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第三章 帰還
74 超えてはならない線
しおりを挟む(決して、誰にも聞かれてはいけない話よ)
小蘭が動きを止めると、黎妃様は小声で耳打ちを始めた。
(昨夜、閨に呼び出されたわ。陛下はひどく上機嫌で……私に、恐ろしい計略をお話になられた)
どくん。
背中越しに、黎妃様の心の臓が大きく脈打つのが伝わってきた。
(今、夏国が南方に戦に出ていることは知っているわね? その総大将が、蒼大哥であることも)
じっとしたまま、コクリと頷く。
(……昨夜、陛下は、私にこう仰せになったわ──)
*
「貴妃よ。明日から余は、南征中の蒼龍を、見舞いに行こうと思うておる」
「まあ、それは。陛下のご慰問とあれば、兵たちの士気もあがりましょう。この戦もすぐに終わって」
「終われば……蒼龍が戻ってくるな。クックッ……それが本音か? 貴妃よ」
「わ、私は、決してそのような」
「よい、余は全て解っておるのだ……彼奴はな、余に対して謀叛を企んでおる。そなたを余から奪うためにな」
「――また、悪い冗談を」
「……冗談、か。クックッ、見事な芝居だ。しかし、残念だったな、貴妃よ。余は決めたのじゃ。お前たちの思い通りにはさせぬ。……蒼龍を、自ら成敗してくれようと」
「――! な、なりません陛下、そのような恐ろしいこと。蒼太子は、決して陛下に叛意など持っておりませぬ! どうかお考え直しを」
「黙れ!!」
「痛っ……!」
「女の分際で余に意見するとは! そもそも、こうなったのは誰のせいじゃ? 貴妃、そなたに原因があるのだぞ」
「あっ、私は決してそのような……!」
「そなたが……いつまでも蒼龍を忘れぬからだ……そなたが、余をいつまでも愛さぬから。だから余は」
「違います、私は皇帝陛下を愛して……ああっ」
*
「そんな……」
(しっ、声を出さないで。私も、もう冷静では居られなかった)
ひくっ。咽喉をしゃくりあげる音。
(この怪我は、陛下に口応えをしてしまったために出来たものよ。皇帝は、ついに超えてはならない線を超えてしまった……)
(でも! 蒼龍は、たった一人の実子だわ)
(きっと誰かが、皇帝に嘘を吹き込んだのだわ……恐ろしいことを)
(何故? どうしてそんな事を)
(後宮《ここ》では、そんなことばかり。でも……)
黎貴様は、再び小蘭を抱きしめた。
(ねえ小蘭、いくら蒼大哥でも、まさか皇帝から手を下されるとは思っていない。……油断したところをやられたら、ひとたまりもないわ)
黎貴妃の震えが、小蘭にまで伝播したようだった。
(蒼大哥を、助けたいの。遠い南に伝えたい。なのに私には……文を出すことさえ赦されない……どうしたらいい?)
熱い涙が、黎貴妃の顔が触れている小蘭の髪から伝わった。
(私。もし蒼大哥が居なくなってしまったら。もう……生きていたくない)
しばらくの間、小蘭は何も言えなかった。
黎妃様の熱い身体に抱きしめられているのに、手足の末端がやけに冷たく感じる。
その癖、頭には熱い血が巡り、心臓はどくどくと、大きな音を立て、動いていた。
(どうしたらいい?)
やがて、小蘭はもぞもぞと動いて腕の中で身体の向きを反転させた。
震えている黎妃様の背中へ腕を回し、ぎゅっと抱き締めて返す。
(分かったわ。このことは――私が、蒼龍に必ず伝える)
(でも、でも! 陛下は今日、僅かなお供を連れて、既に発たれてしまった。戦地までは十日と少し。間に合う?)
(何とかする。その代わりに、黎妃様もひとつ、私と約束して)
(約……束?)
小蘭は、黎妃様の少し膨らんだお腹をそっと撫でた。
(黎妃様が仰ったとおりよ。親が子を殺めるなど、あってはならない)
(小蘭、私は)
(私ね、本当はーー黎妃様にずっと嫉妬してた)
(小蘭が、私に?)
(……うん。だって蒼龍は、きっと今も黎妃様のことが大好きだから。でも、今は違う。信じて、話してくれたことが嬉しかった)
小蘭は、黎妃の背中を撫で、そっと目を伏せた。
(黎妃様。蒼龍は、貴女が居なくなったらきっと人が変わっちゃう)
びくりと黎妃が肩を震わせる。
(分かるの。黎妃様は、きっと我が子を一人で逝かせたりしないから。私、そんなのは嫌。蒼龍にも黎妃様にも、ふたりに笑っていて欲しい)
(小蘭、私)
(きっと伝えるわ。あとは蒼龍の力を信じる。貴女は元気な赤ちゃんを産んで、蒼龍はぴんぴんして都に帰ってくる……信じなくちゃ)
小蘭は、もう一度彼女をぎゅっと抱き締めた。
黎貴妃は声を出さずに、身体を震わせて泣いていた。
何度も頷いているのを、背中越しに感じた。
「ぷあっ」
少しして、羽根布団を放りあげ、小蘭が布団から顔を出した。
ずっとそうしていたのか、先生が耳を塞いだ格好のまま、怖るおそる振り返る。
「……。そろそろ終わりましたか?」
「ん……私、目覚めたかも」
布団の中での話などなかったかのように、小蘭は冗談めかして笑って見せる。
「は? な、何をいってるんですか? 黎妃様もおいたが過ぎますよ。お怪我をされているというのに」
「エヘへ、ゴメンなさぁい。妹みたいで可愛くて、つい」
黎妃様も、示し合わせたように合わせてくれる。その息の合いように、小蘭は驚いていた。
「さて、そろそろ戻りましょうか。時間がいつもよりかかってしまった。黎妃様、くれぐれもお大事に」
帰り際、黎妃様と目が合った。
小蘭は小さく頷いて、視線にこめられた想いに返事をした。
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