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第1章
権藤家
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さて、半年間の準備期間はあっという間に過ぎ――結婚当日とあいなった。
「陽毬と申します。ふつつかものですが、よろしくお願い申し上げます」
「がはは! 業界の老舗、両口屋のお嬢さんがうちに嫁いで来てくれるとはなあ。まるで夢のようだ。さあさあ、堅い挨拶は抜きにして、楽にしなさい」
ついこの間まで女学生だった身には、その声の大きさだけでも少し息苦しい。
ご子息の宿禰が長らく療養中で、人前には出せない身体だという話は、両口屋にも伝わっていた。
そのため、この嫁入りには結納やお式といったものは一切無い。白無垢に身を包んだ私ひとりが、わずかな嫁入り道具とともに、権藤家へと運ばれただけだった。
苦境にある両口屋家を慮ってか、衣装も道具も不要だと先方は言ったが――。
「それでは、陽毬があんまり可哀想だわ」
そう言って母は泣き、せめてもと、かつて自分が袖を通した白無垢を、私に持たせてくれた。
その純白が、今、この部屋ではひどく浮いて見える。
革張りのソファに、てかてかと磨かれた大理石の床。お義父様が手にしている、金色に光る日の丸の扇子。
白無垢の冴えた白はこの部屋のどこにも馴染まず、まるで置き場を失った花嫁人形のようだった。
「ほら、立っていては疲れるだろう、こっちへいらっしゃい」
「いえ、……私はこちらで」
豪快に笑うお義父様の誘いを断り、かろうじて下座となる入り口側に腰を下ろす。
すると目に入ってくるのは、てかてか光る亀の甲羅や鮮やかすぎる色味をした虎の毛皮――いかにも偽物めいた調度品ばかりだ。
同じ実業家でも、品のあるお父様とはあまりに違う。
「おお、なんともめんこいお嫁さんだ。権藤の家にこんな可愛い娘が来てくれるとは、宿禰も果報者だのう。なあ、ミツ子や……」
ひどく大袈裟な喜び様に、笑顔を作って応じたものの、心の奥はしんと冷えたままだった。
その笑い声とは裏腹に、お義父様の眼の奥は少しも笑っていないから。
この方は、何を隠しているのだろうか――そんな疑念だけが、胸の底に澱のように溜まってゆく。
一方で、彼とは対照的に、終始無言を貫いているお義母様の存在は、別の意味で私を落ち着かなくさせた。
世にも美しいその御顔は、能面のように動かない。
お義父様が笑うたびに、目じりはかすかに吊り上がるものの、頬の筋肉がちっとも動いていないのだ。
「何ですか、あれは……まるで蛇のようだわ!」
顔合わせの後、実家のお母様が、そう評していたのを思い出す。
「考えすぎだ」と父が母を宥めていたが、内心、私も手強さを感じていた。
……もっとも、お母様が心配するほど、私は弱くないつもりだけれど。
と、感極まった様子で、お義父様が、手酌でグラスに洋酒を注ぎ始めた。
「あ、私が」
「いやいや、いいとこのお嬢さんにそんな真似はさせられんよ。祝い酒じゃ。陽毬さんはいける口かい?」
ミツ子お義母様が、ジロリとお義父様をねめつける。
それを見て私も即座に断った。
「あ、あの……すみません。私もその、あまりお酒は嗜まなくて。お気持ちだけ、いただきます」
父の影響もあり、本当は嫌いではないのだが。
ここで素を見せるほど、私はまだ、この家を信用してはいなかった。
「ふむ……そうか」
お義父様は、少し残念そうにしながらも、すぐに気を取り直し、また陽気な声に戻った。
「まあ、本来ならもっと盛大に祝いの席を設けるところだが……息子の宿禰のせいで、本当に申し訳ないことをした。せめて権藤家ではゆったりと過ごしてほしい」
「あなた」
ここで初めて、お義母様が口を挟んだ。
「ねえ、あなた。おひとりで楽しんでいないで、そろそろ花嫁を宿禰に紹介してあげては? あの子、きっと待ち侘びておりますわ」
その声は、妙に平坦で、抑揚がない。
暖かいお部屋のはずなのに、何故か肩口にうすら寒さを覚えた。
「ん……むう。しかし、陽毬さんも今日は疲れているだろう。対面は明日以降でも――」
「あなた!」
ぴしゃりと、言葉が被せられる。
「ああもう、分かった分かった!」
お義父様は、観念したように手を振った。
「ではミツ子や、陽毬さんを、宿禰の元へ」
「はい、承知いたしました」
一礼するとお義母様は、早速と言わんばかりに腰を上げる。
「さ、参りましょう、陽毬さん」
「は、はい」
その瞬間、彼女の口角がほんのわずかに吊り上がった。
薄い唇から覗いた白い歯を見た途端、胸の奥がしんと冷えるのを感じた。
――私は今、この家の奥へ連れていかれようとしている。
まだ顔も知らない夫、
権藤宿禰の元へ――。
「陽毬と申します。ふつつかものですが、よろしくお願い申し上げます」
「がはは! 業界の老舗、両口屋のお嬢さんがうちに嫁いで来てくれるとはなあ。まるで夢のようだ。さあさあ、堅い挨拶は抜きにして、楽にしなさい」
ついこの間まで女学生だった身には、その声の大きさだけでも少し息苦しい。
ご子息の宿禰が長らく療養中で、人前には出せない身体だという話は、両口屋にも伝わっていた。
そのため、この嫁入りには結納やお式といったものは一切無い。白無垢に身を包んだ私ひとりが、わずかな嫁入り道具とともに、権藤家へと運ばれただけだった。
苦境にある両口屋家を慮ってか、衣装も道具も不要だと先方は言ったが――。
「それでは、陽毬があんまり可哀想だわ」
そう言って母は泣き、せめてもと、かつて自分が袖を通した白無垢を、私に持たせてくれた。
その純白が、今、この部屋ではひどく浮いて見える。
革張りのソファに、てかてかと磨かれた大理石の床。お義父様が手にしている、金色に光る日の丸の扇子。
白無垢の冴えた白はこの部屋のどこにも馴染まず、まるで置き場を失った花嫁人形のようだった。
「ほら、立っていては疲れるだろう、こっちへいらっしゃい」
「いえ、……私はこちらで」
豪快に笑うお義父様の誘いを断り、かろうじて下座となる入り口側に腰を下ろす。
すると目に入ってくるのは、てかてか光る亀の甲羅や鮮やかすぎる色味をした虎の毛皮――いかにも偽物めいた調度品ばかりだ。
同じ実業家でも、品のあるお父様とはあまりに違う。
「おお、なんともめんこいお嫁さんだ。権藤の家にこんな可愛い娘が来てくれるとは、宿禰も果報者だのう。なあ、ミツ子や……」
ひどく大袈裟な喜び様に、笑顔を作って応じたものの、心の奥はしんと冷えたままだった。
その笑い声とは裏腹に、お義父様の眼の奥は少しも笑っていないから。
この方は、何を隠しているのだろうか――そんな疑念だけが、胸の底に澱のように溜まってゆく。
一方で、彼とは対照的に、終始無言を貫いているお義母様の存在は、別の意味で私を落ち着かなくさせた。
世にも美しいその御顔は、能面のように動かない。
お義父様が笑うたびに、目じりはかすかに吊り上がるものの、頬の筋肉がちっとも動いていないのだ。
「何ですか、あれは……まるで蛇のようだわ!」
顔合わせの後、実家のお母様が、そう評していたのを思い出す。
「考えすぎだ」と父が母を宥めていたが、内心、私も手強さを感じていた。
……もっとも、お母様が心配するほど、私は弱くないつもりだけれど。
と、感極まった様子で、お義父様が、手酌でグラスに洋酒を注ぎ始めた。
「あ、私が」
「いやいや、いいとこのお嬢さんにそんな真似はさせられんよ。祝い酒じゃ。陽毬さんはいける口かい?」
ミツ子お義母様が、ジロリとお義父様をねめつける。
それを見て私も即座に断った。
「あ、あの……すみません。私もその、あまりお酒は嗜まなくて。お気持ちだけ、いただきます」
父の影響もあり、本当は嫌いではないのだが。
ここで素を見せるほど、私はまだ、この家を信用してはいなかった。
「ふむ……そうか」
お義父様は、少し残念そうにしながらも、すぐに気を取り直し、また陽気な声に戻った。
「まあ、本来ならもっと盛大に祝いの席を設けるところだが……息子の宿禰のせいで、本当に申し訳ないことをした。せめて権藤家ではゆったりと過ごしてほしい」
「あなた」
ここで初めて、お義母様が口を挟んだ。
「ねえ、あなた。おひとりで楽しんでいないで、そろそろ花嫁を宿禰に紹介してあげては? あの子、きっと待ち侘びておりますわ」
その声は、妙に平坦で、抑揚がない。
暖かいお部屋のはずなのに、何故か肩口にうすら寒さを覚えた。
「ん……むう。しかし、陽毬さんも今日は疲れているだろう。対面は明日以降でも――」
「あなた!」
ぴしゃりと、言葉が被せられる。
「ああもう、分かった分かった!」
お義父様は、観念したように手を振った。
「ではミツ子や、陽毬さんを、宿禰の元へ」
「はい、承知いたしました」
一礼するとお義母様は、早速と言わんばかりに腰を上げる。
「さ、参りましょう、陽毬さん」
「は、はい」
その瞬間、彼女の口角がほんのわずかに吊り上がった。
薄い唇から覗いた白い歯を見た途端、胸の奥がしんと冷えるのを感じた。
――私は今、この家の奥へ連れていかれようとしている。
まだ顔も知らない夫、
権藤宿禰の元へ――。
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