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第1章
宿禰様とのいちにち
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権藤家での生活は、あっという間に過ぎ――気がつけば、嫁いで来てからはやひと月が経っていた。
ただしその半分は、地下で過ごした時間だったのだけれど。
初対面の折に宿禰様が仰ったとおり、私の部屋はニ階にある。瀟洒な出窓のある、風通しと日当たりの良い洋室だ。
何でもこの采配は、宿禰様が重ねて頼みこまれた結果だと聞いた。
分際に厳しいミツ子お義母様も、これには何も仰らなかったという。
権藤家は両口屋よりもはるかに裕福で、使用人やお女中さんも三倍はいらっしゃる。煮炊きや掃除といった家事はすべて彼らが担ってくれるから、私の出番はほとんどない。
お義父様の権藤一徹様は、事業が軌道に乗っているそうで、殆どお屋敷には戻られない。
その分、家の事も事業の一部も、すべてミツ子お義母様がひとりで切り盛りなさっている。
幸か不幸か、このひと月、義父母と顔を合わせる場面は殆どなかったといっていい。
そんな中、私が仰せつかった仕事は、専ら宿禰様の生活のお世話と話相手。
思えばこのひと月は、誰よりも長い時間をとともに過ごしたのは、他ならぬ宿禰様だった。
それでは、権藤家での私の一日を、このひと月を振り返りながら見ていこう。
まず朝は、お姫様のような天蓋付きの寝台で目を覚ます。
出窓をいっぱいに開け、朝日とともに新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。
着物に着替え、寝台の際に置かれたベルを「ちりん、ちりん」と2度鳴らすと、お女中さんが朝餉を運んできてくれる。
「若奥様、おはようございます。わあぁ、今日の京擦りのお着物もよくお似合いです」
「ええ、宿禰様が贈って下さったの。何でもビジネスのために、婦人服の流行を勉強しておられるのだとか」
「あらやだ、『ビジネスに』なんて言っておいて、本当は奥様に喜んでもらいたいだけじゃありませんか?」
「やだ! そんなのじゃないわ。からかわないで」
そんなやり取りに、クスクスと笑い声が混じる。
私の身の回りのことを手伝ってくれるのは、主にこのタミちゃんと、のぶちゃんという、年の近い女の子ふたりだ。
宿禰様のご病気のことは、権藤屋敷の者ならば誰でも知っていて、最初のうちは、名前を聞くだけで怯えていたタミちゃんも、今ではこうして自ら口にするようにまでなった。
おしゃべりを楽しみながら朝食を終えると、私はようやく宿禰様の元に向かう。
朝のこのひとときだけが、お日様の下に居られる時間。だから地下へ向かうの足は、いつもほんの少しだけ遅くなってしまう。
厨房へ寄って宿禰様の朝食を受け取ると、そろりと足元に気を配りながら地下へと向かう。
両手が塞がるこの道は、十分注意しなくてはいけないが、下ではすでに、宿禰様が灯りをともしていて下さる。
「おはようございます、宿禰様」
「おはよう、陽毬さん」
襖を開けると、宿禰様は布団を上げ、文机の前で書き物をしていらっしゃった。そのお姿は、いつも変わらず整っている。
彼の生活は驚くほど規則正しく、隙が無い。どこか張り詰めた緊張感が常に漂い、時おり胸苦しく感じてしまう。
「昨日はよく眠れましたか?」
「ええとても。昨夜はとても涼しくて、風が心地よく吹いていました。宿禰様は?」
「僕は……そうですね。確か、長い夢を見ていた気がします」
「へええ、それはどんな夢?」
「ええっと確か……すみません。忘れてしまいました。小さな頃のことだったかも知れません」
一瞬、言葉が切れた。
ほんのわずかにランプの灯りが揺れたような気がして、私は思わず視線を伏せる。
「そうですか。ではまた、思い出したら教えてくださいね」
「はい、……すみません」
その声はいつも通り穏やかだった。
朝食の支度は一緒にする。殿方が手際よく器を整える姿に驚いていると、
『え? 学生の時分は、ひとりで何でもやっていましたよ』
とさらりと返された。宿禰様にもそんな頃があったのだと思うと、胸の奥がすこしばかり温かく感じられた。
食事の後は、水浴びをなさる。
この病は皮膚の乾燥にとても弱く、一日に二度、朝夕に綺麗な水を肌に与えなくてはならないそうだ。
水浴びの準備は、とても骨が折れるものだった。
浴室の水桶にひたひたになるまで満たさなくてはいけない。はじめのうちは、井戸から浴室までを何往復もするうちに、すっかり腕が痺れてしまっていた。
それでも、宿禰様が階段のすぐ下で水桶を受け取って下さるようになってから、幾分かは楽になった。
もともとこのお役目は男の使用人が担っていたのだが。
ある時たまたまひとりの男が、〝気味が悪い〟などと漏らした時に、私は思わず「私がやります」くちを挟んでしまったのだ。
売り言葉に買い言葉、水運びのつらさを後々思い知る羽目にはなったのだが……。あんな物言いを、私の気性が許すはずもなかった。
水浴びは、宿禰様おひとりで済まされる。
「終わるまでは、決してこちらへは来ないでくださいね」
それはいつものように冗談めいた口調だったが、拒む余地のない圧があった。
私はただ、「はい」と答えることしかできなかった。
水音の向こうで、彼が息を整えている気配がする。私は廊下に椅子を置き、刺繍などをしながら終わるのを待っている。
――けれど、その呼吸が時折、人のものとは思えない、深く、重たいものに感じられて。
気づけば私は、無意識のうちに一歩、襖から距離を取っていた。
ただしその半分は、地下で過ごした時間だったのだけれど。
初対面の折に宿禰様が仰ったとおり、私の部屋はニ階にある。瀟洒な出窓のある、風通しと日当たりの良い洋室だ。
何でもこの采配は、宿禰様が重ねて頼みこまれた結果だと聞いた。
分際に厳しいミツ子お義母様も、これには何も仰らなかったという。
権藤家は両口屋よりもはるかに裕福で、使用人やお女中さんも三倍はいらっしゃる。煮炊きや掃除といった家事はすべて彼らが担ってくれるから、私の出番はほとんどない。
お義父様の権藤一徹様は、事業が軌道に乗っているそうで、殆どお屋敷には戻られない。
その分、家の事も事業の一部も、すべてミツ子お義母様がひとりで切り盛りなさっている。
幸か不幸か、このひと月、義父母と顔を合わせる場面は殆どなかったといっていい。
そんな中、私が仰せつかった仕事は、専ら宿禰様の生活のお世話と話相手。
思えばこのひと月は、誰よりも長い時間をとともに過ごしたのは、他ならぬ宿禰様だった。
それでは、権藤家での私の一日を、このひと月を振り返りながら見ていこう。
まず朝は、お姫様のような天蓋付きの寝台で目を覚ます。
出窓をいっぱいに開け、朝日とともに新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。
着物に着替え、寝台の際に置かれたベルを「ちりん、ちりん」と2度鳴らすと、お女中さんが朝餉を運んできてくれる。
「若奥様、おはようございます。わあぁ、今日の京擦りのお着物もよくお似合いです」
「ええ、宿禰様が贈って下さったの。何でもビジネスのために、婦人服の流行を勉強しておられるのだとか」
「あらやだ、『ビジネスに』なんて言っておいて、本当は奥様に喜んでもらいたいだけじゃありませんか?」
「やだ! そんなのじゃないわ。からかわないで」
そんなやり取りに、クスクスと笑い声が混じる。
私の身の回りのことを手伝ってくれるのは、主にこのタミちゃんと、のぶちゃんという、年の近い女の子ふたりだ。
宿禰様のご病気のことは、権藤屋敷の者ならば誰でも知っていて、最初のうちは、名前を聞くだけで怯えていたタミちゃんも、今ではこうして自ら口にするようにまでなった。
おしゃべりを楽しみながら朝食を終えると、私はようやく宿禰様の元に向かう。
朝のこのひとときだけが、お日様の下に居られる時間。だから地下へ向かうの足は、いつもほんの少しだけ遅くなってしまう。
厨房へ寄って宿禰様の朝食を受け取ると、そろりと足元に気を配りながら地下へと向かう。
両手が塞がるこの道は、十分注意しなくてはいけないが、下ではすでに、宿禰様が灯りをともしていて下さる。
「おはようございます、宿禰様」
「おはよう、陽毬さん」
襖を開けると、宿禰様は布団を上げ、文机の前で書き物をしていらっしゃった。そのお姿は、いつも変わらず整っている。
彼の生活は驚くほど規則正しく、隙が無い。どこか張り詰めた緊張感が常に漂い、時おり胸苦しく感じてしまう。
「昨日はよく眠れましたか?」
「ええとても。昨夜はとても涼しくて、風が心地よく吹いていました。宿禰様は?」
「僕は……そうですね。確か、長い夢を見ていた気がします」
「へええ、それはどんな夢?」
「ええっと確か……すみません。忘れてしまいました。小さな頃のことだったかも知れません」
一瞬、言葉が切れた。
ほんのわずかにランプの灯りが揺れたような気がして、私は思わず視線を伏せる。
「そうですか。ではまた、思い出したら教えてくださいね」
「はい、……すみません」
その声はいつも通り穏やかだった。
朝食の支度は一緒にする。殿方が手際よく器を整える姿に驚いていると、
『え? 学生の時分は、ひとりで何でもやっていましたよ』
とさらりと返された。宿禰様にもそんな頃があったのだと思うと、胸の奥がすこしばかり温かく感じられた。
食事の後は、水浴びをなさる。
この病は皮膚の乾燥にとても弱く、一日に二度、朝夕に綺麗な水を肌に与えなくてはならないそうだ。
水浴びの準備は、とても骨が折れるものだった。
浴室の水桶にひたひたになるまで満たさなくてはいけない。はじめのうちは、井戸から浴室までを何往復もするうちに、すっかり腕が痺れてしまっていた。
それでも、宿禰様が階段のすぐ下で水桶を受け取って下さるようになってから、幾分かは楽になった。
もともとこのお役目は男の使用人が担っていたのだが。
ある時たまたまひとりの男が、〝気味が悪い〟などと漏らした時に、私は思わず「私がやります」くちを挟んでしまったのだ。
売り言葉に買い言葉、水運びのつらさを後々思い知る羽目にはなったのだが……。あんな物言いを、私の気性が許すはずもなかった。
水浴びは、宿禰様おひとりで済まされる。
「終わるまでは、決してこちらへは来ないでくださいね」
それはいつものように冗談めいた口調だったが、拒む余地のない圧があった。
私はただ、「はい」と答えることしかできなかった。
水音の向こうで、彼が息を整えている気配がする。私は廊下に椅子を置き、刺繍などをしながら終わるのを待っている。
――けれど、その呼吸が時折、人のものとは思えない、深く、重たいものに感じられて。
気づけば私は、無意識のうちに一歩、襖から距離を取っていた。
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