後宮恋歌――人質妃ですが、守られるだけでは終わりません

佳乃こはる

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第三章 帰還

72 光と影

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 彼女はふわりと起き上がると、嬉しくて堪らないと言ったふうに、傍に立つ春明の首に抱きついた。

「あ、こらっ」
 たしなめられ、ぺろりと舌を出して笑う。

 その様子を、小蘭は我を忘れて見入っていた。
 膳の準備をする宮女たちの表情も、自然と緩んでいる。

「さて、食事の準備が整ったようですね」
 ふいに入ってきた春明の声に、小蘭はハッと我に返った。

 宮女たちが、一礼をすると、黎妃様はニコッと微笑んで、「いつもありがとう」と、折り目正しく礼を言う。

 宮女たちが夢見心地のまま去り、いかめしい音を立てて鉄扉が閉じられた。
 へやには、美雨に扮した小蘭と春明だけが残された。

「さて黎妃様、先に食事を頂きますか?」
「いらない……食べたくないわ」
 金色の髪が、ふるふると横に震える。
 
「では、先に診察を済ませてしまいましょうか。もういちど横になってくださいね。美雨メイユイ、あちらを向いていなさい」
「ぅあい……」

 小蘭は毛布を抱えて背を向けた。
 
 するとすぐに、黎妃の弾んだ声が聞こえてきた。

「ねえ春明、聞いて。こないだ貸していただいたご本、あれはとても良かったわ。特に、いじめられていたさぎたちを……」

「そうですね、私もそう思っていましたよ。さ、診ますから力を抜いて」

「あとね、最後に鵜の皇子様が、鷺のお妃様を迎えたところも。ただ、少し納得納得がいかないのは、あの時どうして……」
「黎妃様、あまり興奮しないようにね。心の臓の音を聞いているからね」
「はぁい、ごめんなさい」

 ――か、可愛い。
 この人のそばにいると、踏み込んではいけない線を、いともたやすく踏み越えてしまいそうになる。
 
「はい、もう隠していいですよ。傷の部分は、綺麗に洗って薬を塗っておきましたからね。黎妃様、きちんと食べなくてはいけません。前よりまたお痩せになって」

「だって、欲しくないんだもの。そうだ! ねえ、そこのあなた、お腹がすいているのでしょう? それ、全部食べていいわよ」
「黎妃様……」
 
 突然飛んできた声に、小蘭はびくっと肩を揺らした。
 さっきから盛大にお腹を鳴らしていたのを聞かれていたようで、少し恥ずかしい。

「で、では遠慮なく……」
「こら!」
 
 つい誘惑に駆られ、目の前のご馳走に箸をつけかけた。

「あ、待って」
 黎妃は、ひらりと寝台から飛び降りると、円卓についた。
 と思えば、小蘭の膳から、ひょいと焼売シュウマイを摘み、口に入れてしまう。

「……よし、これで食べても大丈夫よ」
 そう言って毒味係の「美雨」に微笑みかけ、またひらりと舞い戻る。
 
 小蘭は、ただ瞬きを繰り返した。

 春明が、呆れ顔で言った。
「全く、黎妃あなた様はいつもこれだ。すぐに宮女たちを甘やかすのだから」

「だって……理不尽だわ、こんなに小さい娘にお毒味をさせるだなんて。私より、ずっと先が長いのよ」

「黎妃様、そんなことを言ってはいけません……もう、おひとりの身体ではないのですから」
「春明、それは――!」

 黎妃が叫んだとほぼ同時に、春明は、小蘭の鬘を取った。
 黒髪の下から、ふわりと金の癖毛が表れたのを見、黎妃が目を丸くする。

「まあ、あなた……!」
「以前、貴女にお話しした姑娘むすめです。貴女の秘密も――話してあります」

 気まずい沈黙――。

 それを破ったのは、爛漫とした黎貴妃様の笑い声だった。

「あはっ……アハハッ」

 はっとして顔を上げた小蘭。黎貴妃は、さも可笑しそうに笑いかけた。

「いやだ、蒼大哥にいさまったら。私と全然似ていないじゃない!」
「そうでしょう? 私も常々そう申し上げているのですが」

 ……ええ、どうせ似ていません。私なんて。

 盛り上がるふたりの様子に、憮然とする小蘭。
 
 少しして、黎妃が両手を合わせて謝った。

「あの、笑ってごめんなさいね。だって……そんな変装までして、こんな遠くに来てくれるなんて思わなかったから。初めまして、小蘭シャオラン。私が黎妃リーフェイよ」

「あ、は、はい。小蘭と申します。以降、お見知り置きを」

 不貞腐れていたのが恥ずかしくなって、赤い顔を隠すように、小蘭は床にひれ伏した。

「ああ、もう。堅苦しいのはやめましょう。ふふっ、私ね、あなたのお話、先生からたくさん伺っているの。だから初めて会った気がしなかった。笑ってゴメンなさい。さあ、一緒に食べましょう。なんだか急に食欲が出てきたわ」

 春明の顔を伺うと、黙ってこくんとひとつ頷く。

「あ、はい」
 小蘭は黎妃様に促されるまま、円卓に着いた。

 黎妃様ひとりには多すぎる膳も、小蘭が向かえば不思議と釣り合う。
 美味しいだけに、冷えてるのが悔やまれる。
 食事の間、黎妃様は、息つく間もなく話し続けた。

「そう、小蘭は胡国から来たのね」
 黎妃は、遠くを見るように微笑んだ。

「私もそう、海の近くの邑に暮らしていたの。でも……戦で滅ぼされてしまった。私ね、もともとは平民なの。戦のあと、家族とも離ればなれで」
「黎妃様」
 小蘭が、たまらなくなって声をあげると、黎妃はにこっと微笑んだ。
 
「うん……でもいいの。おかげで私は、蒼大哥にいさま出会えたんだから。私を、戦火の中から救い出してくださったのよ!」
「……はい」

 蒼龍は確か、戦のせいで声を失った彼女に、言葉を教えていたんだっけ。

 ――それにしたって、不思議な方だ。
 さっきまで、こんな話を聞いたなら、嫉妬心で胸が焼けるに違いないと思っていたのに。
 こうして本人を目の前にすると胸のざらつきがさらりと消える。
 
 考え込んでいるところに、不意打ちとばかりに、黎妃の声が入ってきた。

「ねえ小蘭にとって、にいさまはどんな方? 私に間違えられて、ふたりで衛兵に追いかけ回されたのは本当? 武闘会では、檻に閉じ込められたの? 私、あなたのことをもっと知りたいわ」

 矢継ぎ早な質問に、小蘭は思わずたじろいだ。
 
「いやあ、あの……」
 
 小蘭は、助けを求めるように春明の方を振り返る。
 けれど春明は、知らん顔で、薬を調合する……ふりをしている。

 小蘭は彼をじろりと睨んだ。
 
(もう……先生ってば、黎貴妃様にどんな話を吹き込んだのよ)
 
 けれど、何と答えたらいいのか――一瞬考え、すぐに思い直した。
 いいや、黎妃様は、想うだけで許されない相手を、胸の奥に抱えて生きているのだ。

 小蘭は、訥々と、遠慮がちに話し始めた。

「初めて蒼龍に会った時は……そう、お兄ちゃんみたいだって思ったんです。私の上に、六人兄がいるんですけど。その中のひとりにとても似てるなって」
 
「まあ、本当? ならその方にもお会いしたいわ」
「いや、もうそれが、とんでもない悪たれで――」
 
 こんなくだらない自分語りに、キラキラと眼を輝かせ、聴き入っている黎妃様。
 その笑顔の奥に、触れてはいけない影を見た気がして、小蘭は言葉を呑み込んだ。

 帰り際、「また来てね、必ずよ」
 そう言われた瞬間、小蘭は考えるより先に口を開いていた。

「はい。明日も来ます」

 その約束が、静かに重みを増していくのを、小蘭はまだ知らなかった。

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