美しい怪物

藤間留彦

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第3話 罪と罰③

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 母はその年の仕事を失ったし、農村の人も皆食べ物に困っていたので助けてはくれなかった。その上時々もあった美味しいご馳走を貰える母の外出も無くなった。
 山の作物も当然育たず、頼みだった沢も上流の土砂崩れで水の流れが変わって枯れた。

 秋の頃までは何とか野草や虫、トカゲを捕まえて食べていたが、寒くなってくるとそれすら食べられなくなった。


 どれくらい食べていなかったのか。気がついたら歩けなくなっていた。時々母が捕まえてきた昆虫を食べていたけど、それもなくなった。朦朧としていたから時間の感覚がなかったが、少し前に母が家から出て行ったのは確かだった。どこに居るのだろう。

 俺は母が自分だけ美味しい物を食べているのではないかと思うような浅ましい人間だった。だから母を心配するというよりも食べ物のことしか頭になく、這いずりながら家を出た。
 と、母が枯草の上に横たわっていた。

 ――いや、母だったもの、だ。

 身体を虫が食い破り、烏が腸を突いていた。腐っていた。

 俺は母だったそれを「肉」と認識した。母が死んだという事実を認識する前に、「食べ物」だと。

 ――食べられる。食べられるぞ。

 烏を追い払い母の腕に食い付いた。俺を抱き締めてくれた温かな思い出なんてなかったかのように。腐った肉は美味くはなかったが腹は満たされていく。肉を食い破っていた蛆虫も、その他の虫も関係なく手当たり次第に口に放り込んだ。

 腹が満たされて、ようやく思考回路が回り始めた頃。母の手に握られた虫の死骸に気付いた。

 母は最期まで俺に食べ物を取ってこようとした。自分が飢えに苦しんでも、俺を見殺しにするという選択肢は最期まで持っていなかった。

 俺は幼かった。
 
 けれど「子供の想像力はその程度」などと言ったが、本当は全てを知っていたのだ。

 母が農村の地主に身体を売って御馳走を手に入れていたことを。夜の外出から帰ってきた日の夜、敬虔な信徒だった母は罪の意識から自分を鞭で打って懺悔していた。だから、沐浴をする彼女の背中には酷い痣がたくさんあった。

 俺はちゃんと全部見ていたし知っていたんだ。それを見て見ぬ振りをして、知らない振りをして誤魔化し続けた。母が俺のために苦しんでいると思うと息が詰まったから。

 そんな母の深い愛を知っていながら、俺は母を食った。死を悼む前に、飢えていたから、と。



 夢を見た。神様が言ったんだ。

 ――母の愛を理解しなかった御前に相応しい罰を与えよう。同胞を食らわずして生きていけない怪物として生きていくのだ。これは愛を理解しない御前への永劫の呪いである。 

 いつの間にか眠っていたようだった。目が覚めると身体が痛くて痛くて堪らなかった。身体を引き摺りながら歩いて、農村に辿り着いた時、俺を見た農民の第一声は――

「怪物!」

 農民たちは皆小さく縮んだように見えた。逃げていく姿を追い掛けると農具で殴り掛かられて、慌てて近くの林に逃げた。その林の中を歩いていると川が流れていた。喉を潤そうと近付いて、その時ようやく自分自身に起こっていることに気付いた。

 そこに在ったのは、正しく「怪物」だった。
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