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風岡一温編
第二話 初恋①
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昔から欲があまりない性質だった。何かに頓着することがないと言った方が正しいかもしれない。
例えば、玩具が欲しいとかケーキが食べたいとか、誰かや何かを好きとか嫌いとか、そういう感情が乏しいのだ。それで困ったことはないし、寧ろ玩具の取り合いで泣くことも最後の一口を食べられて怒ることも、誰かと争い合うこともないから平和だった。
一人っ子には割合多いタイプだと聞いたけれど、僕の場合はその傾向が極端に表れていた。
両親が共働きで、父は出張でいつも家に居なかったし――今は海外赴任で日本にさえいない――、母は化粧品会社の社長として忙しくしていたから、子供ながらに気遣っていたと思う。
玩具を勉強道具に代えても、特に不満もなく黙々と取り組んでいるから、二人にとっては手の掛からない育てやすい子供だったようだけれど。
そうして常に感情が平坦なまま特に何の要望もなかった僕は、親の言うように私立の幼稚園に入学してエスカレーターで高校まで進学した。きっと僕は何もなければ、そのまま附属の大学の医学部に入り、両親が希望している通りに医師になっていたのだろう。
でも、僕は高校二年の春、観月脩という男に出会ってしまった。そこから、僕の人生の歯車は少しずつ狂い始めていった。
少し肌寒い、桜が半分ほど散ってしまった春の頃。新学期になって、化学の永田先生が産休に入る代わりに新任の先生が入った。まだ二十三歳の若い男性教師に女子生徒が湧いていたのを覚えている。
歳が若いだけでなく、容姿も惹き付ける要因だったと思う。背はさほど高くないが、他の教師よりも長めの栗色の髪に緩やかにウェーブが掛かっていて、茶の色のついた眼鏡を掛けて、いつも穏やかな笑顔を浮かべている。
男子生徒は女子が観月先生に夢中なのが気に入らないのか、初めこそ当たりがきつかったが、先生の物腰の柔らかいところや多少の失敗には眼を瞑ってくれる優しい面を知って、段々と観月先生に対して友好的に接するようになった。
僕はそんな中にあっても、いつものように感情がフラットなままで、特別何かを思うようなことはなかった。あの日の夕方、化学準備室を覗くまでは。
ゴールデンウィークを前にして、風邪が流行り、化学担当の女子が二人とも数日休んでいた。
各教科の担当は課題を集めて先生に提出するのがクラスの仕事として割り当てられていたのだが、二人とも居ないので担任の独断と偏見で図書委員の僕が化学の担当に任命された。
教師としては、部活動もしておらず言われれば文句も言わずにやる僕が、一番都合が良かったのだろう。
そして今にして思うと、男性教師の間では、観月先生が女子にちやほやされているのをよく思っていなかったのだと思う。化学の教科担当を決める時、クラスのほとんどの女子が立候補していたぐらいだから、僕でなくても女子なら仕事を押し付けられても嫌がらなかったはずだからだ。
その日ちょうど化学の課題提出の日で、僕はホームルームの後課題を集め、放課後観月先生のいる化学準備室に向かった。産休中の永田先生の机がそのままになっていて、更に職員室の机に空きがなかったため、観月先生は化学準備室を使っていた。
夕暮れに染まる校舎を、課題のプリントを持って歩く。特別教室棟の化学室のある階に着くと化学室の反対側にある音楽室から吹奏楽部の金管楽器の音が聞こえてきた。一般の教室がある棟ではないから、生徒の姿はない。
化学室の横にある小さな部屋、化学準備室を先生が居るかどうか確かめようと思い、覗き込んだ。その先生の姿を見た時、僕は声を掛けることも忘れて呆然と見詰めることしかできなかった。
観月先生は眼鏡を外していた。普段チェーン付きの眼鏡を掛けているのに、一度も外している姿は見たことがなかったが、その理由のひとつを僕は知ることになった。
先生の眼は夕日に染まって赤く見えたが、その色はほとんど金色に近い薄茶だった。髪の色も生徒達は染めていると思っているようだったが、本当に栗色の美しい色が本来の彼の髪の色なのだと思う。
だが、そういった物珍しい容姿が、僕を惹き付ける理由ではなかった。
眩しそうに茜色に染まる空を睨み付けている、その横顔が、今までの彼のイメージとは真逆のものだったからだ。
怒り、悲しみ、苦しみ、後悔、絶望――それらがない交ぜになったような、激情が内包されている表情に、僕は息が詰まるような感覚を覚えた。
ただ、それだけなら、僕はまだ引き返せたと思う。溜め息を漏らした彼の顔が、憂いを帯びてさえいなければ。
僕は観月脩という人物に、一瞬見せたその表情に、魂を揺さぶられた。初めてのことに戸惑い立ち尽くしていると、先生が眼鏡を掛けて机に向き直るのを見て、反射的に教室の扉をノックした。
扉の向こうから先生の「どうぞ」という声が聞こえ、「失礼します」と引き戸を開けて化学準備室に入る。
「……先生……」
「どうしました、風岡君?」
つい先ほどまでの表情と一変し、にこやかに笑みを浮かべて優しい声色で僕に話し掛ける。何も言わない僕に目を丸くしたが、僕が手に持っている紙の束を見て納得したように頷く。
「ありがとうございます。課題を持ってきてくれたんですね」
「あっ、はい……!」
先生に言われて僕はようやく自分がなぜここにいるのかを思い出し、慌てて課題のプリントを手渡した。
「化学担当の子の代わりですよね。お疲れさまです」
「いえ……失礼しました」
半分逃げるようにして僕は足早に化学準備室を後にした。
だって僕はもう気付いてしまったから。茶の色のついた眼鏡の向こうで、僕を見る彼の瞳には何の感情の動きもないことを。観月先生が生徒や教師に見せている姿は、彼の真実の全てを覆い隠すためのものでしかない。
心臓が痛いほど早鐘を打っていた。それが歩く速度が速いせいではないことは明白で、僕はこの現象が何に起因しているのか脳をフル稼働させて考えたが、答えは見付からなかった。
理解不能の感情を持て余した僕が、その日の夜見たのは、眼鏡を外した観月先生が僕にキスをする夢だった。翌朝目覚めて、ようやくこれが恋だと知った。
例えば、玩具が欲しいとかケーキが食べたいとか、誰かや何かを好きとか嫌いとか、そういう感情が乏しいのだ。それで困ったことはないし、寧ろ玩具の取り合いで泣くことも最後の一口を食べられて怒ることも、誰かと争い合うこともないから平和だった。
一人っ子には割合多いタイプだと聞いたけれど、僕の場合はその傾向が極端に表れていた。
両親が共働きで、父は出張でいつも家に居なかったし――今は海外赴任で日本にさえいない――、母は化粧品会社の社長として忙しくしていたから、子供ながらに気遣っていたと思う。
玩具を勉強道具に代えても、特に不満もなく黙々と取り組んでいるから、二人にとっては手の掛からない育てやすい子供だったようだけれど。
そうして常に感情が平坦なまま特に何の要望もなかった僕は、親の言うように私立の幼稚園に入学してエスカレーターで高校まで進学した。きっと僕は何もなければ、そのまま附属の大学の医学部に入り、両親が希望している通りに医師になっていたのだろう。
でも、僕は高校二年の春、観月脩という男に出会ってしまった。そこから、僕の人生の歯車は少しずつ狂い始めていった。
少し肌寒い、桜が半分ほど散ってしまった春の頃。新学期になって、化学の永田先生が産休に入る代わりに新任の先生が入った。まだ二十三歳の若い男性教師に女子生徒が湧いていたのを覚えている。
歳が若いだけでなく、容姿も惹き付ける要因だったと思う。背はさほど高くないが、他の教師よりも長めの栗色の髪に緩やかにウェーブが掛かっていて、茶の色のついた眼鏡を掛けて、いつも穏やかな笑顔を浮かべている。
男子生徒は女子が観月先生に夢中なのが気に入らないのか、初めこそ当たりがきつかったが、先生の物腰の柔らかいところや多少の失敗には眼を瞑ってくれる優しい面を知って、段々と観月先生に対して友好的に接するようになった。
僕はそんな中にあっても、いつものように感情がフラットなままで、特別何かを思うようなことはなかった。あの日の夕方、化学準備室を覗くまでは。
ゴールデンウィークを前にして、風邪が流行り、化学担当の女子が二人とも数日休んでいた。
各教科の担当は課題を集めて先生に提出するのがクラスの仕事として割り当てられていたのだが、二人とも居ないので担任の独断と偏見で図書委員の僕が化学の担当に任命された。
教師としては、部活動もしておらず言われれば文句も言わずにやる僕が、一番都合が良かったのだろう。
そして今にして思うと、男性教師の間では、観月先生が女子にちやほやされているのをよく思っていなかったのだと思う。化学の教科担当を決める時、クラスのほとんどの女子が立候補していたぐらいだから、僕でなくても女子なら仕事を押し付けられても嫌がらなかったはずだからだ。
その日ちょうど化学の課題提出の日で、僕はホームルームの後課題を集め、放課後観月先生のいる化学準備室に向かった。産休中の永田先生の机がそのままになっていて、更に職員室の机に空きがなかったため、観月先生は化学準備室を使っていた。
夕暮れに染まる校舎を、課題のプリントを持って歩く。特別教室棟の化学室のある階に着くと化学室の反対側にある音楽室から吹奏楽部の金管楽器の音が聞こえてきた。一般の教室がある棟ではないから、生徒の姿はない。
化学室の横にある小さな部屋、化学準備室を先生が居るかどうか確かめようと思い、覗き込んだ。その先生の姿を見た時、僕は声を掛けることも忘れて呆然と見詰めることしかできなかった。
観月先生は眼鏡を外していた。普段チェーン付きの眼鏡を掛けているのに、一度も外している姿は見たことがなかったが、その理由のひとつを僕は知ることになった。
先生の眼は夕日に染まって赤く見えたが、その色はほとんど金色に近い薄茶だった。髪の色も生徒達は染めていると思っているようだったが、本当に栗色の美しい色が本来の彼の髪の色なのだと思う。
だが、そういった物珍しい容姿が、僕を惹き付ける理由ではなかった。
眩しそうに茜色に染まる空を睨み付けている、その横顔が、今までの彼のイメージとは真逆のものだったからだ。
怒り、悲しみ、苦しみ、後悔、絶望――それらがない交ぜになったような、激情が内包されている表情に、僕は息が詰まるような感覚を覚えた。
ただ、それだけなら、僕はまだ引き返せたと思う。溜め息を漏らした彼の顔が、憂いを帯びてさえいなければ。
僕は観月脩という人物に、一瞬見せたその表情に、魂を揺さぶられた。初めてのことに戸惑い立ち尽くしていると、先生が眼鏡を掛けて机に向き直るのを見て、反射的に教室の扉をノックした。
扉の向こうから先生の「どうぞ」という声が聞こえ、「失礼します」と引き戸を開けて化学準備室に入る。
「……先生……」
「どうしました、風岡君?」
つい先ほどまでの表情と一変し、にこやかに笑みを浮かべて優しい声色で僕に話し掛ける。何も言わない僕に目を丸くしたが、僕が手に持っている紙の束を見て納得したように頷く。
「ありがとうございます。課題を持ってきてくれたんですね」
「あっ、はい……!」
先生に言われて僕はようやく自分がなぜここにいるのかを思い出し、慌てて課題のプリントを手渡した。
「化学担当の子の代わりですよね。お疲れさまです」
「いえ……失礼しました」
半分逃げるようにして僕は足早に化学準備室を後にした。
だって僕はもう気付いてしまったから。茶の色のついた眼鏡の向こうで、僕を見る彼の瞳には何の感情の動きもないことを。観月先生が生徒や教師に見せている姿は、彼の真実の全てを覆い隠すためのものでしかない。
心臓が痛いほど早鐘を打っていた。それが歩く速度が速いせいではないことは明白で、僕はこの現象が何に起因しているのか脳をフル稼働させて考えたが、答えは見付からなかった。
理解不能の感情を持て余した僕が、その日の夜見たのは、眼鏡を外した観月先生が僕にキスをする夢だった。翌朝目覚めて、ようやくこれが恋だと知った。
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