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第三章 帰還
100 上書きできない恋
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「女官長が嘆いていましたよ。未来の皇后様が、後宮を走り回っていると」
「いいの! 大事な助命嘆願の署名なんだから。あ、先生も書いて」
小蘭が筆と竹簡を突き出した。
「はい、はい」
春明は、するすると名前を書きつけた。
「それはそうと……お身体に、お変わりはないですか?」
「うん、思いっ切り元気よ。何で?」
そういう意味ではないのだが……。
きょとんと首を傾げる小蘭に、春明はふっと微笑んだ。
「まあ、お元気ならば良かったです。さあ、こちらへ。黎妃様が、首を長くしてお待ちですよ」
「やった!」
出産の夜から、母子は一番風通しの良い部屋に移っていた。
「小蘭」
小蘭の姿を認めると、赤ちゃんに乳を含ませていた黎妃は、嬉しそうに手を振った。
「うわあ、前よりずっと可愛い」
黎妃の腕の中を覗き込んだ小蘭は、感嘆の声を上げた。
「髪は黒くって、目は碧いのね。優しいお顔は、黎妃様によく似てる」
「抱っこしてみる?」
「大丈夫かな……」
黎妃は、小蘭を隣に座らせると、慎重に小さな生命を小蘭の腕に移しかえた。
ふわりと温かい重みが膝の上に加わり、甘い香りが鼻をくすぐる。
「黎妃様、よかったね。生まれて来れて……良かった」
「ええ、小蘭のおかげ。この子を殺してしまおうなんて、私……何てことを考えていたのかしら」
腕の中の赤ちゃんは、やがてすっと目を閉じた。
「小蘭は、寝かせるのが上手ね。きっといい媽媽になれるわ」
「そ、そうかな」
褒められると、すぐに舞い上がってしまう。
黎妃は、照れ笑う小蘭からその子を抱きとると、寝台の真ん中に置いて寝かせ、横に腰かけた。
「今日、小蘭を呼んだのはね……。これからのことを、少し話しておきたかったから」
小蘭は思わず身構えた。
そんな話が出ることを、どこかで覚悟はしていた。
ずっと胡麻化してはきたが、それは、どこかの時点で決着をつけなければならないことだ。
小蘭は背筋を伸ばした。
すやすや眠る赤ちゃんを見つめていた黎妃だが、やがてゆっくりと口を開いた。
「小蘭、あなたが街に隠れている時、秘密の使者に文を託けたわ。覚えてる?」
「……覚えてる」
『私のことは”蒼大哥には言わないで。”』
その意味は、小蘭の中でまだ消化しきれていない。
「守ってくれた? あの約束」
「……」
小蘭は首を横に振った。
「そう。なら蒼大哥はもう、知っているのね」
「ごめんなさい。あの時は、蒼龍を少しでも安心させたくって」
きちんと背筋を伸ばして聞くつもりだったのに……いたたまれずに、小蘭は言い訳をした。
「あの――私は別に構わないわ。黎妃様となら、きっと上手くやれるもの。蒼龍だって、黎妃さまから言われたら、きっと……喜んで……」
黎妃様は、伏せていた睫毛をそっと上げた。
「違うのよ小蘭。私、復縁は望まない」
「……え?」
「ふふっ、小蘭ったら嘘ばっかり。物分かり良く見せようとしてもダメ。そんな顔で言われても、全然説得力がないわ」
黎妃は優雅に微笑むと、小蘭の背を優しく撫でた。
「私ね、赤ちゃんのお世話に少し慣れたら、後宮を出ようと思っているの」
黎妃が何を言っているのか、すぐには分からなかった。
黎妃は、淡々と続ける。
「先生と相談して決めたわ。ここから少し離れたところに、女ばかりで生活している小さな寺院がある。この子と一緒に、そこでお世話になるつもり」
「な、なんで? どうして? もう皇帝はいないのに……蒼龍のことは……どうするの?」
蒼龍は、黎妃様のことを気にかけている。
黎妃様も、同じ気持ちとばかり思っていたのに。
「――もしかして、先生に何か言われた?」
チラッと春明に意識を向けるも、黎妃は小さく首を振った。
「違うわ」
小蘭は、一瞬躊躇った。
それでも黙っていられず、言葉を選ばない質問をした。
「私が正妃になったのが、嫌だった? それとも、前皇帝のせい? でも、そんなことで」
「あ……は」
あはははっ。
黎妃は、小蘭と初めて会った時のように、天真爛漫に笑った。
「全部外れ。……小蘭って本当にお人好しね。分かってる? 私たち一応、恋敵なのよ」
「それは分かってるつもり」
思わず声を上げた小蘭に、黎妃はしいっ、と人差し指を立てた。
「ご、ごめん」
「ううん……そうね。たまには恋敵らしく、競わせてもらおうかしら?」
黎妃は、解放された縁側の向こう、山の稜線に目を見やった。
「私はね、蒼大哥の事が好き。彼のためなら、何だって出来るわ。何年間も、恐ろしい男に抱かれ続けることだって平気なの」
一つ間を置くと、黎妃は鋭い目線で小蘭を射すくめた。
「小蘭、あなたには出来ないでしょう」
小蘭は黙って顔を伏せた。
胸が、刺されたように痛む。
「私と彼は、戦場で出会ってから、長い時を重ねたわ。初めての恋も私とよ。小蘭にだって、この思い出には、決して立ち入ることができない」
小蘭は、唇を噛み締めた。
すると、黎妃の碧い瞳から、宝石のような涙が零れ落ちた。
「……怖いのよ、私。蒼大哥が……怖い」
「昔と……変わってしまったから?」
低い声で問いかけると、黎妃は首を横に振った。
「違う。似ているのよ、蒼大哥と前皇帝は。ちょっとした仕草や声の響き、ものを考える道筋も」
「どこが! 全然似てな……」
「いいえ、そっくり同じ。本能的に、怖いの!」
小蘭を遮るように、黎妃は声を高くした。ぎゅっと自身の体を抱く。
「私、ずっと皇帝に苛め抜かれてきたわ。恐怖が……身体に染み付いている。やっと逃れられたのに……」
黎妃は、詰めていた息をすっと吐いた。
「蒼大哥に会えば、その恐怖が蘇る」
「そんなことない! 蒼龍は前皇帝なんかと全然違うわ」
黎妃は、力なく首を横に振った。
「分かってるのよ、そんなこと。けれど……私の中では、一番愛する人の記憶と、一番恐ろしい人の記憶が結びついてしまったの」
細い肩が、大きく震えた。
「ふたりは父子よ、年を重ねれば、そのうちもっと似てくるわ。その上、その一番恐ろしい人は、私の一番大切なものの父親でもあるのよ」
黎妃は、優しい顔ですやすやと眠る我が子を見つめた。
それから。
「……もう、たくさん。私は、何にも巻きこまれたくない。この子とふたりで静かに生きる場所が欲しい。後宮から、尻尾を巻いて逃げるのよ」
俯く小蘭の顎に、黎妃はそっと指をかけた。
「逃げないで。こっちを見なさい、小蘭妃」
言われて顔を上げた小蘭に、黎妃は強い視線を投げた。
翡翠の瞳に、まっすぐな光が宿る。
「いい? 私とあなたの大きな違いは。あなたが、苦しみの種類を分かってなお、蒼大哥と一緒に行こうとするところ」
「私だって……変わらないわ。もしも私が、貴女と同じ立場なら」
寄り添おうとする小蘭に、黎妃は、きっぱりと首を横に振った。
「いいえ、貴女は違う。だから彼に選ばれたの。……でも、いいのよ」
黎妃は小蘭から手を離すと、寝台から立ち上がった。
くるりと小蘭を振り向くと、金の髪から美しい光が溢れ出した。
「だって私には、蒼大哥との美しい思い出があるもの。今さら縋って、それを台無しにはしない。小蘭とは、比べさせない。私が彼の生涯一番、決して上書きはさせないわ。どう、悔しいでしょう?」
眩しくて、見ていられない。
爛漫な彼女に、レイラと呼ばれた少女の幻影が重なった。
「あら小蘭、もしかして泣いてるの? あはは、そんなに悔しかった?」
いつしか小蘭は、声を殺して泣いていた。
悔しいのか、悲しいのか……
それとも自分が不甲斐ないのか。
恋では勝った。
でも私はあの人の過去には触れられない。
それでもいい。
私は彼の隣に立つ。
決して逃げない。
恐れない。
私は、あの人の未来になる。
上書きしない。
ただ、今日からを重ねていく。
涙を拭い、小蘭は顔を上げた。
「いいの! 大事な助命嘆願の署名なんだから。あ、先生も書いて」
小蘭が筆と竹簡を突き出した。
「はい、はい」
春明は、するすると名前を書きつけた。
「それはそうと……お身体に、お変わりはないですか?」
「うん、思いっ切り元気よ。何で?」
そういう意味ではないのだが……。
きょとんと首を傾げる小蘭に、春明はふっと微笑んだ。
「まあ、お元気ならば良かったです。さあ、こちらへ。黎妃様が、首を長くしてお待ちですよ」
「やった!」
出産の夜から、母子は一番風通しの良い部屋に移っていた。
「小蘭」
小蘭の姿を認めると、赤ちゃんに乳を含ませていた黎妃は、嬉しそうに手を振った。
「うわあ、前よりずっと可愛い」
黎妃の腕の中を覗き込んだ小蘭は、感嘆の声を上げた。
「髪は黒くって、目は碧いのね。優しいお顔は、黎妃様によく似てる」
「抱っこしてみる?」
「大丈夫かな……」
黎妃は、小蘭を隣に座らせると、慎重に小さな生命を小蘭の腕に移しかえた。
ふわりと温かい重みが膝の上に加わり、甘い香りが鼻をくすぐる。
「黎妃様、よかったね。生まれて来れて……良かった」
「ええ、小蘭のおかげ。この子を殺してしまおうなんて、私……何てことを考えていたのかしら」
腕の中の赤ちゃんは、やがてすっと目を閉じた。
「小蘭は、寝かせるのが上手ね。きっといい媽媽になれるわ」
「そ、そうかな」
褒められると、すぐに舞い上がってしまう。
黎妃は、照れ笑う小蘭からその子を抱きとると、寝台の真ん中に置いて寝かせ、横に腰かけた。
「今日、小蘭を呼んだのはね……。これからのことを、少し話しておきたかったから」
小蘭は思わず身構えた。
そんな話が出ることを、どこかで覚悟はしていた。
ずっと胡麻化してはきたが、それは、どこかの時点で決着をつけなければならないことだ。
小蘭は背筋を伸ばした。
すやすや眠る赤ちゃんを見つめていた黎妃だが、やがてゆっくりと口を開いた。
「小蘭、あなたが街に隠れている時、秘密の使者に文を託けたわ。覚えてる?」
「……覚えてる」
『私のことは”蒼大哥には言わないで。”』
その意味は、小蘭の中でまだ消化しきれていない。
「守ってくれた? あの約束」
「……」
小蘭は首を横に振った。
「そう。なら蒼大哥はもう、知っているのね」
「ごめんなさい。あの時は、蒼龍を少しでも安心させたくって」
きちんと背筋を伸ばして聞くつもりだったのに……いたたまれずに、小蘭は言い訳をした。
「あの――私は別に構わないわ。黎妃様となら、きっと上手くやれるもの。蒼龍だって、黎妃さまから言われたら、きっと……喜んで……」
黎妃様は、伏せていた睫毛をそっと上げた。
「違うのよ小蘭。私、復縁は望まない」
「……え?」
「ふふっ、小蘭ったら嘘ばっかり。物分かり良く見せようとしてもダメ。そんな顔で言われても、全然説得力がないわ」
黎妃は優雅に微笑むと、小蘭の背を優しく撫でた。
「私ね、赤ちゃんのお世話に少し慣れたら、後宮を出ようと思っているの」
黎妃が何を言っているのか、すぐには分からなかった。
黎妃は、淡々と続ける。
「先生と相談して決めたわ。ここから少し離れたところに、女ばかりで生活している小さな寺院がある。この子と一緒に、そこでお世話になるつもり」
「な、なんで? どうして? もう皇帝はいないのに……蒼龍のことは……どうするの?」
蒼龍は、黎妃様のことを気にかけている。
黎妃様も、同じ気持ちとばかり思っていたのに。
「――もしかして、先生に何か言われた?」
チラッと春明に意識を向けるも、黎妃は小さく首を振った。
「違うわ」
小蘭は、一瞬躊躇った。
それでも黙っていられず、言葉を選ばない質問をした。
「私が正妃になったのが、嫌だった? それとも、前皇帝のせい? でも、そんなことで」
「あ……は」
あはははっ。
黎妃は、小蘭と初めて会った時のように、天真爛漫に笑った。
「全部外れ。……小蘭って本当にお人好しね。分かってる? 私たち一応、恋敵なのよ」
「それは分かってるつもり」
思わず声を上げた小蘭に、黎妃はしいっ、と人差し指を立てた。
「ご、ごめん」
「ううん……そうね。たまには恋敵らしく、競わせてもらおうかしら?」
黎妃は、解放された縁側の向こう、山の稜線に目を見やった。
「私はね、蒼大哥の事が好き。彼のためなら、何だって出来るわ。何年間も、恐ろしい男に抱かれ続けることだって平気なの」
一つ間を置くと、黎妃は鋭い目線で小蘭を射すくめた。
「小蘭、あなたには出来ないでしょう」
小蘭は黙って顔を伏せた。
胸が、刺されたように痛む。
「私と彼は、戦場で出会ってから、長い時を重ねたわ。初めての恋も私とよ。小蘭にだって、この思い出には、決して立ち入ることができない」
小蘭は、唇を噛み締めた。
すると、黎妃の碧い瞳から、宝石のような涙が零れ落ちた。
「……怖いのよ、私。蒼大哥が……怖い」
「昔と……変わってしまったから?」
低い声で問いかけると、黎妃は首を横に振った。
「違う。似ているのよ、蒼大哥と前皇帝は。ちょっとした仕草や声の響き、ものを考える道筋も」
「どこが! 全然似てな……」
「いいえ、そっくり同じ。本能的に、怖いの!」
小蘭を遮るように、黎妃は声を高くした。ぎゅっと自身の体を抱く。
「私、ずっと皇帝に苛め抜かれてきたわ。恐怖が……身体に染み付いている。やっと逃れられたのに……」
黎妃は、詰めていた息をすっと吐いた。
「蒼大哥に会えば、その恐怖が蘇る」
「そんなことない! 蒼龍は前皇帝なんかと全然違うわ」
黎妃は、力なく首を横に振った。
「分かってるのよ、そんなこと。けれど……私の中では、一番愛する人の記憶と、一番恐ろしい人の記憶が結びついてしまったの」
細い肩が、大きく震えた。
「ふたりは父子よ、年を重ねれば、そのうちもっと似てくるわ。その上、その一番恐ろしい人は、私の一番大切なものの父親でもあるのよ」
黎妃は、優しい顔ですやすやと眠る我が子を見つめた。
それから。
「……もう、たくさん。私は、何にも巻きこまれたくない。この子とふたりで静かに生きる場所が欲しい。後宮から、尻尾を巻いて逃げるのよ」
俯く小蘭の顎に、黎妃はそっと指をかけた。
「逃げないで。こっちを見なさい、小蘭妃」
言われて顔を上げた小蘭に、黎妃は強い視線を投げた。
翡翠の瞳に、まっすぐな光が宿る。
「いい? 私とあなたの大きな違いは。あなたが、苦しみの種類を分かってなお、蒼大哥と一緒に行こうとするところ」
「私だって……変わらないわ。もしも私が、貴女と同じ立場なら」
寄り添おうとする小蘭に、黎妃は、きっぱりと首を横に振った。
「いいえ、貴女は違う。だから彼に選ばれたの。……でも、いいのよ」
黎妃は小蘭から手を離すと、寝台から立ち上がった。
くるりと小蘭を振り向くと、金の髪から美しい光が溢れ出した。
「だって私には、蒼大哥との美しい思い出があるもの。今さら縋って、それを台無しにはしない。小蘭とは、比べさせない。私が彼の生涯一番、決して上書きはさせないわ。どう、悔しいでしょう?」
眩しくて、見ていられない。
爛漫な彼女に、レイラと呼ばれた少女の幻影が重なった。
「あら小蘭、もしかして泣いてるの? あはは、そんなに悔しかった?」
いつしか小蘭は、声を殺して泣いていた。
悔しいのか、悲しいのか……
それとも自分が不甲斐ないのか。
恋では勝った。
でも私はあの人の過去には触れられない。
それでもいい。
私は彼の隣に立つ。
決して逃げない。
恐れない。
私は、あの人の未来になる。
上書きしない。
ただ、今日からを重ねていく。
涙を拭い、小蘭は顔を上げた。
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