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しおりを挟む宿代が勿体ないので、基本的に9610は幽体だ。幽体の時の彼は召喚主にしか見えない、聞こえない。うっかり人前で話すと、一人でブツブツ言っているヤバい奴になる。召喚したままでも魔力消費がないため、9610の好きにさせている。
完全に姿が見えない時でも、アルクの傍にいたりする。呼んでも反応がなければ不在だ。9610なりに情報収集をしているようだが何せゴシップが好きなようで、肉屋の旦那が浮気しているらしいとか、どうでもいい話題ばかりを集めてくる。9610は戻ってくるなり仕入れてきた話題を片っ端から聞かせてくるので、嫌でもアルクの耳に入ってくる。本当にお喋り好きなのだなと実感し、同時に忘れていた5年間に対する申し訳なさが蘇る為、無下にできない。
もっと有益な、ギルド内の話題でも情報収集させることは可能だろう。だが、アルクはそれをしたくないと思った。
正確には9610に命令をしたくない。
他の召喚体と9610を一緒にしたくない。
「そろそろ次のクエストをどうするか」
傍から見れば独り言でしかない言葉を口にしながらギルド内の掲示板を眺める。数々のクエストが貼りだされているが、目ぼしいものは見当たらない。それもそうだろう。効率の良いクエストを求めて皆朝早くからギルドに訪れるものである。ある程度日が登ってから来たのでは遅いのだ。
実際、アルクは冒険者を続けることに迷いを覚えていた。ふと見上げれば、見慣れた幽体がふよふよ浮いている。
例え見えなくても、基本的に9610はアルクの傍にいる。コイツを連れてこのまま危険な仕事を続ける───、そのことに今更抵抗を覚えてしまった。
『あの組織の壊滅作戦に誘われてたじゃん。そっちはもういいの?』
「───あんなとこ二度と行きたくない」
現場を知っている人間として是非!とギルドの受付嬢に懇願された。冒険者みんなのアイドル的存在の、超絶可愛い女の子。以前までなら、可愛い女の子のお願いに負けて引き受けたに違いない。しかし、困ったことに今のアルクには9610の方が可愛らしく見えるのである。
行かないと即答した途端、場にいた他の冒険者たちが血走った目でアルクを睨みつけてきた。それ以上に参ったのは、頭上に浮いている9610に『え、不能になった?』と呟かれたことである。
アルクは冒険者引退も視野に入れようと決意した。幸い貯金はあるので、のんびり考えるのもアリだろう。
取り敢えず宿に戻るなり、アルクは9610に向き直った。
「俺は不能になってない」
薄壁越しに他人に聞かれても困るので、叫びたい衝動をぐっと堪える。
『えぇ、でも、自慰もご無沙汰じゃん?枯れちゃった?前は週1で処理してたよね?商売のお姉さんにも暫くお世話になってないじゃん』
9610はコロコロと笑いながら、『そういや一時期ご執心だった女の子に太さを理由にもう来ないでって言われてたのには最高にウケた』と悪びれもせずに、自身が間近で見てきたアルクの遍歴まで語り出す始末。
「枯れてない!お前がいるのに出来るわけないだろ!」
『その時はちゃーんと消えててあげるってば』
「消えても全部見てるじゃねぇかよ!」
『いやぁ、僕って、召喚体ですし?召喚体から離れるのは本意じゃないっていうかさぁ』
「しょっちゅう俺から離れてガセネタ仕入れに行ってるくせに調子が良い奴だな」
『そもそも姿を消してたら居ても居なくてもわかんないんだからさ、姿を消して僕がいませんでしたって自己申告したところで、アルクはそれを信じられるの?』
呆れを隠さない言い方に、アルクはムッとしたが、答えなど想像するまでもない。
「無理だな………」
『ね?いかにこの会話が不毛かわかった?てか、そんなに嫌なら魔力を込めて命令すればいいじゃん』
「……………いやだ」
あくまで9610は召喚体だ。命令したくないと望むのはアルクのワガママだ。しかも召喚して初のまともな命令(※召喚した当時の投げやりな命令はカウントしない)が、自慰するためというのも、情けないにも程がある。
『じゃ、送還すれば?』
送還すれば、9610は他の召喚体と同様、召喚石になるだろう。手のひらに乗る程度の、小さな石ころに。そんな彼を見たくないと思うのもおかしな話だ。それでも見たくないと強く思う。
「送還なんて、しない」
『───じゃあ、仕方ないよね』
ふ、と床に足を付けた9610が徐々に実体化していく。次第に色味を帯びていく様に、アルクの視線は奪われる。美しいと、思わず手を伸ばしたくなる。
「9610?どうした、急に」
名前を呼べば、彼はニッコリと意図的に優しく目を細めた。この顔は絶対ろくな事は考えてない、そう直感したアルクは思わず後退る。
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