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第1章
契約結婚
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近頃流行の和洋折衷の大屋敷は、夕映えの中、しんと静まり返っていた。回廊に面したお庭には、丁寧に刈り込まれたさつきの垣根が乱れ咲き、紅と白が西日に照らされ、鮮やかに浮かび上がっている。
お義母様は、長い回廊をいくつも折れ、行き止まりの袋小路でようやく足を止められた。
――この先にお部屋などないように思えるが。
私は密かに息を呑んだ。
「――陽毬さん」
「は、はい」
急に名を呼ばれて我にかえる。
振り向いたお義母様が、嫋やかに微笑みながら、こちらを見ていた。
夕映に透ける白粉のお顔が、半ば紅く染まっていた。
西日に眉をわずかに顰めたその表情は、どこか憂いを帯びて見える。
「あなたを迎えるにあたり……ひとつだけ、大切なことをお伝えしておきます」
落ち着いた声だが、かすかに震えが混じっている。
「宿禰は今、とある病のために本来とは全く違う姿をしています。ですが——決して悲鳴を上げたり、怖がったりなさいませんように」
「……はい」
言葉の端に、祈るような響きがあった。
そんなことを、見る前に言われても困る、そう思ったが、口には出さなかった。
私が頷くと、彼女はほっと息を吐いた。
「もう一つ、両口屋のお父様にもお話ししておりますが……この病は、妻となるあなたが真心を尽くして仕えることで、癒えることがありますの」
果たして、そのような病があるものだろうか。それはあまりに都合がよく、どこか非現実的な香りがする。
だがお義母様の瞳には、確かな期待の火が揺れていた。
「え、ええ。確か……お父様もそのような事を」
「ええそう。そして、もし宿禰の病が完治したあかつきには——」
ほんの一瞬、彼女は間をおいた。
「あなたは晴れて自由の身。この婚姻ははじめからなかったことに致します」
思わず、ひゅっと息を詰める。
「無論、両口屋への援助はそのまま続けますわ。陽毬さんも、望まぬ結婚などお嫌でしょう? 宿禰の病さえ直していただけたら、好いた男性と縁を結び直そうとも、女学校に戻って勉学に励んで頂いても構わないわ」
「え!」
思わず顔が綻んで、慌てて白無垢の袖に隠した。
——待って、つまりそれは。
宿禰様という方のご病気さえ治せば、私は自由になれる。
また女学校に通うことも許されるのだ。
つまりお義母様は、嫁を欲しているのではない、とにかく息子の病を治してほしいのだ。
私への期待は、私自身ではなく——そのお役目に向けられている。
――これは、嫁入りではなく、
誰かの人生を引き受ける契約。
そう思うと、使命感に気分が上がった。不思議と心は冷えなかった。
このお方だって本当は、第一印象とは違い、ただ子の病に心を痛めている、普通の母なのかも知れない。
私は猫を被るのをやめ、思い切って尋ねた。
「お義母様、私、精一杯努めますわ。それで、その病とは一体どのようなものなのですか?」
「……」
お義母様は、一瞬言葉に詰まったように視線を落とした。
「契約の内容から察していただけると思いますが……少々特殊なものですの。すぐにお分かりになりますわ。さ、着いていらして」
さり気無く質問を躱すと、お義母様は壁に手を伸ばした。
一見、何もないように見える壁を押すと、20センチ四方ほど板がぽんと外れ、ぽっかりと壁に穴があく。
その中に、隠し棚があり、木で拵えたレバーが見えた。
「これは……」
目を見張る私の前で、お義母様がそれを引く。
すると、次の瞬間、足元に地下へと通じる隠し階段が現れた。
「……!」
言葉を失う私をよそに、お義母様は手慣れた様子で手提げランプを取り出し、火を灯した。
「さあ、ご一緒に」
下から照らされたお義母様のお顔は、地下への通路とあいまって、どこか異様な影を落としている。
正直、怖い。
けれど……。
秘密の地下への入り口なんて、まるで忍者屋敷のよう。
少しだけ心が踊った。
恐ろしさよりも好奇心が勝ってしまうのは、昔からの悪い癖だ。
私は、白無垢の裾をぐっと持ち上げ、転ばぬように足袋のつま先に力を込める。
お義母様の後に続き、階段をそろりそろりと降りていった。
地下は思ったよりもずっと広く、整然としていた。廊下の左右には襖が並び、いくつもの灯りが隅々まで行き渡っている。
なるほど、宿禰様という御仁はこのような場所で暮らしいてらっしゃるのか。
しかし、ここまで隠さなければならない姿とは、一体どのようなものだろう。
幼い頃、お父様と観たお芝居——四谷怪談のお岩さんのように、お顔が崩れているのだろうか。
どくん。
ふいに、胸が早鐘を打ち始め、思わず自分の腕を抱いた。
やがて、奥に並んだ襖の前で、お義母様が足を止めた。
「さあ、こちらが宿禰のお部屋です」
手提げランプを横に置き、正座をしたお義母様が、中に向かって声をかけた。
「宿禰や、あなたの花嫁がご到着されましたよ」
労わるような優しい声音は、初めて聞く〝母〟の声だった。
その後ろで、私も同じように正座をし、三つ指をつく。
どくん。
いよいよ、私の伴侶となる方との対面だ。
襖の向こうに、人の気配。衣擦れの音がかすかに聞こえた。
「あ、はい。どうぞ」
深く、穏やかな声色が響いた。
それだけで――
不思議と胸の奥のざわめきが静まるような。
お義母様が、がらりと襖戸を開いた――。
お義母様は、長い回廊をいくつも折れ、行き止まりの袋小路でようやく足を止められた。
――この先にお部屋などないように思えるが。
私は密かに息を呑んだ。
「――陽毬さん」
「は、はい」
急に名を呼ばれて我にかえる。
振り向いたお義母様が、嫋やかに微笑みながら、こちらを見ていた。
夕映に透ける白粉のお顔が、半ば紅く染まっていた。
西日に眉をわずかに顰めたその表情は、どこか憂いを帯びて見える。
「あなたを迎えるにあたり……ひとつだけ、大切なことをお伝えしておきます」
落ち着いた声だが、かすかに震えが混じっている。
「宿禰は今、とある病のために本来とは全く違う姿をしています。ですが——決して悲鳴を上げたり、怖がったりなさいませんように」
「……はい」
言葉の端に、祈るような響きがあった。
そんなことを、見る前に言われても困る、そう思ったが、口には出さなかった。
私が頷くと、彼女はほっと息を吐いた。
「もう一つ、両口屋のお父様にもお話ししておりますが……この病は、妻となるあなたが真心を尽くして仕えることで、癒えることがありますの」
果たして、そのような病があるものだろうか。それはあまりに都合がよく、どこか非現実的な香りがする。
だがお義母様の瞳には、確かな期待の火が揺れていた。
「え、ええ。確か……お父様もそのような事を」
「ええそう。そして、もし宿禰の病が完治したあかつきには——」
ほんの一瞬、彼女は間をおいた。
「あなたは晴れて自由の身。この婚姻ははじめからなかったことに致します」
思わず、ひゅっと息を詰める。
「無論、両口屋への援助はそのまま続けますわ。陽毬さんも、望まぬ結婚などお嫌でしょう? 宿禰の病さえ直していただけたら、好いた男性と縁を結び直そうとも、女学校に戻って勉学に励んで頂いても構わないわ」
「え!」
思わず顔が綻んで、慌てて白無垢の袖に隠した。
——待って、つまりそれは。
宿禰様という方のご病気さえ治せば、私は自由になれる。
また女学校に通うことも許されるのだ。
つまりお義母様は、嫁を欲しているのではない、とにかく息子の病を治してほしいのだ。
私への期待は、私自身ではなく——そのお役目に向けられている。
――これは、嫁入りではなく、
誰かの人生を引き受ける契約。
そう思うと、使命感に気分が上がった。不思議と心は冷えなかった。
このお方だって本当は、第一印象とは違い、ただ子の病に心を痛めている、普通の母なのかも知れない。
私は猫を被るのをやめ、思い切って尋ねた。
「お義母様、私、精一杯努めますわ。それで、その病とは一体どのようなものなのですか?」
「……」
お義母様は、一瞬言葉に詰まったように視線を落とした。
「契約の内容から察していただけると思いますが……少々特殊なものですの。すぐにお分かりになりますわ。さ、着いていらして」
さり気無く質問を躱すと、お義母様は壁に手を伸ばした。
一見、何もないように見える壁を押すと、20センチ四方ほど板がぽんと外れ、ぽっかりと壁に穴があく。
その中に、隠し棚があり、木で拵えたレバーが見えた。
「これは……」
目を見張る私の前で、お義母様がそれを引く。
すると、次の瞬間、足元に地下へと通じる隠し階段が現れた。
「……!」
言葉を失う私をよそに、お義母様は手慣れた様子で手提げランプを取り出し、火を灯した。
「さあ、ご一緒に」
下から照らされたお義母様のお顔は、地下への通路とあいまって、どこか異様な影を落としている。
正直、怖い。
けれど……。
秘密の地下への入り口なんて、まるで忍者屋敷のよう。
少しだけ心が踊った。
恐ろしさよりも好奇心が勝ってしまうのは、昔からの悪い癖だ。
私は、白無垢の裾をぐっと持ち上げ、転ばぬように足袋のつま先に力を込める。
お義母様の後に続き、階段をそろりそろりと降りていった。
地下は思ったよりもずっと広く、整然としていた。廊下の左右には襖が並び、いくつもの灯りが隅々まで行き渡っている。
なるほど、宿禰様という御仁はこのような場所で暮らしいてらっしゃるのか。
しかし、ここまで隠さなければならない姿とは、一体どのようなものだろう。
幼い頃、お父様と観たお芝居——四谷怪談のお岩さんのように、お顔が崩れているのだろうか。
どくん。
ふいに、胸が早鐘を打ち始め、思わず自分の腕を抱いた。
やがて、奥に並んだ襖の前で、お義母様が足を止めた。
「さあ、こちらが宿禰のお部屋です」
手提げランプを横に置き、正座をしたお義母様が、中に向かって声をかけた。
「宿禰や、あなたの花嫁がご到着されましたよ」
労わるような優しい声音は、初めて聞く〝母〟の声だった。
その後ろで、私も同じように正座をし、三つ指をつく。
どくん。
いよいよ、私の伴侶となる方との対面だ。
襖の向こうに、人の気配。衣擦れの音がかすかに聞こえた。
「あ、はい。どうぞ」
深く、穏やかな声色が響いた。
それだけで――
不思議と胸の奥のざわめきが静まるような。
お義母様が、がらりと襖戸を開いた――。
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