後宮恋歌――人質妃ですが、守られるだけでは終わりません

佳乃こはる

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第三章 帰還

85 最後の穏やかな朝

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 春。

 夜霧がずっしりと重たく、ふたりの眠りの上に落ちていた。

 ここのところ小蘭は、眠りの底に沈みきれず、何度も浅い呼吸を繰り返していた。

 心のざわめきは、この間の蒼龍の言葉を思い出させる。

『このまま、ここで君と生きて――』
 
 放たれた言葉に、一瞬、胸が躍った。それが彼の本心ならば、どんなに幸せだっただろう。
 
 蒼龍が、全てを捨てて私と生きる。
 私は彼の子を産んで、ごく普通の〝家族〟として。
 
 けれど、彼は剣を取った。
 その仕草に、浮き足立つ心は一気に冷えた。
 
 二月ふたつき経っても、日鳳からの報せが来ない。

 理由は分からない。ただ、胸の奥に名もないざわめきが居座った。

 もしかしたら松露が――


 
 小蘭の、その感覚は正しかった。

 街の入り口に植えられた、桃の花が、三分ほど開いたある日のこと。

 コン、コン。

 早朝、木戸を叩く音で小蘭は目を覚ました。
 こんな早くに、客人など珍しい。

「小蘭、俺が」
 
 蒼龍が、立ち上がろうとする小蘭の袖を引いた。
 枕元から、するりと抜き身の剣を取る。

「大丈夫よ。……気を付ける」

 小蘭は、その手を放して戸口へ向かった。
 万が一なら、準備が要る。
 確認するのは、蒼龍よりも自分の方がいい。
 
 無論、戸はすぐに開けない。
 窓にかかった葦簀よしずをめくり、ちらっと外を確認する。

 すると、

「陳さん!」

 ピョコピョコとつま先立ちをしているのは、向かいの店の陳さんだった。
 その顔が、三角の隙間に現れては消える。
 
「その……」
 
 その様子が、少しおかしかった。
 泣き腫らしたような目で、落ち着きなく、こちらの顔色をうかがっている。

「どうしたっていうの? 一体何が……」

 小蘭が、扉を開けた直後だった。

「あうっ……」

 強い力が腕を引き、小蘭は外に引きずり出された。
 
 そうして、愕然とした。
 家の周りは、真っ赤に金の縁取りの「曹」の旗で取り囲まれている。

 ――しまった、しくじった。

「白虎っ……っ!」

 蒼龍に向かって叫んだと同時に、後ろから身体を羽交い締めにされた。

 口を掌でふさがれる。

 背後で寝台がきしむと同時に、家の中に足音がなだれ込んだ。

 ほどなくして、男たちの怒声に、剣がぶつかる乾いた音が耳に届く。

「ぐあっ……」
「うぐっ……」

 バァンッ!

 次々と、狭い出口から投げ出される兵士たち。
 やがて、剣を携えた蒼龍がのっそりと姿を現した。

「彼女を放せ! ……この剣に、血を吸われたくないならば」

 凄まじい殺気に、取り囲む兵たちが、じりじりと後退する。

(蒼龍!)

 小蘭が、微かな期待に目を輝かせた。
 その瞬間。
 
 小蘭の喉元に、ヒヤリと冷たい感覚が当たった。

「――おい、こっちを見な!」

 甲高く、しかしドスの効いた声に、蒼龍がすぐさま視線を移す。

 小蘭の前に立ったのは、ひときわ紅い、立派な鎧を纏った女兵だった。

「そこまでだ。アンタ、この女がどうなったっていいのかい?」

 にいっと口の端を上げる。

「……くそっ」
 蒼龍の足が止まると、女はほくそ笑んだ。

 その時。

「……!」
 羽交い締めにされたままで手足をバタつかせ、小蘭が暴れ出した。

「うわっ、なんだコイツッ……!」

 口を塞いでいる男の指に、ガブリとかぶりつく。
 思わず男が手を引いて、口の圧迫から解放された。

 同時に、思い切り叫んだ。

「逃げて、はやくっ」

 瞬間。

 プツリと小さな音とともに、小蘭の首の辺りがカッと熱くなった。

 皮膚の破れた音とともに、喉元にぬるい熱が伝わってゆく。

 見ると、女の肩から細身の刃が、小蘭の首に伸びていた。

 はあっ……。
 女はひとつ息を吐き、喉を鳴らした。

 蒼龍を見据えたままで、ぞくり、と背を走るものを楽しむように、細い肩を震わせる。
 
「……っ! やめろっ」
「動くんじゃないっ」

 被せるように、甲高く鋭い声。
 蒼龍の身体が、石のように固まった。
 
 女は、うっとりと目元を細めると、肩を捻り、剣先を回した。

(っ……!)

 刃先に穿たれ、肉がきしんだ。気の遠くなるような痛みに、小蘭の身体は勝手に震えた。
 
「さあ、こいつは命令だよ。剣を捨てな。逆らえば女がどうなるか……分かるだろう?」
「くっ……」
 
 蒼龍の額に、汗が滲む。
 女は、ニイッと嘲笑を浮かべた。
 
「――っ!」

〝大丈夫〟と叫ぼうとするも、喉がひくりと震えただけだった。

 ややあって、

 ――カラン。

 小さな舌打ちとともに、蒼龍は剣を放り投げた。

 それを見るや、女は強く言い放つ。

「捕らえろ!」

 蒼龍の立っていた場所に、あっという間に兵士の黒い小山が築かれて――

 蒼龍の姿が、中に飲み込まれていった。
 
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