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第1章
ご対面
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「お初にお目にかかります。陽毬と申します」
私はさらに頭を深く下げた。
胸の奥で、期待と不安が絡み合い、心臓が早鐘のように鳴っている。
薄暗い地下の雰囲気とは裏腹に、お部屋には品の良い白檀の香りが満ちている。その薫香に、張り詰めていた気持ちがふと緩んだ。
額を床につけたまま、私はそっと視線を上げる。文机に向かい、何か書き物をしていたらしき背中があった。紺の作務衣に包まれた広い背中は、静かで、柔らかな落ち着きを湛えている。
やがて、その御仁は帳面を閉じ、姿勢を正すと、ゆったりとした動作でこちらを振り向いた。
「あ、ども。宿禰っす」
「きっ……」
お作法どおりに顔を上げた瞬間、喉の奥から悲鳴が飛び出しそうになるのを、私は慌てて両の手で口を押さえ込んだ。
……信じられない。
さっきお義母様が、何度も念を押し、約束を取り付けた理由が、今、ようやく分かった。
この契約の意味も、豪胆なお義父様の曖昧な態度も、ご対面の場に同席されなかった理由も全て――頭の中で、ばらばらだったそれら全てが繋がった。
目の前に居る、作務衣姿で照れくさそうに頭を掻いている青年。
その姿は紛れもなく、巨大で、人の言葉を話す――
蛙だった。
「あ、あ、あ、あ……」
これは、病なのだろうか。
思わず後ろを振り向けば、すでにお義母様の姿はない。
……もしかして、お逃げになられた?
恐る恐るお顔の向きを前に戻すと、目の前の彼は困ったように笑っていた。
「いやあ、びっくりしましたよね? そりゃしますよね、やっぱり。あ、でもどうか安心してくださいね。僕、妖怪とか物怪じゃないですし、ちゃんと人間なんで。取って食ったりとか、そういうのはしませんから」
「……あ」
一瞬、現実を飲み込むために、ほんの短い間をおいて。
私は深呼吸で息を整えながら、言葉を探した。
「あの……、そう。かような病は初めて目にしたものですから、つい驚いてしまいました。どうか無礼をお赦くしくださいませ」
「へ……え」
彼は、通常の人よりは随分と高い位置にある黒い瞳をきょろりと動かし、ぱっと表情を輝かせた。
「貴女、僕が恐ろしくはないのですか? 地下へ来た方々は皆、母上でさえ、長くは居られず逃げてしまわれるというのに」
「ええっと……、その。恐ろしくないかといえば、正直嘘になります」
床の木目をなぞるように追いかけながら、私は考えをまとめた。
「ですが、あなた様の所作振る舞いや、気取らない物言いは、私のことをなるべく驚かすまいとするお心遣いに満ちていました。それを感じ取った以上、私も相応の態度でお答えしなくては、と」
私は、顔を上げると真っすぐに彼を見つめた。
「……なるほど」
彼は、感心したように腕を組むと、大きな口元に手をあてた。
「貴女は、大層肝の座ったお方だ。これまでに5人、花嫁として地下へ来られましたが、皆、僕を見るなり悲鳴を上げて、逃げ出してしまいました。だってほら、僕の面相は蛙みたいでしょう?」
「ええ、少し……ふふっ」
水かきがうっすらついた両手で己の顔を指差す仕草がどこか剽軽で、思わず笑みがこぼれる。
すると、彼もつられるようにははは、と笑った。
「ただでさえこの姿、ましてやご婦人方が最も嫌う蟲の相だ。前の方などは、すっかり腰を抜かしてしまって。『どうか食べないでくださいまし』と泣いておられましたよ」
「あの……、私もよく、変わりものだと言われますの」
今度は、私が自分のことを語る番だった。
「蟲も、物怪も、さほど怖いとは思いません。好奇心のほうが勝ってしまって。女学校でも浮いてしまって、よく叱られていました。父や母もほとほと手を焼いていたと思います」
「あっはっは。それは、僕にとって幸運でした」
彼は、心から嬉しそうに笑った。
「貴女が変わり者で、本当に良かった。こんなに美しく聡明な方が来てくださるとは思いませんでした。まるで……夢みたいだ」
安心したのか、私はつい、矢継ぎ早に尋ねてしまう。
「あの、ちなみにその病はいつから? お医者様は何と仰られて? お義母様は、私の看病次第で治癒するものと――」
「ははは、そのあたりは、またいずれ」
彼はやんわりと遮ると、穏やかに告げた。
「さあ、今日はもう、ゆっくりと休まれてください。貴女のお部屋は、父が地上に一番日当たりの良い部屋を用意してくれているはずです」
「……お部屋は別々なのですか」
「ええ、母からはお叱りを受けましたが、僕からお願いしました。貴女がここに居る間、少しでも快適に過ごせるように」
「え」
その言葉には、まるでそれが永続ではないような、どこか期限を示すような響きがあった。
だが、その意味を考えらえる余裕は、この時の私にはなかった。
「はい、ではお言葉に甘えて」
改めて三つ指を突くと、頭上から少し慌てたような、けれど優しい声が響いてくる。
「ああ、どうか御顔をお上げ下さい。貴女のことは、〝陽毬さん〟とお呼びしたらいいのかな?」
「はい、では私は、〝宿禰様〟と」
「では改めまして。よろしくお願いしますね、陽毬さん」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします。宿禰様」
つるりと滑らかな青白い手にそっと触れる。
黒い瞳がまたきらきらと光った。
*
地下を上がると、同い年くらいのお女中さんが控えていて、私をお部屋に案内しくれた。
二階の洋室は、驚くほどに贅沢だった。
白い出窓にレエスフリルの天蓋つきの寝台、白い猫足の鏡台。まるで西洋の物語の中に迷い込んだような、調度品の数々。
帯を解いてもらい、浴衣を渡してくれた後、お女中さんは折目正しく礼をして静かに去っていった。
「は~、疲れたぁ」
ひとりになった途端、羽根布団に身を投げ出す。
今日一日で得た情報は、あまりに奇抜で、すぐに感情が追いつかない。
それでも――
宿禰様の、鯱張らない気さくな物言いと、変わり者だと言われる私を肯定してくれたことが、暖かく胸に残っていた。
そして私は、直観的に感じていた。
宿禰様が、これからの私の人生に深くかかわる存在になるのだろうと。
私はさらに頭を深く下げた。
胸の奥で、期待と不安が絡み合い、心臓が早鐘のように鳴っている。
薄暗い地下の雰囲気とは裏腹に、お部屋には品の良い白檀の香りが満ちている。その薫香に、張り詰めていた気持ちがふと緩んだ。
額を床につけたまま、私はそっと視線を上げる。文机に向かい、何か書き物をしていたらしき背中があった。紺の作務衣に包まれた広い背中は、静かで、柔らかな落ち着きを湛えている。
やがて、その御仁は帳面を閉じ、姿勢を正すと、ゆったりとした動作でこちらを振り向いた。
「あ、ども。宿禰っす」
「きっ……」
お作法どおりに顔を上げた瞬間、喉の奥から悲鳴が飛び出しそうになるのを、私は慌てて両の手で口を押さえ込んだ。
……信じられない。
さっきお義母様が、何度も念を押し、約束を取り付けた理由が、今、ようやく分かった。
この契約の意味も、豪胆なお義父様の曖昧な態度も、ご対面の場に同席されなかった理由も全て――頭の中で、ばらばらだったそれら全てが繋がった。
目の前に居る、作務衣姿で照れくさそうに頭を掻いている青年。
その姿は紛れもなく、巨大で、人の言葉を話す――
蛙だった。
「あ、あ、あ、あ……」
これは、病なのだろうか。
思わず後ろを振り向けば、すでにお義母様の姿はない。
……もしかして、お逃げになられた?
恐る恐るお顔の向きを前に戻すと、目の前の彼は困ったように笑っていた。
「いやあ、びっくりしましたよね? そりゃしますよね、やっぱり。あ、でもどうか安心してくださいね。僕、妖怪とか物怪じゃないですし、ちゃんと人間なんで。取って食ったりとか、そういうのはしませんから」
「……あ」
一瞬、現実を飲み込むために、ほんの短い間をおいて。
私は深呼吸で息を整えながら、言葉を探した。
「あの……、そう。かような病は初めて目にしたものですから、つい驚いてしまいました。どうか無礼をお赦くしくださいませ」
「へ……え」
彼は、通常の人よりは随分と高い位置にある黒い瞳をきょろりと動かし、ぱっと表情を輝かせた。
「貴女、僕が恐ろしくはないのですか? 地下へ来た方々は皆、母上でさえ、長くは居られず逃げてしまわれるというのに」
「ええっと……、その。恐ろしくないかといえば、正直嘘になります」
床の木目をなぞるように追いかけながら、私は考えをまとめた。
「ですが、あなた様の所作振る舞いや、気取らない物言いは、私のことをなるべく驚かすまいとするお心遣いに満ちていました。それを感じ取った以上、私も相応の態度でお答えしなくては、と」
私は、顔を上げると真っすぐに彼を見つめた。
「……なるほど」
彼は、感心したように腕を組むと、大きな口元に手をあてた。
「貴女は、大層肝の座ったお方だ。これまでに5人、花嫁として地下へ来られましたが、皆、僕を見るなり悲鳴を上げて、逃げ出してしまいました。だってほら、僕の面相は蛙みたいでしょう?」
「ええ、少し……ふふっ」
水かきがうっすらついた両手で己の顔を指差す仕草がどこか剽軽で、思わず笑みがこぼれる。
すると、彼もつられるようにははは、と笑った。
「ただでさえこの姿、ましてやご婦人方が最も嫌う蟲の相だ。前の方などは、すっかり腰を抜かしてしまって。『どうか食べないでくださいまし』と泣いておられましたよ」
「あの……、私もよく、変わりものだと言われますの」
今度は、私が自分のことを語る番だった。
「蟲も、物怪も、さほど怖いとは思いません。好奇心のほうが勝ってしまって。女学校でも浮いてしまって、よく叱られていました。父や母もほとほと手を焼いていたと思います」
「あっはっは。それは、僕にとって幸運でした」
彼は、心から嬉しそうに笑った。
「貴女が変わり者で、本当に良かった。こんなに美しく聡明な方が来てくださるとは思いませんでした。まるで……夢みたいだ」
安心したのか、私はつい、矢継ぎ早に尋ねてしまう。
「あの、ちなみにその病はいつから? お医者様は何と仰られて? お義母様は、私の看病次第で治癒するものと――」
「ははは、そのあたりは、またいずれ」
彼はやんわりと遮ると、穏やかに告げた。
「さあ、今日はもう、ゆっくりと休まれてください。貴女のお部屋は、父が地上に一番日当たりの良い部屋を用意してくれているはずです」
「……お部屋は別々なのですか」
「ええ、母からはお叱りを受けましたが、僕からお願いしました。貴女がここに居る間、少しでも快適に過ごせるように」
「え」
その言葉には、まるでそれが永続ではないような、どこか期限を示すような響きがあった。
だが、その意味を考えらえる余裕は、この時の私にはなかった。
「はい、ではお言葉に甘えて」
改めて三つ指を突くと、頭上から少し慌てたような、けれど優しい声が響いてくる。
「ああ、どうか御顔をお上げ下さい。貴女のことは、〝陽毬さん〟とお呼びしたらいいのかな?」
「はい、では私は、〝宿禰様〟と」
「では改めまして。よろしくお願いしますね、陽毬さん」
「はい、こちらこそ、よろしくお願いします。宿禰様」
つるりと滑らかな青白い手にそっと触れる。
黒い瞳がまたきらきらと光った。
*
地下を上がると、同い年くらいのお女中さんが控えていて、私をお部屋に案内しくれた。
二階の洋室は、驚くほどに贅沢だった。
白い出窓にレエスフリルの天蓋つきの寝台、白い猫足の鏡台。まるで西洋の物語の中に迷い込んだような、調度品の数々。
帯を解いてもらい、浴衣を渡してくれた後、お女中さんは折目正しく礼をして静かに去っていった。
「は~、疲れたぁ」
ひとりになった途端、羽根布団に身を投げ出す。
今日一日で得た情報は、あまりに奇抜で、すぐに感情が追いつかない。
それでも――
宿禰様の、鯱張らない気さくな物言いと、変わり者だと言われる私を肯定してくれたことが、暖かく胸に残っていた。
そして私は、直観的に感じていた。
宿禰様が、これからの私の人生に深くかかわる存在になるのだろうと。
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