美しい怪物

藤間留彦

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第2話 運命の出逢い⑨

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「あ、がッ……ぁ……」

 少年の声ではない、そして喘ぎ声とは明らかに違う異質な声に顔を上げた。一瞬目を離した隙に何が起こったのか、オイレンベルク卿が裸のまま立ち上がっている。

 ──いや、立ち上がっているんじゃない。身体が、浮いている。

 裸の男爵の身体を何かが貫いて、背中から尖った赤茶色の杭が飛び出していた。杭の周りから赤い血が垂れ落ちている。その杭の根元を辿ると、仰向けに横たわる少年の肩の辺りから生えているように見えた。

 心臓が、高鳴る。恐怖なのか期待なのか、ただ瞬きをするのを忘れてその光景を眺めていた。

 それは、余りに一瞬の出来事だった。先まで少年であった「それ」から、虫が蛹から羽化するように少年の白い肌を引き裂いて赤茶げた物体が現れた。同時に周囲に咽せ返るほどの腐乱した肉の饐えた匂いが溢れる。

 月の明かりに照らされて、およそ少年の身体に収まっていたとは思えないほどの巨体が露わになる。

 鎌のような腕と人間のような黒い腕、太い胴体を支える甲殻類のような数本の脚。真っ暗な空洞から覗く赤く光る眼。「それ」は正しく、「怪物」に他ならなかった。

 まだ息のあるオイレンベルク卿が身体に刺さる杭──鎌状の腕を掴んで踠いている。しかし、目の前に涎を垂らし大きく裂けた口が迫っていた。

「い、あ……あッ──」

 「それ」の口にオイレンベルク卿の頭が丸々入った、と思った瞬間、骨が砕かれ肉が潰れる音と同時に辺り一面に血が飛び散った。

 僕は茫然としたまま一歩、一歩とそれに近づいていった。花の甘い香りに誘われ食虫植物の捕虫葉の内に入り込む虫のごとく、その先に待つ死を意識しながら抗うこともせずに引き寄せられる。

 ──どうか、この世に神が御座すのならば、僕の詰まらない人生を一日も早く終わらせてください。

 願いが聞き届けられたのかもしれないと思った。僕はこの「怪物」に食べられて一生を終える──それはただ死ぬよりも「マシ」という程度のものだったが、鮮烈な死のイメージが僕の脳裏にこびりついて離れなかった。

「まさか君が『怪物』だったなんて、この世の誰が想像しただろう」

 オイレンベルク卿の原形が失われた肉の塊を貪っていた「怪物」は、最後の一欠けらを飲み飲んだ後、茂みから出てきた僕を見て動きを止めた。

「まだお腹は空いているかい? 空いているなら次は僕を食べ――」

 僕はその「怪物」を見て、言葉を失った。
 怪物は血で口を濡らしながら、肉を食みながら、空洞のような大きな穴から覗く瞳から大粒の涙を流していたのだ。

「何で……泣いてるんだ?」

 「怪物」の腐臭の意味を、その身体を近くで見てようやく理解する。赤茶色の身体の一部が剥がれ、地面に落ちていた。その剝がれた部分からは膿のような黄色の粘液が溢れ、垂れ落ちている。身体が腐り始めているのだ。

「身体が痛いのか? それとも泣くほど人間が美味しい?」

 怪物は消化液の垂れ落ちる大きな口を開ける。

「……美味しくなんか、ない……」

 僕を襲う気なのかと思った瞬間、くぐもった声が聞こえてきて目を見張る。見た目に騙されてしまったが、そうか、「怪物」だが口が利けるんだった。

「でも……食べなきゃ、死ぬ、から……」

 巨体に似合わず、か細く「ミロ」の姿の時よりも幼い声だった。まだ十歳にも満たない子のような。
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