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第三章 帰還
98 夜明けの産声
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東の空が白む前に、迎えは来た。
「そうか、もう行ってしまうのか。まだ、少しだけよくないか?」
「ええい鬱陶しい、それが国を統べる男のすることか。いい加減に離れろっ!」
いつまでも小蘭の袖を引っ張る蒼龍から、日鳳は無理やり小蘭を引き剥がした。
「じゃあな。また、十日後」
「うん、蒼龍も……無理しないでね」
「小蘭……」
「行くぞっ」
じわりと瞳を潤ませ、名残惜しそうに手を伸ばす蒼龍。
その手をとりかけた小蘭の肩を推し、日鳳は歩を速める。
宮廷の門を出た辺りで、小蘭は周囲を見渡した。
「あれ、春明先生は?」
「ええ……緊急のご用だそうです」
「ふうん」
――何だろう。
胸に違和感を残しつつも、小蘭はさっと話を切り上げた。
「では、私はここで。すぐ門の手前まで、袁婆様が迎えに来ておられる筈です」
後宮の門の手前で立ち止まると、日鳳は別れを告げた。
「ありがとう日鳳……また会えるよね?」
一瞬、日鳳の眉間に刻まれた皺がすっとほどけた。
「ええ、必ずや」
拱手のまま見送る日鳳に手を振ると、小蘭は踵を返した。
数十歩先は、延禧宮門、後宮の入り口だ。
敷居を跨いだすぐそこに、婆やが待ち構えていた。
そわそわと身体を揺すり、小蘭をみると、挨拶もそこそこに歩き出す。
「小蘭様、早く」
「ち、ちょっと待ってよ、どうしたの?」
慌てて尋ねた小蘭を振り返りもせず、婆やは足を早めた。
「とにかく、今は急いで!」
「……もう」
婆やに急かされ、小蘭は仕方なく後を追った。
婆やは、転がるように診療所へ滑り込むと、戸を閉めて小蘭を振り返った。
「黎貴妃様が――産気づかれました」
「えっ」
眼を丸くした小蘭。
「春明先生は、夜中からお側に付きっきり。小蘭様も、お急ぎくださいませ」
――黎妃様の、赤ちゃん。
「ねえ、私にも手伝わせて。馬も羊も、ヤギだって出産介助をしたことがあるわ」
先をゆく婆やの隣に並ぶと、小蘭は顔を覗きこんだ。
「人とヤギを一緒にしなさんな。……ま、人手は足りないし、後学のために見ておかれるのもよろしいでしょう」
「はいっ」
「あ、ちょっと!」
小蘭は、勢い込んで廊下を駆けだした。
診療所の奥、さらに奥。
灯りを落とした小部屋に、春明と婆やしかいなかった。
戸の隙間には布が詰められ、外の気配を遮っている。
チリ、と蝋燭が弾けた。
その微かな音に紛れ、黎妃の苦しい吐息が、戸口の布に吸い込まれてゆく。
湯から上がる白い湯気が、頬にまとわりつき、息が自然と浅くなった。
「お帰り小蘭。袁殿、早々ですまないが、お湯を沸かしていただけるか」
「はいよ、任せて」
婆やはまた、すぐに出ていった。
「苦しい時間が……少し長引いているようです」
たすき掛けをした春明が、額の汗を拭きながら、低く告げる。
「あ、小……蘭」
うわ言のように名を呼ばれ、小蘭は寝台に駆け寄った。布団から出ている彼女の手を、ぎゅっと握る。
「黎妃様、苦しいの?」
黎妃は、ふっと微笑んだ。
「ええ……とっても。小蘭、腰のあたりを摩ってちょうだい」
小蘭が言われた通りにすると、彼女の苦しい息が少し穏やかになってきた。
「ああ……楽になっていくわ」
「少し痛みが遠のいたのかも知れません。今のうちに、力を回復させましょう」
春名の声が穏やかになる。
黎妃は、腰を摩っていた小蘭の手を、自分の頬に引き寄せた。
「ありがとう、とっても落ち着くわ……何だか蒼大哥の匂いがする」
小蘭の胸が、ちくりと痛んだ。
さっきまで蒼龍と一緒にいたのだ。そんな言葉、黎妃にどうして言えようか。
子どもみたいにぎゅっと手を握る黎妃に、小蘭は黙って寄り添った。
「ねえ先生……赤ちゃんを産むのって、とっても大変。私、きちんと出来るかしら。ちゃんと母さまになれるのかしら」
春明はふっと微笑むと、黎妃の額に浮いた汗を拭いた。
「ええ、ええ出来ますとも。これまでも、恐ろしいものから、たったひとりでお子を護ってきたのですから」
「そう……かしら。くっ……」
再び痛みが強まって、黎妃は小蘭の手をひときわ強く握りしめた。
春明の顔が、引き締まった。
「ああ……そろそろだ。さあ、頑張りましょう――心強い方も、戻って参られました」
戸口が開いた。
「春明さま――!」
「袁殿、ご苦労さまです。たらいに湯を張って。小蘭様は、汗を拭いて差し上げて。袁殿、手伝いを頼みます」
蝋燭の光を受けて、床のまわりに集まる影が重なる。
春明が、声を鋭くした。
「さあ、黎妃様は少し力を込めてみましょう。私の合図とともに。息を吐いて、一、二――」
「――っ!」
黎妃のつま先がぴんと張り、足指が白布を掴んだ。
*
夜明け。
その御子は、山の端から太陽が覗き始める頃、ようやく産声をあげた。
「おお、何と元気のよい……長く苦しんだのが嘘のようだ」
取り上げた春明が、ふうっと長く息を吐いた。
「どっち?」
赤子の顔を見るのもそこそこに、黎妃は真っ先にそれを尋ねた。
「女児ですよ、おめでとうございます」
春明の頬が、わずかに緩んだ。
婆やが息を呑み、ゆったりと吐く。
黎妃の肩が、ふっと落ちた。
「良かった……本当に良かった」
暫くは、感極まって泣いていた黎妃だったが。
その後は急に元気になって、生まれて間もない赤ちゃんの抱き方を教わったり初乳を与えたり、てきぱき世話を焼き始めた。
――子を産むのって、本当にすごい。
私もいつか、あんなふうになれるのかしら。
小蘭は、声をかけることも忘れ、ただじっとその姿を見つめていた。
産声に、胸が震えた。
けれど、この子は――先帝の子。
そして私は、黎妃の愛する男を奪ってしまった。
まだ手に残るその温度が、消えない罪の証だった。
「おめでとう」が、喉につかえた。
ふと、黎妃が顔を上げた。
「小蘭……?」
小蘭は、赤子の小さな泣き声に、逃げるように目を伏せた。
「そうか、もう行ってしまうのか。まだ、少しだけよくないか?」
「ええい鬱陶しい、それが国を統べる男のすることか。いい加減に離れろっ!」
いつまでも小蘭の袖を引っ張る蒼龍から、日鳳は無理やり小蘭を引き剥がした。
「じゃあな。また、十日後」
「うん、蒼龍も……無理しないでね」
「小蘭……」
「行くぞっ」
じわりと瞳を潤ませ、名残惜しそうに手を伸ばす蒼龍。
その手をとりかけた小蘭の肩を推し、日鳳は歩を速める。
宮廷の門を出た辺りで、小蘭は周囲を見渡した。
「あれ、春明先生は?」
「ええ……緊急のご用だそうです」
「ふうん」
――何だろう。
胸に違和感を残しつつも、小蘭はさっと話を切り上げた。
「では、私はここで。すぐ門の手前まで、袁婆様が迎えに来ておられる筈です」
後宮の門の手前で立ち止まると、日鳳は別れを告げた。
「ありがとう日鳳……また会えるよね?」
一瞬、日鳳の眉間に刻まれた皺がすっとほどけた。
「ええ、必ずや」
拱手のまま見送る日鳳に手を振ると、小蘭は踵を返した。
数十歩先は、延禧宮門、後宮の入り口だ。
敷居を跨いだすぐそこに、婆やが待ち構えていた。
そわそわと身体を揺すり、小蘭をみると、挨拶もそこそこに歩き出す。
「小蘭様、早く」
「ち、ちょっと待ってよ、どうしたの?」
慌てて尋ねた小蘭を振り返りもせず、婆やは足を早めた。
「とにかく、今は急いで!」
「……もう」
婆やに急かされ、小蘭は仕方なく後を追った。
婆やは、転がるように診療所へ滑り込むと、戸を閉めて小蘭を振り返った。
「黎貴妃様が――産気づかれました」
「えっ」
眼を丸くした小蘭。
「春明先生は、夜中からお側に付きっきり。小蘭様も、お急ぎくださいませ」
――黎妃様の、赤ちゃん。
「ねえ、私にも手伝わせて。馬も羊も、ヤギだって出産介助をしたことがあるわ」
先をゆく婆やの隣に並ぶと、小蘭は顔を覗きこんだ。
「人とヤギを一緒にしなさんな。……ま、人手は足りないし、後学のために見ておかれるのもよろしいでしょう」
「はいっ」
「あ、ちょっと!」
小蘭は、勢い込んで廊下を駆けだした。
診療所の奥、さらに奥。
灯りを落とした小部屋に、春明と婆やしかいなかった。
戸の隙間には布が詰められ、外の気配を遮っている。
チリ、と蝋燭が弾けた。
その微かな音に紛れ、黎妃の苦しい吐息が、戸口の布に吸い込まれてゆく。
湯から上がる白い湯気が、頬にまとわりつき、息が自然と浅くなった。
「お帰り小蘭。袁殿、早々ですまないが、お湯を沸かしていただけるか」
「はいよ、任せて」
婆やはまた、すぐに出ていった。
「苦しい時間が……少し長引いているようです」
たすき掛けをした春明が、額の汗を拭きながら、低く告げる。
「あ、小……蘭」
うわ言のように名を呼ばれ、小蘭は寝台に駆け寄った。布団から出ている彼女の手を、ぎゅっと握る。
「黎妃様、苦しいの?」
黎妃は、ふっと微笑んだ。
「ええ……とっても。小蘭、腰のあたりを摩ってちょうだい」
小蘭が言われた通りにすると、彼女の苦しい息が少し穏やかになってきた。
「ああ……楽になっていくわ」
「少し痛みが遠のいたのかも知れません。今のうちに、力を回復させましょう」
春名の声が穏やかになる。
黎妃は、腰を摩っていた小蘭の手を、自分の頬に引き寄せた。
「ありがとう、とっても落ち着くわ……何だか蒼大哥の匂いがする」
小蘭の胸が、ちくりと痛んだ。
さっきまで蒼龍と一緒にいたのだ。そんな言葉、黎妃にどうして言えようか。
子どもみたいにぎゅっと手を握る黎妃に、小蘭は黙って寄り添った。
「ねえ先生……赤ちゃんを産むのって、とっても大変。私、きちんと出来るかしら。ちゃんと母さまになれるのかしら」
春明はふっと微笑むと、黎妃の額に浮いた汗を拭いた。
「ええ、ええ出来ますとも。これまでも、恐ろしいものから、たったひとりでお子を護ってきたのですから」
「そう……かしら。くっ……」
再び痛みが強まって、黎妃は小蘭の手をひときわ強く握りしめた。
春明の顔が、引き締まった。
「ああ……そろそろだ。さあ、頑張りましょう――心強い方も、戻って参られました」
戸口が開いた。
「春明さま――!」
「袁殿、ご苦労さまです。たらいに湯を張って。小蘭様は、汗を拭いて差し上げて。袁殿、手伝いを頼みます」
蝋燭の光を受けて、床のまわりに集まる影が重なる。
春明が、声を鋭くした。
「さあ、黎妃様は少し力を込めてみましょう。私の合図とともに。息を吐いて、一、二――」
「――っ!」
黎妃のつま先がぴんと張り、足指が白布を掴んだ。
*
夜明け。
その御子は、山の端から太陽が覗き始める頃、ようやく産声をあげた。
「おお、何と元気のよい……長く苦しんだのが嘘のようだ」
取り上げた春明が、ふうっと長く息を吐いた。
「どっち?」
赤子の顔を見るのもそこそこに、黎妃は真っ先にそれを尋ねた。
「女児ですよ、おめでとうございます」
春明の頬が、わずかに緩んだ。
婆やが息を呑み、ゆったりと吐く。
黎妃の肩が、ふっと落ちた。
「良かった……本当に良かった」
暫くは、感極まって泣いていた黎妃だったが。
その後は急に元気になって、生まれて間もない赤ちゃんの抱き方を教わったり初乳を与えたり、てきぱき世話を焼き始めた。
――子を産むのって、本当にすごい。
私もいつか、あんなふうになれるのかしら。
小蘭は、声をかけることも忘れ、ただじっとその姿を見つめていた。
産声に、胸が震えた。
けれど、この子は――先帝の子。
そして私は、黎妃の愛する男を奪ってしまった。
まだ手に残るその温度が、消えない罪の証だった。
「おめでとう」が、喉につかえた。
ふと、黎妃が顔を上げた。
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