後宮恋歌――人質妃ですが、守られるだけでは終わりません

佳乃こはる

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第三章 帰還

97 救えないもの、救いたいもの

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 蒼龍……。
 ごつごつした手の筋を、無意識に指でなぞる。

「小蘭」
「……何?」
 蒼龍は、低い声でつぶやいた。

「俺は、曹の背中を見ながら、まつりごとを学んだんだ。最後は、とびきり苦い教えをくれたが……」

 蒼龍は喉を詰まらせ、言葉を切った。
 
「二度は言わない。だが、一度だけ……言わせてくれ。俺はあいつが好きだった。……生命を……奪いたくはなかった」

 腕の下に隠した顔から、一条の涙が溢れ落ちた。

「……いいよ」
「え?」
 
 独り言のように呟いた小蘭に、蒼龍が意識を向ける。
 すると小蘭は、顔を覆ったままの腕に、手を添えた。

「ね、顔見せて?」
 
「……嫌だよ、かっこ悪い」
「かっこ悪くないよ」
 小蘭は、顔の上にある手首を、やんわり握った。
 
「本当は、何回だって泣いていい。でも……」

 蒼龍は、息を詰めて小蘭を見ている。
 
「蒼龍には、それができない立場がある。でも、私にだけは、何十回でも本当の気持ちを教えて」
「小蘭」
 彼の腕から、力が抜けた。
 小蘭は、彼の腕をゆっくりと顔から剥がし取る。
 覗きこむと、そこには少年のような泣き顔がある。

「は……はは」

 泣きながら照れ笑いする蒼龍に、小蘭はクスリと微笑んだ。

「日鳳や白虎。皆、そうやって悩む蒼龍だから、好きなんだよ」

「曹を憎む理由なら、いくらでもある。それでも俺は……」

 蒼龍の声は、途切れ途切れに続いた。小蘭は、ただ指を絡めたまま、離さなかった。
 
 ふと、考えた。
 彼の父――残虐な覇王にだって、もしも吐き出す場所があったら――

 ふと背中に寒さを感じて、小蘭は、首の黒曜石を握りしめた。
 その石が、温かい熱を放った気がした。

 *

「もうひとつ……君には聞かせるなと、釘を刺されてはいたんだが」
「何?」

 小蘭に全てを吐き出した蒼龍は、すっかり落ち着いていた。
 少し迷った後、話し始める。

凛麗リンリィのことだ」

 凛麗――曹丞相のひとり娘で、蒼龍の幼馴染かつ、元の許嫁。
 ちくりと、胸に刺さった小さな棘が疼いた。
 指先が、無意識に白布を掴む。

「今回捕らえられたのは、曹だけじゃない。多くの家族や親族が獄に繋がれ、刑が下るのを待っている。……凛麗もまた」

「どうなるの?」
 誰にでも想像はつくこと。
 それでも聞いたのは、蒼龍の真意を確かめるためだ。

「曹の罪は、最も重い王家の簒奪。凛麗は、曹家の直系だ。法に照らせば、三族はーー極刑」

 凛麗は、小蘭にとって決して忘れられない相手。
 一度は命まで奪われかけた。
 それでも。

 
「蒼龍は……どうしたいの?」
「……せめて、命だけは助けたいと思っている」
 
 聞いた瞬間、身体の奥がひやりと冷えた。
 
 彼女には、蒼龍の知らない場所で散々酷いことをされてきた。
〝あんな女、放っておけばいいじゃない〟そんな気持ちが先に立つ。

 もし、ここで彼女が死ねばーー
 この胸の痛みも、消えるのだろうか。
 
 けれど、それを口にした瞬間、蒼龍は私を、どう思うだろう。
 この人は、憎しみよりも、背負うほうを選ぶ。
 なら、その隣に立つ私は、どんな顔をしていればいい?
 
 小蘭の思惑など知らぬことのように、彼は胸の内を語り出した。
 
「俺は、獄に繋がれた彼女に接見した」

 *

 凛麗の取り乱し様は、見るに耐えないものだった。

『嫌です、何かの間違いです! お父様が、そのようなことをなさるはずがありません。蒼さまぁっっ!』

 ――彼女は、鉄格子から手を伸ばして、俺の足に縋り付いた。

『こら女、太子様から離れぬか』
『いやっ、汚い手で触らないでっ。蒼様……お慕いしております。ふふっ……もうすぐ私たちは夫婦めおとになるの。そうよね、蒼さま』

 目の前で、刑吏どもに取り押さえられ、髪を振り乱す凛麗。

 だが、どんなに名を叫ばれても、俺から声は掛けられない。出来ることは、目を逸らさず、起こっていることの全てを網膜に焼き付けることだけだった。

 *
 
「……方法があるの?」
「……ひとつだけ」

「どんな?」
 
 即、尋ねた小蘭に、蒼龍の声がわずかに弾んだ。

「あ、ああ。実は、似た状況で助命された例があった。それは、皇后太后、その他大勢の助命嘆願」
 
「私が、それを集めればいいってことね?」

「ああ……ただし、簡単じゃない。曹家は、宮中で人気がない。いくつ集めれば足りるかも定かではない。それでも――」

「やってほしいのよね?」

 蒼龍はすまなさそうに眉を下げた。
 
「頼まれて……くれるか?」

『嫌いではない、だが、結婚の相手ではない』
 以前、凛麗について尋ねた時、蒼龍は言った。

 それが恋ではないことくらい、分かっている。
 それでも、胸の奥は鈍く痛んだ。
 

「……やってみるわ。私、顔だけは広いの」
 
 小蘭は、拳を握りしめた。
 それが、彼の目にどう映るかを、考えないふりをして。
 
 蒼龍の声が、じわりと湿り気を帯びた。
 
「その……すまない」
 
「……ううん。皇帝って、一番偉くって、何でも思い通りだと思っていたけど。実際はそうじゃないんだね」

「周りの声を聞かず、独断に走ると、親父のように身を滅ぼす。かといって、優柔不断はいけない。……なんてな、これも曹から教わったんだっけ」

 悲しげな顔をした蒼龍の頭を、小蘭は無意識のうちに撫でていた。
 それに気づき、蒼龍がその手を握る。

「……ごめん、小蘭。君にこんなことを。俺は、いつも君に救われてばかりだ」
「ううん、助けてもらったのは……私の方が多いわ」

 蒼龍は、金の髪を掬い上げて口づけた。
 やがてその唇は、耳朶を伝って輪郭をかたどってゆく。
「……ありがとう、小蘭」
 
「蒼……」
 少しのくすぐったさと、教わったばかりの快感に、夢見心地に身を任せる。
 
 すると、風もない奥の間で、悲鳴のような風音が聞こえて、小蘭はぞくりと身を震わせた。
 小蘭の胸に、冷たいものが走る。

「……どうした?」
 ぎゅっと身を固くした小蘭を、蒼龍が心配そうに見下ろしている。
 
「う、ううん、何でもない」
 小蘭にも、何がなんだか分からなかった。
 
 ただ、黒曜石が一瞬冷え――鉄格子の向こうで、爪を立てる音が重なった……気がした。
 
 その理由を考える前に、蒼龍の腕が小蘭の頭を包み込んだ。

「そうだな……初めてなのに、つい嬉しくて。今日はもう、眠ろうか」
「……ん」
 
 さっきのは、一体何だったんだろう。

 蒼龍の腕枕に抱き寄せられながら、小蘭は漠然とした不安を、甘やかな夢の中に埋めてしまった。
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