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第二章 華燭
66 訣別ーー蒼龍
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どこまでも澄んだ暗い空に、青白く光る月。
秋夜の空気はしんと冷え、少し肌寒い。
後宮外れの李園では、収穫を終えた幹や葉から、微かな甘い香りが漂っている。
そんな樹々の林間に寝転び、蒼龍は物思いに耽っていた。
人目を忍び、ここで黎妃と逢っていたのは、もうはるか昔のこと。
あの頃の自分は、まさか二人にこんな未来が用意されているなどとは思いもしなかった。
「……くそっ」
ひとりごちる。
昼間、英春明が、こっそりと耳打ちしてきた。
「黎貴妃様が、身籠られました。――皇帝の種でございます」
と。
「まことか、それは」
その時の俺は、随分険しい顔をしていたに違いない。
奴はこう付け加えた。
「――はい。これはまだ、私と貴妃様、それに蒼太子しか知らない事」
にわかには信じられなかった。
若い頃から、種無しと言われていた親父に、まだ子が出来るなどとは。
ましてや、その相手が黎妃だと?
俺は、すぐさま奴に反論した。
「しかし、親父はとうに喜寿を超えているのだぞ」
「……自然の摂理は分からぬもの。いくらでも事例はございます」
「くそっ……」
淡々と告げる春明の言葉に、俺は明らかに動揺していた。
女は――
本当に愛した者の子しか腹に宿さぬという。
それが迷信だということは知ってはいても、俺は、どこか黎妃に裏切られたと感じた。
無意識に爪を噛む俺に、春明がため息をついた。
「蒼太子、貴方の気持ちは分かりますが……ここはどうか、黎貴妃の覚悟を汲んでやっていただきたい」
「……何だと?」
春明は、あくまで表情を変えなかった。
「貴方のために……黎貴妃は、懐妊の事実を誰にも、皇帝にさえ言わぬおつもりです」
「分からん、何故だ。俺のため、とは思えんが」
吐き捨てた俺に、春明はふと悲しい眼をした。
「いいえ。間違いなく、貴女を想ってのこと……彼女は……産まれてくるのが女であるよう祈っています」
「何だそれは……バカバカしい。祈って決まるものでもあるまい。何故、男ではいけない」
「みなまで言わねば……分かりませんか」
「くどいぞ春明、はっきり言え」
怒鳴り声に、春明は表情を曇らせた。
「……貴方が皇位に立てなくなれば、彼女は生きていく希望を失う。そのためには、母になれずとも――と、そういう事でございます」
「黎妃の息子がなぜ俺の邪魔に……」
そこまで言って、ハッと気づいた。
己の察しの悪さに、バツが悪くて下を向いた。
「……そういうことか」
「はい、彼女は、あなた様とお父上の不仲を、いつも案じておられます。そこにこのご懐妊。彼女は、あなたの廃嫡を何よりも恐れています」
黙り込む俺に、春明は畳みかけた。
「蒼太子、どうかお聞き分け下さい、健気な願いを。愛情深いあなたが皇帝となり、良い治世を行うこと――それだけが、あの子の最後の希望なのです」
*
少年の頃の俺は、目の前の彼女しか見えていなかった。
気づいた時には、もう手が届かなくなっていた。
だから、取り返したいと思った。
向こうもそれを待っているものと信じて。
だが、そうではなかったのだろうか……。
小蘭と出会った夜。
御前試合の、あの時。
なぜか、いつも彼女は俺を避けていた。
口では信じてると言いながら、俺の心は揺れていた。
だからだろうか。
彼女はもう、俺の庇護を必要としてはいないのか――。
……寂しい。
あの夜。
意に沿わず道を違えた俺たちは、ごく近くを行き交いながらも、二度と交わらぬ道を歩いている。
滲んだ涙を、誤魔化すように瞳を閉じる。
いつからか、俺は人前では泣けなくなった。
今ではもう、辺りに人が居なくても、こうして顔を隠さなければ、涙も流せない。
――俺は怖い。
権謀術数を使いこなし、陰謀に慣れてゆくにつれ、いつか自分は、真心を失ってしまうのではないか。
あの、老いた親父のように。
その時俺は、レイラや春明の望む皇帝になど、なれているのだろうか――。
思いやりのある治世だと?
そんなものを、なぜ俺に背負わせる。
俺はまだ、自ら何も選び取っていないというのに。
王道は、あまりに孤独で――
俺の肩には、まだ重すぎる。
どこまでも澄んだ高い空に、冴え冴えと光る満ちた月。愛しき人との想い出に、ただ秋夜の夜気のみ纏い、草枕にて眠る。
瞼に映るは去りし日の、あの娘の儚い笑い顔――。
誰かにそばにいて欲しかった。
弱みも、真心も預けられる誰かに。
継承者として祭り上げられた俺は、ただ、寒かった。
*
「……龍」
微睡の中、ふと小さな声が頭に響いた。
なんだ?
「……龍、蒼龍」
冷えた身体に、ふと体温を感じ、蒼龍は半目を開いた。すると、眼前に月光が金色に乱反射し、暗闇の中にキラキラと散らばった。
そんな、まさか。
「わっ!」
「うわっ、わっ!」
突然、小さな熱の塊がドサッと腹の上に落ちてきて、蒼龍は思わず飛び起きた。
「ば、馬鹿っ、一体なにを。……お前、小蘭か!?」
「あははっ、変な顔。びっくりした?」
腹の上に馬乗りになった小蘭は、突然起き上がった蒼龍に、振り落とされないよう重心を移した。
「当たり前だろう、いきなり乗っかってくる奴があるかっ」
「……」
知らん顔の小蘭に、蒼龍は軽くため息をついた。
「……なぜ木から落ちてくる。真夜中だぞ、良い子はとっくに寝てる時間だ」
「別に私、良い子じゃないもの。それに――登場の仕方であんたにつべこべ言われたくないわ」
「まぁた、減らず口を。じゃあ、何でここにいるんだい? さあ、お兄さんに教えなさい」
膝に乗ってきた彼女を、横向きに載せ替えると、小蘭は頬を膨らませた。
「蒼龍が……ここに居るって聞いたから」
(……春明か)
一瞬、顔を強ばらせた蒼龍だが、すぐに表情を弛め、笑顔を造り直した。
「あ…ははは。敵わないな、お前には。で、俺に何か用か? 妻のほうから夜這いだなんて、俺も隅におけないな」
冗談めいて言った言葉に、しかし小蘭は笑わない。
「ねえ、戦へはいつ立つの? 蒼龍、私をずっと避けてるよね。……ひょっとして、このまま、会わずに行っちゃうつもりだった?」
真面目な顔で見下ろす小蘭に、蒼龍は一瞬、言葉を詰まらせた。
しかし、すぐに優しく微笑む。
「バカ言うなよ。なんで俺が、お前を避けるんだ。準備やらで――忙しかっただけだ」
「嘘よ! ならどうして門番に「私を絶対に通すな」なんて命令するの? おかげで私、門番の男とはすっかり仲良くなっちゃったけど」
「げっ、あの玄武とかよ……。しかし、まさか本気でやるとは」
「やっぱり。……ねえ、なんで?」
ぐっと顔を寄せた小蘭から、蒼龍はさっと目を逸らした。
「……い、いやだから、それはさ――小……蘭?」
いつしか小蘭の瞳から、涙がポロポロと溢れ落ちていた。
「ひどいよ蒼龍、私が心配してるって――ちっとも考えられないの?」
「ま、参ったな……泣くなよ、なあ。頼むから」
蒼龍は、金の髪に触れるか触れないかくらいに柔らかく、手のひらでなぞった。
秋夜の空気はしんと冷え、少し肌寒い。
後宮外れの李園では、収穫を終えた幹や葉から、微かな甘い香りが漂っている。
そんな樹々の林間に寝転び、蒼龍は物思いに耽っていた。
人目を忍び、ここで黎妃と逢っていたのは、もうはるか昔のこと。
あの頃の自分は、まさか二人にこんな未来が用意されているなどとは思いもしなかった。
「……くそっ」
ひとりごちる。
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と。
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その時の俺は、随分険しい顔をしていたに違いない。
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「――はい。これはまだ、私と貴妃様、それに蒼太子しか知らない事」
にわかには信じられなかった。
若い頃から、種無しと言われていた親父に、まだ子が出来るなどとは。
ましてや、その相手が黎妃だと?
俺は、すぐさま奴に反論した。
「しかし、親父はとうに喜寿を超えているのだぞ」
「……自然の摂理は分からぬもの。いくらでも事例はございます」
「くそっ……」
淡々と告げる春明の言葉に、俺は明らかに動揺していた。
女は――
本当に愛した者の子しか腹に宿さぬという。
それが迷信だということは知ってはいても、俺は、どこか黎妃に裏切られたと感じた。
無意識に爪を噛む俺に、春明がため息をついた。
「蒼太子、貴方の気持ちは分かりますが……ここはどうか、黎貴妃の覚悟を汲んでやっていただきたい」
「……何だと?」
春明は、あくまで表情を変えなかった。
「貴方のために……黎貴妃は、懐妊の事実を誰にも、皇帝にさえ言わぬおつもりです」
「分からん、何故だ。俺のため、とは思えんが」
吐き捨てた俺に、春明はふと悲しい眼をした。
「いいえ。間違いなく、貴女を想ってのこと……彼女は……産まれてくるのが女であるよう祈っています」
「何だそれは……バカバカしい。祈って決まるものでもあるまい。何故、男ではいけない」
「みなまで言わねば……分かりませんか」
「くどいぞ春明、はっきり言え」
怒鳴り声に、春明は表情を曇らせた。
「……貴方が皇位に立てなくなれば、彼女は生きていく希望を失う。そのためには、母になれずとも――と、そういう事でございます」
「黎妃の息子がなぜ俺の邪魔に……」
そこまで言って、ハッと気づいた。
己の察しの悪さに、バツが悪くて下を向いた。
「……そういうことか」
「はい、彼女は、あなた様とお父上の不仲を、いつも案じておられます。そこにこのご懐妊。彼女は、あなたの廃嫡を何よりも恐れています」
黙り込む俺に、春明は畳みかけた。
「蒼太子、どうかお聞き分け下さい、健気な願いを。愛情深いあなたが皇帝となり、良い治世を行うこと――それだけが、あの子の最後の希望なのです」
*
少年の頃の俺は、目の前の彼女しか見えていなかった。
気づいた時には、もう手が届かなくなっていた。
だから、取り返したいと思った。
向こうもそれを待っているものと信じて。
だが、そうではなかったのだろうか……。
小蘭と出会った夜。
御前試合の、あの時。
なぜか、いつも彼女は俺を避けていた。
口では信じてると言いながら、俺の心は揺れていた。
だからだろうか。
彼女はもう、俺の庇護を必要としてはいないのか――。
……寂しい。
あの夜。
意に沿わず道を違えた俺たちは、ごく近くを行き交いながらも、二度と交わらぬ道を歩いている。
滲んだ涙を、誤魔化すように瞳を閉じる。
いつからか、俺は人前では泣けなくなった。
今ではもう、辺りに人が居なくても、こうして顔を隠さなければ、涙も流せない。
――俺は怖い。
権謀術数を使いこなし、陰謀に慣れてゆくにつれ、いつか自分は、真心を失ってしまうのではないか。
あの、老いた親父のように。
その時俺は、レイラや春明の望む皇帝になど、なれているのだろうか――。
思いやりのある治世だと?
そんなものを、なぜ俺に背負わせる。
俺はまだ、自ら何も選び取っていないというのに。
王道は、あまりに孤独で――
俺の肩には、まだ重すぎる。
どこまでも澄んだ高い空に、冴え冴えと光る満ちた月。愛しき人との想い出に、ただ秋夜の夜気のみ纏い、草枕にて眠る。
瞼に映るは去りし日の、あの娘の儚い笑い顔――。
誰かにそばにいて欲しかった。
弱みも、真心も預けられる誰かに。
継承者として祭り上げられた俺は、ただ、寒かった。
*
「……龍」
微睡の中、ふと小さな声が頭に響いた。
なんだ?
「……龍、蒼龍」
冷えた身体に、ふと体温を感じ、蒼龍は半目を開いた。すると、眼前に月光が金色に乱反射し、暗闇の中にキラキラと散らばった。
そんな、まさか。
「わっ!」
「うわっ、わっ!」
突然、小さな熱の塊がドサッと腹の上に落ちてきて、蒼龍は思わず飛び起きた。
「ば、馬鹿っ、一体なにを。……お前、小蘭か!?」
「あははっ、変な顔。びっくりした?」
腹の上に馬乗りになった小蘭は、突然起き上がった蒼龍に、振り落とされないよう重心を移した。
「当たり前だろう、いきなり乗っかってくる奴があるかっ」
「……」
知らん顔の小蘭に、蒼龍は軽くため息をついた。
「……なぜ木から落ちてくる。真夜中だぞ、良い子はとっくに寝てる時間だ」
「別に私、良い子じゃないもの。それに――登場の仕方であんたにつべこべ言われたくないわ」
「まぁた、減らず口を。じゃあ、何でここにいるんだい? さあ、お兄さんに教えなさい」
膝に乗ってきた彼女を、横向きに載せ替えると、小蘭は頬を膨らませた。
「蒼龍が……ここに居るって聞いたから」
(……春明か)
一瞬、顔を強ばらせた蒼龍だが、すぐに表情を弛め、笑顔を造り直した。
「あ…ははは。敵わないな、お前には。で、俺に何か用か? 妻のほうから夜這いだなんて、俺も隅におけないな」
冗談めいて言った言葉に、しかし小蘭は笑わない。
「ねえ、戦へはいつ立つの? 蒼龍、私をずっと避けてるよね。……ひょっとして、このまま、会わずに行っちゃうつもりだった?」
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しかし、すぐに優しく微笑む。
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「嘘よ! ならどうして門番に「私を絶対に通すな」なんて命令するの? おかげで私、門番の男とはすっかり仲良くなっちゃったけど」
「げっ、あの玄武とかよ……。しかし、まさか本気でやるとは」
「やっぱり。……ねえ、なんで?」
ぐっと顔を寄せた小蘭から、蒼龍はさっと目を逸らした。
「……い、いやだから、それはさ――小……蘭?」
いつしか小蘭の瞳から、涙がポロポロと溢れ落ちていた。
「ひどいよ蒼龍、私が心配してるって――ちっとも考えられないの?」
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