に我らを見守る月とアースーンの三木樹の名において命じる、北極点の経緯度をパレットに示せ」
 私の目の前に青く光る『パレット』が表示された。これは魔法ネットワークに直接通じている、いわばシステムのコントロールパネルだ。ただし六インチのタブレットほどの大きさだ。私がアクセスできる情報は少ない、ということだった。
 パレットの中に十六桁の経度と緯度が示された。
「続けて…現在の私の位置を追尾…暗き夜に我らを見守る月とアースーンの三木樹の名において命じる、我を取得した位置まで『可能な限りの速度』で移動」
 パレットがチカチカと点滅し、地球儀に似たものがホログラフィのように浮かび上がって、移動中の私と、北極点と思われる場所を青い線で結んだ。次の瞬間、その線は赤くなり、パレットの上に別の小さなパレット…ダイアログが開いて、こうメッセージが書かれていた。
『実行しますか? [OK] [キャンセル]』
 私は唇の端が持ち上がり、気分が高揚するのを覚えながら、OKを『タッチ』した。
 途端に薄桃色に輝く球体に私は包まれた。そして次の瞬間には、急上昇した。雲を突き抜け、その上に出ると、メアリーたちが同じ薄桃色のバリアで包まれた状態で待っていたではないか…。
「うむ、分かっているようだな。もう後は問題ない」
 次の瞬間には、私たちは同時にぶっ飛んだ。そうとしか表現できない。
 旅客機で空を飛んだことが生涯に一回だけある。格安で運転免許がとれるという合宿サービスに参加した時のことだ。チケット込みで、通常の免許取得にかかる費用の半額以下。およそ二週間の全日、講習を受けるという内容だった。その時、旅客機から見た空は、時速二〇〇キロ以上は出ていたろう、だがゆっくりと窓の外を流れていったものだ。
 この時の私は、空の景色を目で追いかけることができなかった。目が回るようだった。
 そこで視線を前に向けた訳だが、ただ青い空があり、白い雲のような筋が流れていくばかり。次第に前方の空は藍色になり、すぐに黒くなった。
「北極点は夜だ。間もなく夜明けだが」
 メアリーの声がしたと思うと、唐突に私たちは止まっていた。
「え、ここが、北極点なのですか?」
 私は眼下に見えるものを見て、信じがたく、思わず声を上げていた。
「まあ、驚くであろうな…。よし、もういいであろう」
 今度は、バリアがなくなった。
 ハッと振り返ると、大きな雲に幾つもの穴が開いており、その穴がどんどん大きくなって、雲は散り散りになっていく…。
「ソニック・ブームだ。音速を超えて飛んだのでな。衝撃波で家屋や生き物をなぎ倒さないよう、雲の上に出てから、超高速で移動したという訳だ」
「理解できます…」
「大変よろしい。では、降下する。ゲートへ向かう」
 私は慌ててメアリーたちについて、降りていった。


   *   *   * 

 あたしたちは目を閉じていたが、ポットが呆れたようにこう言った。
「精霊使いが三人もそろって何をビクビクしておるか。着いたぞ。ここが北極点だ。魔族の城であり、魔法ネットワークのシステムの根幹に、最もアクセスしやすい場所だ」
 目を開き、下を見下ろすと…見えたのはジャングル、としかいいようのない光景だった。
 そして前方には、光り輝く塔のようなものがあった。塔の上を目でおってみたが、天とつながっているようにしか見えない。幅は、恐ろしく大きかった。そして、光の下から幾筋も川がのびて広がっていた。
「あの輝いているものが『城』なんですか?」
 大樹お兄ちゃんが聞いた。
「あつーい。北極点がどうして、こんなに暑いのかしら…?」
 お母さんが片手を振って、自分に風を送りながら首をかしげていた。
「あの塔はどのくらいの大きさなんですか?」
 あたしは息せき切って尋ねた。
「待て、待て、待て。我は物理的に舌がひとつしかないのだ。三人の問いかけに同時に答えるという訳にはいかん! まず、あれはまぎれもなく我らの『城』だ。次に自然の気候変動と、意図した地軸の操作により、北極点は現在、熱帯地方に位置しておる。人類が生まれる前の古代には、そうであったようにな。あの塔は宇宙エレベーターの役割も果たしており、大気圏を抜けて宇宙ステーションに直結しておる。塔の幅はおおよそ五キロだ。これで質問には答えた。次は、ゲートへ向かうぞ。そこでログインしなければあそこへは到達できぬ」
 あたしたちは降下し、そしてゲートの前に立った。


   *   *   * 

 『ゲート』は石造りの門だった。高さはビルの二階に届きそうなので、およそ八メートルといったところ、幅は五メートル。厚さは一メートルほど。
 魔王はゲートに掌をくっつけた。
「メアリー・スタウトが入城します。必要であればチェックを」
 束の間、ゆっくりと透き通るようにメアリーは光り輝いた。
「イツキも、同じように唱えよ」
 彼女に促されて、私はそうした。
「三木…樹が入城します。必要であれば、チェックを!」
 想像していたように、私も光り輝いた。
 魔王の部下も同じようにしていた。
 全員が唱え終わると、ゲートがひとりでに、左右に外向きに開いていった。
 中は光の通路になっていた。行き先は、虹色に光っていて見通せない。
「この城はワープ魔法を一切許可していない。ここまで超高速で移動してきたのはそれが理由だ」
「セキュリティのため…ですね。あなたですら、この中へワープすることはできないのですか」
「もちろんだ。例外はない。少なくとも地球上にはな…」
「地球上…。ずっと、気になっていたんですが、『暗き夜に我らを見守る月』とは何のことです? 私は実は、魔法ネットワークの中枢は月にあるのじゃないかと思っていたんです」
「ほう!」
 魔王は私に完全に向き直り、目を見開いた。「それで?」
「だから『暗き夜に我らを見守る月』です。魔法を供給しているのが月だから。月から監視されているんじゃないかと…」
「それは、また、斜め上の想像をいったもの…。面白いですね、あなたは」
 メアリーは頷いた。
 彼女の口調が変わったのは、この時だった。表情も柔和になり、目を輝かせた。
「ある意味では正解です。なぜなら、私たち『魔族』と名乗るポスト・ヒューマンは、月で生まれたのですから」
 ハリー・ポットが前へ一歩踏み出し、「メアリー様? この者にそこまで話して良いのですか?」
「構いません。きちんと考えて、思考を言葉に変えられる者は少ないわ。わたしは長い間、アースーンに飽き飽きしていたから…。どれだけ言葉を尽くしても、私たちのことを理解しようとする人はいなかったわ」
 メアリーは肩をすくめてみせた。
「まあ、それはそうですな。御心のままに」ポットは一歩下がって元の位置に戻った。
「あの…つまり、地球人は地球で、そのまま生きてきたと。あなたたちは、月で生まれて、地球に来られたと」
「月には同胞が残っていますが、ほんの数名…。みんな、大宇宙への冒険という魅力にあらがえず、旅に出ました。未知を探求するという冒険にね。私たちは監視者です。母なる地球と、そこに住む、昔ながらの人間たちのね。
「それは、進化した人間が、時折はここに降り立ち…自分たちの元々の姿形…そして心がどうであったかを再確認したいから。人間のオリジナルを…社会のありかたをありのままに…いつでも参照できるようにしておくことが、私たちの役目です。私たちは地球という名の図書館を管理する司書のようなものです。
「この世界にほとんど病気がないのに気が付いていましたか? 人類はナノマシンを西暦二〇〇〇年代の前半には我が物とし、ワクチンのように自らの身体に投与することで、あらゆる病をはねのけてしまうようになりました。長い時間の間、人間は感染症と戦い続けてきましたが、とうとうそれに勝利することができたのです。植物も、人類にとって不要と思われる腐敗を起こしたり、病気にかかることはなくなりました。有害な植物は根絶されました。どこへ行っても、人間は健康に生きていける。地球はずっと、ユートピアなのですよ。ところが…時々、魔法ネットワークを乱用しようとする者が現れる。
「私たちは監視者ですから、オリジナルの人間のすることに本来は不干渉の立場です。ですが、それが魔法に関することになれば、話は別です。人間がありのままの道を進んでいくのを見守るとは言っても、それが結果的に大戦争につながり、滅びの道を行くのが分かっている場合は、干渉もやむをえません。ですが、なるべく人間が自分でそれに気が付くように促すことしか、私たちには出来ません。強制はできない。けれど、どうあっても滅びの道をいくというのなら、それは止めなければならない。図書館の本がなくなってしまうのは悲しいことです」
 メアリーは悲しげに微笑んだ。
「大局的に見て、帝国の首都の魔法ネットワークを止めても地球全体から見れば、少なくとも全滅に比べれば、軽微な被害で済みます。もちろん、今後、国内外の紛争が持ち上がるだけではありません、現在の人間が直面したことのない病気も蔓延します。あの土地は、百年は『呪われた大地』と呼ばれるでしょう。そのように私たちは管理しますから。今後の人間たちに自粛を促す存在として。魔法を兵器にすることは、絶対に許されません。たとえ難民が周辺の国々に押し寄せようとも…」
「難民、ですか。ちょっと待ってください、エミンは大丈夫なんですか?」
 彼女は首を振った。
「なら、私は戻らないと!」私は慌てて言った。「エミンは私の第二の故郷です! 何とかしないと」
「あなたには、飛翔コードを教えました。ここに戻ってくると約束できるなら、このまま『パレット』を使うことを許可しましょう」
「どうして、私にそこまで…?」
「あなたは少し、学ぶ必要がありそうだからです。それに、あなたがエミンを守りたいという気持ちも分かりますから。遠い、恵まれない過去からやって来て、ようやく安寧の土地を見つけたのですからね。あなたがやれると思っていることをやってみて下さい。わたしはもう、帝国には何も期待していません。それどころか、地球にとっては害悪以外のものではないと思っています。さて、わたしにここまで言わせましたね。それでも、あなたは行くのですね?」
 私は正直ためらったものの、家族のことを考えるといてもたってもいられなかった。頷き、そして行動し、メアリーの警告どおり裏切られ…彼女の温情によって、今はどうやらまたゲートを通って、城の中にいるらしいというわけだ。

   *   *   * 

 あたしたちはみんな、ポットにならって、ゲートに手をついて合言葉を唱えた。
 ゲートが左右に開き、光輝く通路が中に見えた。
「この中は、いわばこの世界の『裏庭』(バックヤード)だ。地球の監視者である我らが滞在する領域であり、ここにいれば、地球の情報のすべてを入手することが出来る。一番大きなシステムは気候の調整システムだ。台風やハリケーン、洪水といった現象は抑止されている。新種の病原体の監視システムもある。そして、魔法ネットワークがすべての人間の行動を記録に残している。
「では、いよいよ転生家族の合流、再会と行くかな。準備はできたか? よろしい。では参るとしよう」
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