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第三章 帰還
96 皇帝になる瞬間
しおりを挟む「少し無理をさせたか……もう少しその……優しくするつもりだったんだが」
蒼龍は、肩で息をする小蘭を自分の胸に引き寄せた。
彼女の掌が傷に触れた瞬間、制御が効かなくなり、気づけば夢中で抱いていた。
「……ううん、私だって、ちょっとはその……期待してたから」
口ごもった小蘭に、蒼龍はふっと砕けた。
「そう言われると……少し照れる」
蒼龍は、小蘭の頭をかき抱き、ぐしゃぐしゃにした。
「もう!」
「はは、悪い」
桃のように膨らませた頬。
その様が、ただ愛しい。
「こっちに着いて、ごたごたが終わった後も、本当に忙しくってさ」
蒼龍が、金の天蓋を見上げながら呟いた。
「そのまんま、この部屋から一歩も出ていない。……親父も歴代の御先祖も、きっと多くの時間をここで過ごしたんだろうな」
「ふうん、皇帝って、遊んでばっかりってわけじゃないんだ」
出会い頭から、小蘭の「皇帝」の印象は良くない。何せ前皇帝は、まだ十六だった自分を、黎妃様に振られた腹いせに、玩具にしようとしたのだ。
蒼龍か、苦笑した。
「まあ、色んな皇帝がいたんだろう。……今はやることは山積みで、そんな日がくるとはとても思えないがな」
「何せ、私をここに引っ張り込むくらいだもんね」
「ちぇ、言ってくれるな」
いつもの空気が、戻ってきた。
おかしなもので、広い寝台の真ん中でも、ふたりはあの狭い竹の寝台で身体を暖めていた時のように身を寄せ合う。
「でも……私は嬉しかったよ? そうでもしないと会えさえしないもの」
「そうか。じゃあ、七日間も日鳳に駄々を捏ねたかいがあった」
「やだ、そんなに?」
ふと、燭台の蝋燭が短くなっているのが目に入り、蒼龍はひとりごちた。
「――あの夜は、曹丞相もこの部屋に居たんだ」
都に帰りついた夜。
その記憶は、蒼龍の中に鮮明に残っている。
「あ、悪い、その」
独り言が声に出ていたのに気づき、ハッと小蘭に意識を向ける。
すると小蘭はすでに聴く姿勢で、こちらの口が開くのをじっと待っている。
(全く。彼女には――敵わない)
翡翠の瞳が心の隙に入ってくると、身体が急に軽くなったように感じた。
気付けば蒼龍は、己の胸に添えられた小さな手の甲を撫でながら、心の内に溜まった澱みを吐き出していった。
「あの夜は――驚くほどすんなり事が進んでいったんだ」
*
王都は、拍子抜けするほどあっさりと落ちたんだ。
曹は俺を舐めていて、準備などしていなかったんだろう。あれよのうちに走り回り、気づけば俺はこの部屋に立っていた。
真夜中だった。
曹は夜着を着ていて、護衛もつけず、たった一人で文机について……本当に何も予測していなかったんだろう、俺を見て驚いていたよ。
奴は、最初こそ剣を抜いて立ち向かおうとしたが、こちらを見て、すぐに観念した。
急に目に涙を溜めると、「太子様、よくご無事で」ときた。
……相変わらずだ。
白虎の号令で捕えられると、
「太子、婿殿。これは一体、どういうことです?」
と、信じられないくらい無垢な表情で俺を見つめていた。
取り押さえられ、両腕を拘束された曹と俺が向かい合う。
日鳳が、冷酷に告げた。
「曹丞相、あなたには覇皇帝を弑虐したうえ、蒼龍太子をも亡き者にせんとした疑いがございます」
「日鳳……あれだけ目をかけてやったのに」
小さなつぶやきにも、日鳳は眉ひとつ動かさない。
曹は、ただ放心していた。
一瞬、虚無の表情を浮かべたが、すぐに表情を戻すと、切に涙を流して訴えた。
「わ、私めが、覇皇帝を……弑虐したと? 何と恐ろしい……あり得ない! それは、とんでもない誤解だ」
曹は、縄を打たれ、床に膝をつけたまま、くるくると周りを取り囲む兵たちに訴え、そして最後に俺を見た。
「蒼龍太子は我が愛娘、凛麗の許婚。以前より、皇家と我が家は、家族同様の付き合いだ。蒼龍太子……それを、なぜそのような」
奴は、真に悲しそうに俺を見つめた。
暫くの間、俺は奴と目を合わせていた……ように思う。
何だったかは忘れたが、俺は、何か声をかけようとした。
だが、俺が声を発しようとした瞬間に、白虎が吠えた。
「罪人を、獄へ送れ!」
俺は、奴がそのまま、咽び泣きながら地下牢へ連れていかれるのを黙って見ていた――。
*
「曹丞相は、蒼龍に命乞いをしようとしていたの? 蒼龍を――弑そうとしたのに」
悔しそうに唇を噛む小蘭を見て、蒼龍はすっと目を細めた。
「さあ……どちらかというとその時は、そこまでのことを考えていなかったんじゃないかな。奴は俺を甘く見ていたし」
ジジッ。
燭台がひとつ、音を立てて消えた。
部屋の明かりが一段落ちると、紅く昏く景色が揺れた。
「本格的に、奴がそれをしたのは、二日後だったよ」
*
審判は二日後、謁見の間だ。
重臣たちが固唾を呑んで見守る中、奴は、縛り上げられ、床に正座していた。
対する俺は、玉座にある。
皇后の座には母が座し、その左右に日鳳と白虎、廷尉が三人、左端に控えている。
曹は元々、恰幅の良い美男子だが……。
獄で苛め抜かれたのだろう、皇帝殺しの謀反人として引き出された奴は、酷く窶れ、ボロボロだった。
廷尉たちによる、形ばかりの尋問が始まった。
「曹権武。皇位を簒奪せんと企み、故覇皇帝に叛意を抱き、策を弄して暗殺した逆臣」
曹の目が、信じられないといった様子で周囲を見た。
「……またその際、皇帝を唆して蒼龍太子を弑し、その罪を太子になすりつけることをも画策した。全くもって悪逆非道極まりない」
廷尉が竹簡を巻き上げる音と、朗々とした声だけが、冷たく広間に響き渡る。
「こ、これは、何かの間違いです!」
曹は、縄を打たれ、床に膝をつけたまま、くるくると周りを取り囲む重臣に向けて訴えた。
「覇帝がお若い時から戦場に、政に邁進した……そんな自分が、皇家の簒奪など。これは罠でございます」
重臣どもが、気まずそうに目を逸らす。
……確かに、曹は優秀だ。
奴の弁明を聞いているうちに、俺は、奴が本気で国を憂いていたように思えてきた。
廷尉たちの厳しい責めに言い逃れが効かないと分かると、曹は、俺の情に訴えてきた。
「蒼龍太子。私はあなたがまだ、私の腰ぐらいの背丈だったころから存じ上げている。皇后様の後を追う貴方がいかに愛らしかったか! ねえ、皇后様」
曹は縄に縛られたまま、皇后を向いて訴えた。
「我が家に招いた折には、凛麗とままごと遊びをしたりして」
しかし皇后は黙ったまま。わずかに膝の上で指を組み直しただけだった。
そこで奴は、また俺の方を見た。
「……大人になった貴方様は、文に優れ武に優れ、それはご立派になられた。樊殿が剣術を、私が政を仕込んで差し上げたからです」
奴の目に浮かんだ涙が、広間の灯りを反射した。
「この際、はっきり申し上げます、太子。情で国は動きませぬ。私は、国を傾かせた愚かな老人よりも、聡明な貴方にお仕えしたい」
縄が軋む音がして、奴が、腹に力を入れたのが分かった。
「私なら、貴方の国造りのお役に立てます。蒼龍太子、いえ、蒼龍皇帝!」
その刹那、胸の奥に、小さな影が差し――気がつけば、俺は玉座から立ち上がっていた。
曹が差し出した未来は、俺と曹丞相が並び立つ国――理と才だけで支える、新しい秩序。そんな理想を、頭の中に思い描いた。
瞬間、俺は――皇帝ではなく、太子でもなく、ただの、判断を先延ばしにしたい男になった。
「曹、俺はお前を――」
“赦す”と、口の形をつくりかけた時だった。
「刎 首!」
大声で、日鳳が被せた。
広間は静まり返っている。
皇后も、誰も異を唱えない。
瞬時に、白虎が飛びあがった。
大剣が一閃し、
胴と首が離れた。
白虎の剣が血を払った音を、俺は聞いていなかった。
ただ、息の仕方を忘れたように、目の前の光景だけが動いていた。
こと切れる寸前。
曹は、最後に一度だけ、広間を見回した。
俺はその視線から、目を逸らしてはいけないと――そう思った。
*
「刃を命じたのは、日鳳だ。だが、その言葉が俺の代わりだったことを――俺だけは、分かっていた」
小蘭の手を撫でる指が、いつの間にか震えていた。
そんな蒼龍から、小蘭は目を逸らさない。
それだけで、十分だった。
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