空想街見聞録

時津橋士

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狂人アパート

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 なぜ私達家族が引越しをせねばならなくなったのか、父も母もそれを語ろうとはしなかったが、私には察しがついている。きっと近隣の住人達とのトラブルであったのだろう。実際、以前の家では私達家族への訳の分からぬ嫌がらせが続いていた。真夜中に玄関のチャイムが何度も鳴らされたり、家の壁に不気味な落書きがされたり。ある時は猫の死骸がポストに入れられていた。その時、私は丸一日をポストの洗浄に充てねばならなかった。父も母も、それが原因で引越しに至ったとは、少しも言わなかったが、私には分かっていた。新居となるアパートに移ったその日、父がひっそりと
「ここで新しい生活が始まるんだ。頑張ろうな」
と言ったのを覚えている。私もその頃は新たに始まる生活を思い、期待に胸を膨らませていた。しかし、その期待が見事なまでに裏切られるのに、そう時間はかからなかった。
 新たな生活が始まり、一週間が経とうかという頃、異変は起きた。玄関の扉に、不気味なチラシが貼られるようになったのだ。その枚数は日を追うごとに増えていった。それはいずれも、神がどうとか、教えがどうとか言ったもので一様にオカルトチックな雰囲気を醸し出していた。不思議なことに、それが貼られているのはこのアパートの中でも私たちの部屋だけであった。当時の父も母も知らないようであったが、私はこの怪事件の犯人を既に、知っていたのである。向かいの部屋の住人なのだ。いつだったか、真夜中に私は玄関から聞こえる不審な物音で目を覚ましたことがあった。勇気を出して戸を開けると、全身に白の衣を身に着けた人物が、まさにチラシを貼ろうとしていた。不意のことに驚いたのであろう、その人物はわき目も降らず、向かいの部屋へ飛び込み、それっきり出てくることは無かった。私はなんとかその人物を引きずり出そうと扉を叩き、大声で呼び掛けてみたが、駄目であった。
 今になって思えば、それからだ。私達家族への執拗な嫌がらせが増えたのは。玄関にはチラシに加えて、落書きまでもがなされるようになった。それも決まって赤と青の二色のクレヨンで描かれ、線の具合を見るに幼い子供の描いたもののように思えた。とうとう子供までもが私たち家族に嫌がらせを始めたのかと落胆したのを覚えている。クレヨンはなかなか落ちず、私はバケツと雑巾で懸命に労働せざるを得なかった。そんなことがあって以来、私は毎朝、家族の誰よりも早く起き、玄関戸の掃除をすることにした。父と母の精神的苦痛を少しでも和らげたかったのだ。それに、私がどんなに扉を綺麗にしても、翌日の朝早くにはすっかり元の通りに汚い紙がベタベタと貼られ、歪なクレヨンの絵がいくつも完成していたのだ。その頃になると、父が会社に出かけるのを、私が掃除をしながら見送るのが日常になっていた。私は毎朝父に、行ってらっしゃい、と声をかけるのを忘れなかった。そうすることで日に日に疲弊の色が濃くなっている父に元気を出して貰いたかったし、何より家族の結束を強めておきたかったのである。母もすっかり弱ってしまい、日中も家で寝ていることが多くなっていた。私は誓った。何の罪もない我々家族に嫌がらせを続けるアパートの住人には決して負けないと。彼らは揃いも揃って皆狂っているに違いない。そうでなければ、どうしてこんな非人道的なことができるのであろうか。私が家族を守らなければならない、と決意を固めた。

 とうとう今日でアパートに越してきて、ちょうど三か月になった。私はいつものように日の出る前に寝床から起き上がった。部屋の電気をつけ、驚いた! 部屋中に赤と青のクレヨンで落書きがされている。きっと夜中に子供が侵入したのだ。私は怒りのあまり、壁を力一杯殴りつけた。なぜだ! 私達が何をした! そうしてすぐさま雑巾で汚い絵を消しにかかった。ノックの音がする。どうした、と声が聞こえる。父だ。私は平静を装い、なんでもない、と答えた。これ以上家族を不安にさせることはできない。次の瞬間、チャイムが鳴り響いた。玄関に走った。玄関戸を勢いよく殴りつけ、外にいるであろう白い衣の人物に怒鳴り声をぶつけた。
「どうして俺たちに執着する! ただ家族三人で暮らしたいだけなのに! この狂人どもめ! 失せろ!」
「おい」
肩を掴まれた。振り向くと、父親が立っていた。口角が上がっているものの、表情は無い。彼は力強く私の両肩を掴んだ。ひどく痛い。
「お前が見ているもの、俺も見ていると思うな。お前が聞いているもの、俺も聞いていると思うな。アッハハハハハハハ。アハ、アハハハ」
壊れたような父の笑い声。とうとう父も狂ってしまったのか! 
いや、そうではないのか? チャイムの音が止んでいる。玄関から外に出る。チラシは、貼っていない! クレヨンの絵も! ふと、脳裏にさっきの父の言葉が響いた。そして……嗚呼、違う! 違う違う違う! 頭に浮かんだ一つの可能性、いや、真実。しかし、その真実を私は決して認めるわけにはいかなかった。私は笑い続けている父のもとに戻り、その顔をしたたかに殴った。何度も何度も。違う! おかしいのは! おかしいのはお前らだ! 狂っているのはお前らだ!

 気が付くと血まみれの父が動かなくなっていた。リビングに目を遣ると、母が写真の中で微笑んでいた。
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