後宮恋歌――人質妃ですが、守られるだけでは終わりません

佳乃こはる

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第三章 帰還

75 託された命

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 弱っている黎妃様の手前、ああは言ったけれど。
 後宮を出られない自分には、蒼龍に報せを送る術がない。

 黎妃様の言うとおり、まさか蒼龍も、自身の父親を疑いはしないだろう。
 南の戦場までは、十日余。
 凶事は、皇帝到着の日。

 舞う白刃に、飛び散る鮮血。
 崩れ斃れる、蒼龍の身体。

(いや……!)
 夕暮れの風に晒された腕に、粟が走る。
 
 けれど、後宮妃に文を託せる者などいない。
 いっそ自ら……そう考え、またすぐに思い直す。

 三年前、後宮を逃げ出そうとした折、小蘭は蒼龍に戒められた。
 「一人で逃げても、まず城壁を抜けられない」
 「盗賊どもに、身ぐるみ剥がされてしまうぞ」

 それではダメだ。
 この報せは、確実に届けなければ。

 日鳳――蒼龍の親友であり、国一番の知恵者。
 彼に知恵を借りたい。

 確か、戦へは同行しないと言っていたはずだ。
 彼と、連絡を取りたい。
 
 小蘭は、ちらりと隣の春明を見上げた。

 ――春明先生なら、あるいは……。
 
 小蘭は、一瞬だけ歩みを緩めた。
 
「先生!」

「……ですから、女性同士で仲良くするのは構いませんが、一線を超えてしまうと、それはやはり男女の不義と何ら変わらない……な、なんですか?」

 何やら隣でブツブツと説教をしていた春明は、小蘭が突然声を上げたのに、驚き、たじろいだ。

 小蘭は、身体をくの字に曲げて叫んだ。

「痛いっ……お腹がすごく痛いの。さっきの食事……毒が入っていたのかも」
「また、おかしなことを言い出しましたね。医者を騙すことはできませんよ」
「でも痛いの、死にそう!」
「もう……」
 
 疑るような目を向けながらも、小蘭の額に手を翳した春明の耳元に、小蘭は素早く口を寄せた。
 
(『小蘭』に戻った後、婆やに呼びに行かせるわ。……すぐに私のへやに診察にきて!)
 
 怪訝そうだった春明は、緊迫した声色に気づくと、わずかに頷いた。

「……分かりました。美雨メイユイ、持ち場にお戻りなさい」
「…… はい」
 視界に人の姿を認め、慌てて美雨に戻った小蘭は、歩幅を狭めて俯き加減の姿勢をつくった。
 
 そうよ。誰を信じて、誰を信じないか――その選択すら、黎妃様は私に託したのだから。

 *

 黎貴妃のところから戻ると、春明はすぐに小蘭の房へ向かった。
 
「先生、いますぐここに、日鳳を連れて来て」
「しかし、その名は聞いたことがありますが、あいにく私には面識が――」
「お願い。……蒼龍の命に、関わることなの」
 
 ただならぬ物言いに、春明は多くを聞かなかった。
 
 何とかして日鳳を探し、いくばくかの化粧を施し、後宮に引き込んだのだが……。

「全く、あの夫婦は、揃いも揃って。一体どういう頭の構造をしているんだ」

 後宮北宮を大股歩きで闊歩しつつ、下手な女装姿の日鳳は春明に文句を言った。

「まあまあ……もう少しお淑やかになさってください。いくら人気のない北宮とはいえ、バレればただでは済みません」
 
「そんなことは分かっている! 私が知りたいのは」

 日鳳は、ジロリと春明を一瞥した。

「何故あの妃が、私にこんな格好をさせて。後宮になんか、呼びつけたのかということだ!」

 心持ち歩幅を小さくしながらも、日鳳は盛大に文句を言った。
「まあまあ……さあ、間もなく着きます。どうか穏便に」
 宥める春明に、日鳳は小さく舌打ちした。
 
「……ったく。大したことじゃなければ、覚えてろ」

 やがて見えるこぢんまりとした離宮。
 小蘭は、婆やと二人で待っていた。
 
「おい! 私が来てやったぞ。一体……わぷっ」
「早く」
 
 先扉をくぐるやいなや、小蘭は日鳳の首をひっ捕えると、寝台へと引っ張っていった。

「な、何を……小蘭妃――っ」
「さあ、春明様も」
 
 同じように、婆やが春明の手を引いてゆく。
「え、ちょっと……私も?」
 
「早く入って!」
 小蘭は、全員を寝台へと押し込むと、そのうえに天幕までを閉め切った。
 外の気配が、ふっと遠のいた。
 
「い、一体、何なんだ……」
 怒りを通り越し、もはや怯えた様子の日鳳に、小蘭は両手を合わせて謝った。
 
「ごめんなさい。日鳳に……先生。でも、誰にも聞かれたくないの。……あのね」
 
  *

 天幕の中。
 黎妃の語った全貌を、話して聞かせた小蘭に、誰も、すぐには言葉を発せなかった。
 
「何という……そこまでするとは」
 春明は、小声のまま声を震わせた。
 
「……」

「私、皇帝が戦場に着く前に、このことを蒼龍に伝えなくちゃいけない。でも、どうしたらいいか分からない。だから……」

 一拍置いて、小蘭は日鳳を見つめた。 

「知恵を貸してほしい」

 噛み締めっぱなしの唇から、血の味がする。
 
「……そうですね……相手が皇帝だけに、普通の伝令は使えませんし。とすると、やはり信に足る人物に届けさせるしかありませんが……」

 いつも冷静な春明が、今日は絹の敷布シーツの端を無意識に握りしめていた。
 
「生憎……私の知り合いは宦官ばかり、荒事にむく人はいません」
「……そう」
 小蘭は、日鳳をちらりと見た。
 しかし彼は、腕組みをしたまま、怖い顔で空を睨み続けている。

 ややあって。
 
「……やはり、私が行くしかないだろうな」
 
 その声は低く、迷いがなかった。

 日鳳が、すっと立ち上がる。
 その視線は、誰よりも遠く――戦場を見ていた
 
 誰も、息をする音さえ立てなかった。

「くそっ……これは、私の誤算ミスだ。まさか曹がそこまでやるとは……」
 ガンッ。
 寝台の横木に、拳を突く。
「……私が、余計な策を弄さなければ……っ」

 そんな彼に、全く無遠慮に婆やが尋ねた。
「でもあなた、本当に大丈夫なんですか? そんな可笑しげな格好をして」

 自分より小柄で、ひょろりと痩せた日鳳に探るような目を向ける。
 
 彼はカッと目を剥いた。
「いつもこんな格好をしてるわけじゃないっ!……誰の為だ、全く」

「日鳳……本当に、大丈夫?」
「ああ、他の誰かに託せる内容じゃない……しかし」
 
 日鳳はまた、難しい顔に戻っていった。

「早駆け、遠駆けは得意じゃない。……皇帝より先に辿り着けるかは、正直微妙だ」

 重たい沈黙が、寝台の上に落ちた、その時だった。
 
「……ねえ、日鳳。私、心当たりがあるわ。強くって、忠誠心があって……お仁王様みたいな人」

「え?」
 小蘭の顔に、南の注目が集まった。
 ハッとして、日鳳が顔を上げる。

玄武ジョアンウーか!」
「そう! 蒼龍は、彼を『国一番の守りの要』だと言ったわ」

 しかし日鳳は、眉根に深い皺を寄せた。

「確かに、彼が着いていれば……しかし玄武は、蒼龍が小蘭妃あなたのためにつけた護り。それを……私が勝手に動かすことを、蒼龍が許すはずがない」
 
「大丈夫よ!……私、自分の身はちゃんと守るわ。それに……日鳳だって分かってるでしょう。
 小蘭は、日鳳をじっと見つめた。

「今はそんな事を言ってる場合じゃない」
 
「……小蘭妃」
 苦渋を滲ませ、顔を上げた日鳳に、婆やが笑った。
 
「そうですよ、小蘭様のことは、この婆やにお任せを。その護りも、蒼太子あってのこと」

「……すまない、恩に着る」

 日鳳は、寄り添う二人に向かって拱手し、礼をした。

 身体に、感覚がもどってゆく。じわりと目頭が熱くなってゆくのが、小蘭にはようやく分かった。

「さあ、そうと決まれば。出立は、一刻でも早い方がいい。急ぎましょう」
 春明の言葉で、にわかに場が動き始める。
 
 それからは、速かった。
 小蘭は延禧宮門へ駆け、騒ぎを起こして玄武を引きずり込んで、説得した。
「きっと、命がけの旅路になるわ……引き受けてくれる?」
「ふーむ……俺はお前を護るのが仕事だが……そういうことなら引き受けたぞ。……何だ日鳳、そんなしみったれた顔をするな。俺に任せておけ!」
 
 豪快な玄武の笑い声は、その場にいた全員に勇気をくれた。
 
 そうして、日がすっかり暮れた頃。
 
 月が雲間に隠れた隙に、ひっそりと馬を引いて、男ふたりは後宮を出立した。
 
 蹄の音が、闇に吸われるように消えてゆく。

 ――これで、出来ることは全てやった。

 そう思った途端、張り詰めていた糸が、ふっと緩んだ。
 同時に、胸の奥から、遅れて不安が滲み出してくる。

 間に合うのか。
 
 ――後宮という檻の中で、私は祈ることしかできない。
 
 小蘭は、ただ闇を見送った。
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