君は誰に夢をみるか

一条咲穂(花宮守から改名)

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第1話

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 白崎しらさき夕一ゆういち、五十五歳。定年まであと五年。十年上の先輩は六十四歳から年金をもらえた。十五年上の先輩は六十一からだったか。会社は、従業員が六十代前半から年金をもらえることを前提に組織運営を考えてきた。それが崩れてきた、自分の年代。感染症が第五類扱いに変わって世の中ホッとしたと思ったら、ほかにもいろいろ感染症が流行っている。追い打ちをかけるように、世界経済が大混乱の様相を呈してきた。
(年金が出るのは六十五歳から。それまで、俺の居場所は会社にあるんだろうか?)
 ここまで来たんだ、という自負はある。中途半端に投げ出すつもりはない。しかし、子供たちは早くに独立し、妻は……妻は……。
「はぁ……」
 零したくもないため息が零れる。
 残業が減り、一日の中の時間が余るなんて、もっと爺さんになってからのことだと思っていた。
(俺の居場所、あと十年あるんだろうか)
 十年後、十五年後……その時の自分は何をしているだろうかと、思い描きながら生きてきた。それが今初めて、未来が見えなくなっている。
 想像したくないのだろうか。そうかもしれない。

 今日も、スーパーの袋を下げ、誰も待つことのない家へと帰ってきた。
「ただいま」
 無人の空間に声をかけても、返ってくる声はない。風呂に入り、簡単な夕食を作って、一人で食べる。今夜は肉野菜炒めにした。作り置きの野菜の煮物や、買ってきた煮豆、今朝茹でておいた卵などを並べれば、そこそこ豪華な食卓になる。この生活も、すでに長い。野菜の煮物くらい、朝飯前になってしまった。
紅美くみ……)
 向かいの空席を見れば、二歳下の妻を思わずにはいられない。彼女は十年前に家を出ていった。仕事で知り合った男と燃えるような恋に落ち、「ごめんなさい」と書置きをして消えたのだ。

 夕一が三日間、出張に行っている間の出来事だった。紅美の好きな菓子を土産に帰り着いた家の中に、彼女の姿はなく、荷物もあらかた運び出されていた。がっくり来たが、幸い週末に入るところで、土日は思いっきり寝込んだ。ひどい風邪をひいた。気分が滅入っているから、治りが遅かった。皆勤賞できた職場を初めて病欠し、情けない思いに苛まれた。腫れた喉が何とか人間らしい声を紡げるようになってから、大学生の娘と息子に連絡を入れた。二人とも、母親の居場所に心当たりはないと言った。
 病欠明け、出勤してまずやったことは、総務への申告だった。扶養の範囲ではなくても配偶者があれば家族手当を付けてくれる会社だ。状況が変わった以上、それを受け取るわけにはいかなかった。「部長、一応聞きますが、事情は?」と尋ねられても、「私も何が何だかさっぱりでね……」としか言えなかった。察しのいい相手は、「ああ……」とだけ反応し、「わかりました」と処理してくれた。病欠した日は、有休をあててもらった。

 以来、一人暮らしだ。
 ぽっかりと心に開いた穴はどうしようもないが、いつまでも気持ちは塞いではいられないのが、浮世のありがたさだ。仕事を、日々の雑事を何とかこなすうちに、時は流れていく。傷は癒えなくとも、笑いが零れるようになっていく。そして――ようやくその生活に慣れた頃に爆弾を落としてくるのもまた、時のいたずらだった。
 ひと月前、帰宅すると手紙が届いていた。差出人は見慣れない名で、開封してみると、紅美の内縁の夫を名乗る男からだった。動揺し、一人で読み通す勇気がなかった。息子の大吾だいごに電話で事情を話すと、「今から行く」と言ってくれた。食卓に向かい合って掛け、彼に手紙を読み上げてもらった。脅しや、金の無心をするような内容ではなかった。紅美は病床にあり、黒部くろべ正嗣まさつぐというその男は、自分が最後まで世話をしたいと申し出てきたのだ。法律上の夫ではないから何の権利もないことはわかっている、ただ、愛しているからそばにいたい、世話をしたいのだと。金も、社会的地位もある男。同い年の紅美とは駆け落ち同然で一緒になり、妻から絶縁状を叩きつけられて離婚したという。
「『何もかも間違っていることは承知しております。いえ、紅美さんのことではありません。すべて私の責任です。勝手ばかり申し上げますが、この上は最後まで責任を取らせていただけないでしょうか』……」
 淡々と読み上げながらも、大吾の声はところどころ揺れた。最後、という言葉が何度も書かれていた。住所も、電話番号も隠していない。紅美がかかっている病院の名称、所在地、担当医の名も記してある。連絡を取ろうと思えば取れるわけだ。
「どう思う」
 読み終えて、パサッと便箋を置いた大吾に問うた。
「ま、勝手なもんだよな。二人とも」
「そいつについては」
「文字は綺麗に整ってる。使い慣れた感じの万年筆。切手がまっすぐ貼られているところから見ても、几帳面でまじめな人物。だからこそぐらついて落ちていった……。『最後』って字はどれも歪んでるから、母さんにはちゃんと情がある。そんなとこかな」
 ミステリー好きを発揮して、探偵のようなことを言った。それから彼は、自分のスマートフォンを出して、男の番号に電話をした。夕一は、止めなかった。
「黒部さんですか。私、白崎大吾と申します。手紙をいただいた白崎夕一の……ええ、息子です。母の病状は……はい……」
 電話は、短かった。手紙によれば、紅美は末期のがんだという。
「いつでも会いに来てくれってさ。そう伝えないといけないって……でも何て言っていいかわからなくて、この手紙を寄越したんだと。病院にはこのあと、話を通しておいてくれるっていうからさ。今夜のうちに俺がそっちにも電話してみるから……それで、明日にでも。な?」
 顔を両手で覆って、頷いた。途方もない冗談であってくれと願った。ほかの男と逃げていたという現実と、唯一愛した女性が病魔に侵されているという悪夢。どちらがよりショックなのか、自分でもわからなかった。大吾は、今夜は泊まっていくよと言った。

 友人の紹介で出会った。物静かなお嬢さんかと思いきや、なかなかはっきり物を言う、そこがおもしろいと思った。その性格は、大吾の双子の姉の橙子とうこに、かなり濃く受け継がれている。
 どこか神秘的で、計り知れない女……だが、隣で笑っている時は、世界一身近な存在に感じさせてくれる。惚れ抜いて結婚した。
 大吾の運転で病院に向かいながら、封筒を握りしめた。黒部は、紅美の計り知れない一面を……自分には踏み込めなかった部分を、知ることを許されたのだろうか。嫉妬はある。憤怒も、憎悪も、ないと言えば嘘になる。しかし今は、紅美がこの世界でとにかく生きていてくれた、それを支えてくれた人物として感謝の念さえも芽生えていた。おそらく、どれかひとつに気持ちが落ち着くことなどないのだろう。
 家族三人、水入らずで対面することができた。一人はこんこんと眠り続けていたが。
 美しかった。病魔に憑かれて青白い頬をしていてもなお、紅美は、出会った頃のまま、夕一の光だった。大吾は廊下へ出ていった。二人きりになり、積もる言葉をぶつけてやることもできたのに、いざ目の前にすると、たったひとつの言葉しか出てこなかった。
「よく、生きていてくれた……」
 静かな寝顔が、「当たり前じゃないの」と、ぴしゃりと言い放った気がした。
 ――これは私の挑戦なの。最後まで、負けやしないんだから。

 夕一は、夫としてのすべての権利を放棄すると伝えた。その代わり、必ず責任を持って妻を看取ってほしいと。ただし、子供たちが会いにくることは制限しないでやってほしいと。
「もちろんです。当然のことです。あなたも、どうか……」
 これを限りなどと言わないでほしいと、黒部の震える唇が語っていた。大吾は、頑固な父親と母親の恋人を宥め、「まあ、これからのことは、またゆっくり」と場をおさめた。

 あれから一度も、病院には行っていない。黒部は、何かあれば大吾に連絡をくれることになった。今度の件で、息子がこんなにも大人になっていたのかと驚かされた。
(時間の流れに乗れず、俺だけが取り残された気分だ……)
 それでも確実に、年は取っていく。
 忙しい中、電話をくれた橙子が、「絶対に許さない!」と母親への怒りを露わにしていたことが気掛かりだった。

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